冷泉天皇陵-1
霊鑑寺から俊寛僧都旧跡まで歩くと往復で約1時間を要するようなので、
後日、バイクを利用して向かいました。
白川通りを北上し、馬場橋手前の信号を右折して東へ進んだ突き当りに冷泉天皇
櫻本陵があり、第68代・後一条天皇の皇后・藤原威子
(ふじわら の いし/たけこ:1000~1036)の火葬場でもあります。
冷泉天皇陵-2
藤原威子は摂政・藤原道長の娘で、長和2年(1018)に甥の後一条天皇に
入内しましたが、長元9年(1036)4月に天皇が崩御されました。
同年9月に出家しましたが、その2日後に38歳で崩御されました。
冷泉天皇陵-3
冷泉天皇は、第62代・村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔
(ふじわら の もろすけ:909~960)の娘・安子(あんし/やすこ:927~964)で、
諱(いみな)を「憲平(のりひら)」と称しました。
藤原師輔は右大臣、師輔の兄・実頼(さねより:900~970)は左大臣に任ぜられ
村上天皇を補佐していたことから、異母兄の広平親王を押しのけ、生後間もなく
憲平親王が立太子されました。
康保4年(967)に村上天皇が崩御され、18歳で即位しました。
しかし、天皇には奇行を行うなどの病があり、通常は大極殿で百官を集めて
行なわれている即位礼は、天皇の病気が案じられ、初めて紫宸殿で行われました。
天皇を補佐するために村上天皇が廃した関白が復活され、実頼が就きました。
皇太子には同母弟で第4皇子の為平親王か第七皇子の守平親王を擁立するかで対立し、
安和の変へと発展しました。
為平親王を推した左大臣・源高明(みなもと の たかあきら:914~983)が左遷され、
案和2年(969)に冷泉天皇から譲位されて守平親王が即位し、
第64代・円融天皇となりました。
実頼は関白から摂政となりましたが、以降は藤原氏の摂関職設置が常態化しました。
冷泉天皇は僅か2年で譲位し、太上天皇となって62歳で崩御されました。
和中庵
櫻本陵から南へ進むと丁字路となり、左折して東へ進むと霊鑑寺の横を通過します。
その先右側に和中庵があります。
和中庵は非公開ですが、現在はノートルダム女学院中高に移管され、
平成26年(2014)から平成27年(2015)にかけて改修工事が行われました。
和中庵は滋賀県五箇荘(ごかしょう)出身の藤井彦四郎(1876~1956)が、
大正15年(1926)~昭和3年(1928)にかけて造営された邸宅で、その敷地は
一万数千坪に及びました。
庭園や大小の茶室、客殿などが造営され、皇族の来訪もありました。
藤井彦四郎は、大正15年(1926)に製造、販売を開始した「スキー毛糸」が
ヒット商品となり、一代で財を築きました。
しかし、戦後は空き家となり、昭和23年(1948)にノートルダム教育修道女会へ
売却されました。
和中庵は修道院となり、平成20年(2008)にノートルダム女学院中高に移管されました。
瑞光院-門柱
更に東へ進むと波切不動尊を祀る瑞光院があり、ここで車道は途絶えます。
瑞光院は、昭和29年(1954)に川合壽明和尚が、高野山別格本山南院に安置されている
秘仏・浪切不動明王の分霊が勧請されて創建されました。
浪切不動明王の詳細に関しても南院の記事に記しています。
門柱の脇に修行大師像が祀られています。
瑞光院-護摩壇
正面に柴燈護摩修行場があり、10月の最終日曜日頃に大祭が行われ、
火渡り修行が厳修されています。
瑞光院-役行者
護摩壇横の石窟内に役行者像が祀られています。
瑞光院-大日如来
左上方には大日如来が祀られています。
瑞光院-信徒会館
参道を下ると信徒会館があります。
瑞光院-本堂
その先には橋が架かり、橋を渡ったた右上方に本堂があります。
瑞光院-龍神
本堂奥に白雲龍神と弁財天が祀られています。
瑞光院-滝行場
更に奥へ進むと滝行場があり、不動明王と末高弁財天が祀られています。
瑞光院-谷の合流
滝行場の手前で二つの谷が合流しています。
平成25年(2015)の台風18号、平成30年(2018)の台風21号及び24号などで、
甚大な被害を被ったようです。
道標と碑
瑞光院を出るとその先に「俊寛僧都旧跡道」と刻まれた石標と
京都一周トレイルの道標が建っています。
道標
道標に旧如意古道は、直進では無く、左折してすぐ先を右折するように
記されています。
山道で、バイクでも通行不可です。
倒木
しばらく進むと平成30年(2018)の台風21号及び24号によると思われる倒木が
まだ残されています。
整地
10分余り登ると石垣が積まれ、斜面が整地されているような場所があります。
楼門の滝
その右側には滝が見え、「楼門の滝」と称されています。
かってこの地に如意寺の楼門があったことから名付けられてと伝わります。
また、この古道を更に登ると如意寺の大慈院跡があり、如意ヶ嶽(大文字山)を経て
滋賀県に至ります。
石段
滝横の岩沿いから滝を迂回するようにして石段が造られています。
俊寛僧都忠誠之碑
石段を登った所に「俊寛僧都忠誠之碑」が建っています。
瑞光院から歩いて約20分の距離で、かってこの地に俊寛僧都の「鹿ケ谷山荘」が
あったと伝わります。
「鹿ケ谷(ししがたに)」の地名は、智証大師円珍(814~891)が一頭の鹿と遭遇し、
その鹿が道案内したことに由来するとの説があります。
復碑
横に復碑が建ち、それによれば昭和10年(1935)に西垣精之助氏が夢の中に
鹿ケ谷山荘の跡地であるとの告知を受け、碑が建てられたとの事が記されています。

俊寛僧都(1143~1179)は第62代・村上天皇の皇子を祖とする村上源氏の出身で、
仁安年間(1166~1169)に法勝寺の執行となりました。
後白河法皇の近習僧として仕え、法皇と平氏との関係が悪化したことから
安元3年(1177)に首謀して藤原成親(ふじわら の なりちか:1138~1177)や
藤原師光(ふじわら の もろみつ=西光:生年不詳~1177)らとこの山荘で、
平氏打倒の陰謀を企てたとされています。(鹿ケ谷事件
しかし、多田行綱(ただ ゆきつな:生・没年不詳)の密告により参加者が
一網打尽にされ、藤原師光は斬首、藤原成親は配流先の備前国で殺害されました。
俊寛僧都は薩摩国の鬼界ヶ島へ配流され、食を断って自害したとされています。

霊鑑寺まで戻り徒歩での続きの大豊神社へ向かいます。
続く
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