中空の木-1
本宮から車道を遡って行くと、中が空洞になった木を見つけました。
中空の木-2
雷にでも打たれたのでしょうか?
それでも元気に葉を繁らせています。
中宮-社号標
しばらく歩いた先に中宮である結社(ゆいのやしろ)の入口に着きましたが、
参拝順は本宮→奥宮→中宮とされていますので奥宮へ向かいます。
本宮から歩いて約5分の距離で、本宮と奥宮との中間辺りになります。
相生の杉
奥宮の手前に御神木である相生(あいおい)の杉が聳えています。
樹齢約千年とされ、同じ根から二本の杉が生えています。
相生は、相老に通じることから、夫婦共に長生きを意味します。
二ッ社
相生の杉の脇を登っていくと、二ッ社があります。
右側が私市(きさいち)社で、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、
左側は林田社で少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
大国主命は、素戔嗚命の六世、または七世の孫とされ、少彦名命と協力して
禁厭(まじない)、医薬などの道を教えて日本国の国造りを行いました。
その後、少彦名命は海の彼方にある理想郷とされる常世の国(とこよのくに)へと
去ってしまい、困っていた大国主命の前に現れたのが
大物主神(おおものぬしかみ)です。
大国主命が大物主神の神託を受けて三輪山に祀ったところ、
国造りが完成したとされています。
奥宮-鳥居
「思ひ川」の手前に鳥居が建ち、その先が奥宮への参道になります。
思ひ川
「思ひ川」は、奥宮が本社であった頃、参拝者はこの谷川で身を清めた
禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川でした。
「おものいみ川」がいつしか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。
「思ひ川 渡れば またも花の雨」高浜虚子の句です。
つつみヶ岩
橋を渡った先に「つつみヶ岩」があります。
高さ4.5m、胴回り9mもある貴船石の巨石です。
古代はこのような巨石は信仰の対象となっていたのでしょうが、
現在の地質学では、これは枕状溶岩で、水中で溶岩が噴出した時に
急に固まったものだと解明されてしまいました。
奥宮-参道
参道には杉の巨木が立ち並んでいます。
奥宮-手水
現在は神門の手前に山水が引かれ、清水で身を清めることができます。
奥宮-神門
神門です。
本宮から歩いて10分程の距離ですが、雪が多く残っています。
連理の木
門をくぐった左側上部に御神木の連理の木が聳えています。
ウィキペディアでは、「連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、
あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。
自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって
理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として
信仰の対象ともなっている。」と解説されています。
この御神木は、杉と楓が和合した珍しいものだそうで、第123代・大正天皇の
貞明皇后も大正13年(1924)に参拝された時、この木を賞賛されたそうです。
日吉社
連理の木の袂に日吉社が祀られています。
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと=三輪明神)ですが、かっては
大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、山の神であり、
貴船山を守護する神でした。
奥宮-拝殿
拝殿
奥宮-本殿
本殿
奥宮の祭神は、闇龗神(くらおかみのかみ)で、
本宮の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)と同じ、もしくは一対の神様とも
言われており、両方共「龍神様」で水を司っています。

貴船神社の創建に関する一つの説が
初代・神武天皇の母・玉依姫によるものです。
社伝では第18代・反正天皇(はんぜいてんのう)の時代(406~410)に
浪速(なにわ)の津に黄色い船に乗った神が現れ
「我は玉依姫(たまよりひめ)なり。
この船の止まる所に祠を造れば、国土を潤し、庶民に福運を与えん」
と言われ、淀川を遡ってこの地にいたり、清水が湧き出る“龍穴”の上に
社殿を建て、水神を祀り、黄色い船から「黄船の宮」と称され、
かってはここが貴船神社の本宮でした。
永承元年(1046)、洪水により社殿が流損したため、天喜3年(1055)に
本宮が遷され、現在地は奥宮として祀られるようになりました。

またもう一つの貴船神社の創祀説である貴船明神が、太古の
丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨したと伝わることから、
その時に参拝すると祈願が成就されると伝えられてきました。
しかし、いつしかそれは呪詛する「丑の刻参り」へと変貌しました。
草木も眠る丑の刻(午前1時~3時)、白装束を身にまとい、
頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、神社の御神木に
憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むという行為が
七日間続けられ、かっては社殿にも釘の跡があったと伝わります。

その原型とされる一つが橋姫伝説です。
離縁された橋姫が元夫の現在の妻を、鬼となって殺したいと
貴船明神に祈願し、その神託を受けて
宇治川の水神に百夜の願をかけたとされています。
奥宮-権地
権地(ごんち)
現在の本殿は、江戸時代の文久3年(1863)に造り替えられ、旧本殿は京阪
「東福寺駅」近くの瀧尾(たきお)神社に移築されたとの記録が残されています。
本殿造り替えの際に、大工が誤ってノミを龍穴に落とすと
「晴天俄かに墨の如くなり、たちまち竜巻のような突風が吹きすさみ、
ノミは空中に吹き上げられ屋根に戻された」と伝わります。
更に、程なくして大工は命を落としてしまったとも...。

平成24年(2012)に解体修理が行われました。
一度すべて解体し、使える古材は出来るだけ保存し、古い形態のままを将来に
伝えてゆくのが大切な目的でもありました。
ただし屋根に関しては、軒付は従来通りの「こけら葺き」とし、
あとは全面銅板葺きとなりました。
解体修理にあたり「附曳神事(ふびきしんじ)」が執り行われました。
「まず本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、氏子一同烏帽子浄衣の白装束で、
本殿を東の権地(ごんち)に曳き遷す。
そこで龍穴は自然に菰で覆われる。
龍穴は人目を忌むから、しめ縄にて菰をくくり、竣工の時、まずそれを解き、
本殿を旧位置(龍穴の上)に復し、正遷宮の儀に及ぶ」
神事が行われている間、境内にいる全ての人間は「一切言葉を発してはならない」
とされています。
神事の間は皆が榊の葉を口に咥える習わしで、言葉を発するのが困難な状況で
執り行われます。
今回、附曳神事が150年ぶりに行われたそうですが、現在でも大きな建物を引いて
移される工事が、実は古くから受け継がれてきたものだと改めて関心しました。
船形石
本殿の左横に長さ10m、幅3m、高さ1.5mの「船形石(ふながたいわ)」が
あります。
玉依姫が乗ってきた黄色の船を、人目に触れぬよう
石で包み囲んだと伝えられています。
鈴市社
拝殿の左横に御神木の桂の木が植栽され、その左側に鈴市社があります。
祭神は、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、
神武天皇の皇后です。
吸葛社
船形石の前に吸葛社(すいかずらのやしろ)があります。
祭神は、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)です。
味耜高彦根命は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)
の子で、農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されています。
古くは傀儡師(傀儡子・くぐつし)や遊女が信仰する神、
百太夫(ももだゆう・ひゃくだゆう)が祀られていたと伝わります。
中宮-への石段
中宮へ下ります。
中宮は、結社(ゆいのやしろ)とも称され、磐長姫命(いわながひめのみこと)を
祭神とし、縁結びの神として信仰されています。
中宮-鳥居
石段を上って行くと鳥居が建っていて、正面に本殿があります。
中宮-本殿-1
磐長姫命は、大山祇神(おおやまつみ)の娘で、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉です。
天界から天降(あまくだ)った邇邇藝命(ににぎのみこと)は、木花開耶姫を
見初めたのですが、大山祇神は二人の娘を邇邇藝命に嫁がせました。
磐長姫命は、木花開耶姫のように美しくなかったので、邇邇藝命から愛されず、
父の元へと送り返されました。
大山祇神は怒り、「磐長姫命を差し上げたのは天孫(まめみや=邇邇藝命)が
岩のように永遠のものとなるように、
木花開耶姫を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと
誓約(うけい)を立てたからである」と教えました。
磐長姫命を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げました。
また、磐長姫命が恨んで「顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=地上の人間)は
木の花のように移ろいやすく、衰えてしまうでしょう」と言ったとも伝わり、
これが世の中の人の命が短い所以とされています。
中宮-本殿-2
磐長姫命は、「我長くここにありて、縁結びの神として世のため人のため
良縁を得させん」とこの地に鎮まったと伝わります。
天乃磐船
境内には、平成8年(1996)に貴船の山奥より出土した重さ6tの自然石
「天乃磐船」が祀られています。
貴船神社創建にまつわる「黄色の船」の伝承から相応しいものとして
奉納されたと思われます。
和泉式部歌碑
和泉式部の句碑
「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
参道の「蛍岩」付近で詠まれた歌です。
和泉式部は夫との不仲を解消するため貴船神社に参拝した際に、
貴船川に飛ぶ蛍を見て切ない心情を歌に託して祈願し、
夫婦円満になったと伝わります。
松尾巌の句碑
高浜虚子に師事したという松尾巌(いはほ・1882-1963)の句碑
 「貴船より 奥に人住む 葛の花」
元は、本宮の石段上り口にありましたが、昭和10年(1935)の洪水で破損して
上部が流失し、欠けたままになっています。
中宮-御神木
御神木の樹齢約400年の桂の木です。
貴船神社では本宮、奥宮、そして中宮でも桂の木が御神木とされています。
鞍馬寺西口
鞍馬寺西口まで下ります。
第50代・桓武天皇が平安京に遷都して2年後の延暦15年(796)、
東寺を造営する責任者に就いた藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)は、
観世音を奉安する一宇の建立を念願していました。
ある日、藤原伊勢人は夢の中に貴布禰明神が立ち
「平安京のさらに北に深山があり、山は二つに分かれ、谷より水が流れ下り、
この地には霊験がある。」と告げられました。
夢から覚めた伊勢人は、白馬の導きで鞍馬山に登り、
鑑真の高弟・鑑禎上人(がんていしょうにん)の草庵にたどり着きました。
その草庵には毘沙門天が安置されていて、「毘沙門天も観世音も根本は
一体のものである」という夢告が再びあり、伽藍を整え、毘沙門天を奉安したのが
鞍馬寺の始まりとされています。

鞍馬寺へ向かいます。
続く

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