南門
六請神社の北に、隣接して眞如寺への参道がありますが、通常非公開のため、
門は閉じられています。
眞如寺は山号を萬年山と号する臨済宗相国寺派の寺院で、鹿苑寺(金閣寺)・
慈照寺(銀閣寺)とともに相国寺の3つの山外塔頭を構成する寺院の1つです。
眞如寺は、無着如大尼(むちゃくにょだいに)が師の無学祖元の遺爪髪を祀るため、
衣笠山山麓に墓所を造り「正脈庵(しょうみゃくあん)」と号したのが
始まりとされています。
鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の娘・千代野は、北条顕時(ほうじょう あきとき)の

正室となり、娘を出産してその娘(釈迦堂殿)は足利貞氏の正室となりました。
弘安8年(1285)、鎌倉幕府9代執権・北条貞時の時代に霜月騒動が起こり、
父・泰盛と安達一族は滅ぼされ、夫・顕時は騒動に連座して失脚し、
下野国に蟄居の身となりました。
千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名「無着」と号しました。
永仁6年(1298)頃に無着如大尼が入寂されると、正脈庵は荒廃しました。

興国3年/暦応5年(1342)に、足利貞氏の子で足利尊氏の弟・直義(ただよし)と
足利家のの執事・高師直(こうのもろなお)により正脈庵が再興されました。
佛光国師(無学祖元)の法孫である夢窓疎石を開山として招き、
正脈庵の跡地を中心に境内が拡張され、七堂伽藍が建立されました。
夢窓疎石は、佛光国師初住の中国浙江省の眞如寺から寺号を「眞如寺」とし、
佛光国師を勧請開山に、如大尼和尚を勧請開基に請じ、
自らは第二世として寺に入りました。
室町幕府によって定められた五山・十刹(ござん・じっせつ)の制では
十刹に格付けされ、幕府の保護を受けて眞如寺は栄えました。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が死去すると、葬儀は眞如寺で行われました。
一説ではその後、境内地が東西に分断されて西は等持院になり、
足利家の菩提寺となったとされています。
但し、等持院の公式HPに眞如寺から分断されたとの記載は無く、
眞如寺が再興された同時期に、眞如寺の境内、または隣接地に
等持寺の別院・北等持寺が建立され、足利尊氏の没後に尊氏の墓所となり、
尊氏の戒名から「等持院」と改称されたとするのが通説のようです。

寛正2年(1461)に眞如寺は焼失しました。
その後の応仁・文明の乱(1467~1477)でも焼失し、寺は一時期廃寺状態となりました。
明應8年(1499)から復興が始まり、方丈や仏殿が順次再建されました。
眞如寺は江戸時代を通じて五山派下において、臨済宗僧侶の法階のうち
「西堂(せいとう)職」の本庵としての役割を持ち、
法堂において授帖式を挙行する道場でもありました。
明暦2年(1656)に第108代・後水尾天皇により中興されました。
後水尾天皇の第5皇女・理昌女王(りしょうじょおう)は、正保3年(1646)に
得度して宝鏡寺門跡となりましたが、明暦2年(1656)に26歳で入寂され、
宝鏡寺歴代の菩提所である眞如寺に埋葬されました。
その際、荒廃していた眞如寺を天皇は嘆き、中興したとされています。
客殿
六請神社の西側を北へ進むと眞如寺の駐車場があり、
駐車場から東の正面に客殿(方丈)があります。
客殿に拝観受付がありますが、春と秋にのみ特別拝観が行われ、
拝観には予約が必要です。
11/15~12/5の秋の特別拝観は、現在は新型コロナ感染拡大のため、
拝観予約の受付は見合されています。
そのため、建物のみの撮影となります。
客殿の襖絵は原在中により、「四季花卉(かき)図」「西湖図」などが描かれています。
客殿の南庭は「かしきりもみじ」と呼ばれ、秋期特別拝観の公開場所となります。
客殿の奥に書院があり、書院の東側に池泉鑑賞式庭園が築かれています。
半僧坊大権現
客殿から参道を挟んだ西側に鎮守社があります。
大正7年(1918)に奥山・方広寺から
「半僧坊大権現(はんそうぼうだいごんげん)」の分身が勧請されました。
方広寺の開祖・無文元選禅師が唐からの帰途、嵐に遭遇した際に半僧坊が現れ、
船頭を指揮して無事に船を日本へ帰航させ、姿を消しました。
その後、禅師が方広寺を開かれた際に、再び半僧坊が現れ、禅師に仕え、
修行に励みましたが、禅師の入寂後に山内の護持を誓い、姿を消したと伝わります。
以後、方広寺では半僧坊を鎮守社として祀られるようになりました。
明治14年(1881)に山火事で方広寺が焼失した際、禅師の墓と鎮守社が
類焼を免れたことから、半僧坊の威徳によるものと信仰を集め、
明治時代には全国に広まりました。
眞如寺では毎年5月に「半僧坊御開帳大祭」が催されています。
大雄殿
参道を北へ進んだ正面に法堂(仏殿)があり、「大雄殿(だいおうでん)」の
扁額が掲げられています。
堂内中央の須弥壇には、本尊の宝冠釈迦如来像、脇侍として摩訶迦葉(まかかしょう)

と阿難陀(あなんだ)像が安置されています。
かって、仙洞御所で安置されていたものが遷されたと伝わります。

堂内奥に開山塔があり、勧請開山・仏光国師、勧請開基・無着如大尼、事実上の開山・

夢窓国師、再興を援助した高師直の像が安置されています。

等持院へ向かいます。
続く

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