竹中稲荷神社-鳥居
宗忠神社の「勅使門」と呼ばれる鳥居を出ると、
北側に竹中稲荷神社の鳥居が並んでいます。
現在は宗忠神社を出た所に東西の車道が通り、竹中稲荷神社参道の東側には
民家が並んでいます。
竹中稲荷神社-社務所
参道を進むと東側に社務所があります。
竹中稲荷神社-拝殿
その先に拝殿があります。
竹中稲荷神社-本殿-1
本殿
竹中稲荷神社の創建に関する詳細は不明ですが、「竹中」とあることから、
当時は竹林の中にあったのかもしれません。
在原業平(ありわら の なりひら:825~880)が、「神楽岡稲荷神杜の付近に
住していた」と記してあることから天長年間(824~834)には
既に社殿があったと推察されています。
吉田神社の創建は貞観元年(859)とされていますので、
それよりも古くから祀られていたことになります。
その後の変遷も不詳ですが、江戸時代末期には多くの参詣者で賑わい、
明治5年(1872)に吉田神社の末社となり、
現在の社殿は天保11年(1840)の造営とされています。
竹中稲荷神社-本殿-2
宇賀御魂神・猿田彦神・天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三柱が祀られていますが、
伏見稲荷大社では宇賀御魂神・猿田彦神・大宮売神(おおみやのめのかみ)の三柱を
稲荷三神としています。
平安京遷都に秦氏の影響力があり、それまで秦氏が私的に祀っていた稲荷神が
天長4年(827)に従五位下の神階が下賜された事により、京の人々から
崇敬されるようになったと伝わります。
五穀豊穣を願い、東山三十六峰の最南端である稲荷山より都に近い十二峰の吉田山に
勧請されたのかもしれません。
天満宮
左には天満宮があります。
かっては地福院で奉祀されていましたが、嘉永5年(1852)に現在地へ遷座され、
明治5年(1872)に吉田神社の末社となりました。
地福院は現在の宗忠神社付近にあったと伝わりますが、明治の神仏分離令による
廃仏毀釈で廃寺となりました。
天満宮-臥牛像
菅原道真が祀られ、社殿前に臥牛像が奉納されています。
天満宮-鳥居
独立した神社であったことから鳥居が建立されています。
竹丸神社
竹中稲荷神社の本殿前に、まだ新しそうな二つの社殿が並んでいます。
その間の石灯籠には「竹丸神社」と記されていますが、詳細は不明です。
若竹大神
その手前にも鳥居が建ち、同様の社殿がありますが、石灯籠に記されているのを
見落としました。
その右側の石碑には「若竹大神」と刻まれています。
お塚
二つ並んだ社殿の横を奥へ進むと伏見稲荷大社のお塚のような光景が広がります。
お塚とは稲荷大神に別名を付けて個人またはグループで信仰する人々が奉納したもので、
中には後継する人が無く、寂れているものもあります。
「竹」の字が付く名が多く見られ、この地と竹の関係が表されているように思えます。
竹釼稲荷神社-1
その参道の一番奥まった所に奥之院・竹釼稲荷神社があります。
竹釼稲荷神社-2
伏見稲荷大社に御剱の滝(みつるぎのたき)があり、釼も「つるぎ」ですが、
正しい読み方は不明です。
「けん」とも読めることから「ちくけんいなりじんじゃ」でしょうか?
薬力社
少し戻って竹中稲荷神社の裏側付近を西へ入ると薬力社があります。
薬力社も伏見稲荷大社にあります。
業平塚
薬力社の奥に業平塚があります。
詳細は不明ですが、竹中稲荷神社付近に業平の居宅があったことに
関係しているのかもしれません。
在原業平は、晩年を十輪寺で過ごし、神楽岡で葬られることを望んだそうですが、
墓は十輪寺にあります。
神龍社
公園まで戻り、南端の方から西側へ下る石段があります。
直ぐに丁字路となり、吉田神社の方へ下ると、
途中で西側へ下る細い抜け道のようなものがあります。
それを下った所に末社の神龍社があり、従二位・卜部兼倶(うらべかねとも)朝臣が
祀られています。
卜部兼倶(1435~1511)は、吉田姓を名乗り、吉田神道(唯一宗源神道)を大成しました。
文明12年(1480)に第103代・後土御門天皇のために『日本書紀』を講書初めの儀で
講じたことにより、朝廷や公家、更には室町幕府内にも取り入って勢力を拡大し、
全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得しました。
永正8年(1511)に77歳で薨去され、永正10年(1513)に鎮祭されました。
神龍社-鳥居
神龍社の鳥居
菓祖神社-1
神龍社へ入った方から南へ進むと元の参道へ戻り、
それを下った右側に菓祖神社があります。
昭和32年(1957)に創建され、田道間守命(たぢまもりのみこと)と
林浄因命(りんじょういんのみこと)が祀られています。
『日本書紀』第11代・垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年(61)2月1日に
田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ=橘)」を求め、
常世の国(海の彼方にある不老不死の国)に派遣され、
それを持ち帰ったとされています。
その橘が果物の祖とされ、兵庫県豊岡市の中嶋神社では田道間守命が
菓子神として祀られており、分霊が勧請されました。
菓祖神社-2
林浄因命は、南北朝時代(1337~1392)に中国から渡来し、日本初の饅頭である
「薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)」の製法を伝えました。
奈良市の漢國神社(かんごうじんじゃ)の境内社である林神社で菓祖神(かそじん)
として祀られ、その分霊が勧請されました。
菓祖神社-鳥居
菓祖神社から下ってくると、鳥居が建っています。
大元宮の鳥居
その南側にも鳥居が建っていますので、鳥居をくぐって進みます。
山蔭神社-1
右側に山影神社があります。
昭和32年(1957)の吉田神社御鎮座1100年大祭を機に、全国料理関係者が創建に協賛して、
昭和34年(1959)5月に鎮祭されました。
主祭神は藤原山蔭卿(ふじわら の やまかげ きょう)で、
相殿に恵比須神が祀られています。
山蔭神社-2
吉田神社は、貞観元年(859)に藤原山蔭が一門の氏神として、
奈良の春日大社四座の神を勧請したのが始まりで、
後に平安京での藤原氏一族の氏神となりました。
また、藤原山蔭は第58代・光孝天皇(こうこうてんのう:在位884~887)の命により、
庖丁式を執り行いましたが、それまで方法とは異なり、新たな庖丁式で行いました。
「四条流庖丁式」と称され、それにより庖丁の神、料理・飲食の祖神として
祀られるようになりました。
斎場所大元宮
山影神社から更に緩やかな坂道を登って行くと左側に
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)があります。
斎場所大元宮-2
卜部兼倶(うらべかねとも=吉田兼倶)は、文明年間(1469~1487)に
森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である
虚無大元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を起草し、
室町にあった自邸に大元宮を創建して虚無太元尊神を祀りました。
更に文明16年(1484)に現在地で斎場所大元宮を創建し、同年11月24日に
自邸から虚無大元尊神を遷座しました。
虚無大元尊神を中心に、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、
全国の神々を祀る吉田神道の根元殿堂とされました。
大元宮-扁額-八角形
「日本最上日高日宮」と記された八角形の扁額。
天正18年(1590)には第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅命により、
宮中で祀られていた天皇の守護神・八柱が、大元宮の後方に建てられた
八神殿へ遷座されて祀られるようになりました。
しかし、明治5年(1872)に八神殿は皇居へ遷され、伊勢神宮こそが日本で最上位の神社
であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、
現在では大元宮は吉田神社一末社となってしまいました。
大元宮-扁額
「日本国中三千余座 天神地祇八百万神」の扁額。
境内奥の東に東神明社(内宮)、西に西神明社(外宮)、境内の周囲には
式内神3132座が祀られ、正月3日間と節分祭、並びに毎月1日に限り、
大元宮の本殿や東西諸神社など特別参拝が行われています。
幽斎枝垂桜
大元宮前の枝垂桜は「幽斎枝垂桜」と称されています。
公卿で歌人の中院通勝(なかのいん みちかつ:1556~1610)は、天正8年(1580)に
第106代・正親町天皇の勅勘を蒙り丹後国舞鶴に配流されました。
通勝の和歌や和学の師であった細川幽斎(1534~1610)は、
吉田山の桜を丹後へ移植して慰めました。
その桜は今も舞鶴市の瑠璃寺にあり、舞鶴市の天然記念物に指定されています。
平成16年(2004)の吉田氏子講社設立50周年記念に、桜の苗木が贈られ
400年ぶりに里帰りが実現しました。
その桜が枯れてしまい、接木された桜が再び植えられました。
三社社-鳥居
大元宮前の車道の東側に、末社の三社社があります。
当初は吉田家の邸内で祀られていましたが、弘化元年(1844)に
現在地へ遷座されました。
三社社
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、
多岐津毘売命(たきつひめのみこと)、金山毘古命(かなやまひこのみこと)、
金山毘売命(かなやまひめのみこと)、菅原神(すがわらのかみ)が祀られています。
狭依毘売命の別名は『日本書紀』では「市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと)」と
表記され、多紀理毘売命と多岐津毘売命とともに「宗像三女神」と称されています。
宗像三女神は、天照大御神と建速須佐之男命が誓約を行った際に
生まれた神とされています。
宗像三女神は、天照大御神から「九州から半島、大陸へつながる海の道
(海北道中=玄界灘)へ降臨するよう」に命じられました。
多紀理毘売命は、現在の宗像大社・沖津宮へ、多岐都比売命は中津宮へ、
市寸島比売命は辺津宮へそれぞれ降臨し、
海上交通の守護神として祀られるようになりました。

金山毘古命と金山毘売命は夫婦神で、鉱山の神とされています。
伊耶那美命が火の神・迦具土神を生んで火傷を負い、苦しんでいる時に、
その嘔吐物(たぐり)から生まれた神とされています。
鉱石を火で溶かし、金属が生まれることが表されています。

菅原神は学問の神とされていますので、菅原道真と思われます。

三社社から東へ進むと宗忠神社ですが、登ってきた道を戻り、
吉田神社・本宮へ向かいます。
続く
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