水観寺-本堂
三井寺の仁王門前を南へ進んだ所に三井寺五別所の一つ、水観寺があり、
西国薬師四十九霊場の第48番札所となっています。
平安時代の長久元年(1040)に小野道風の孫に当たる
明尊大僧正によって創建されました。
現在の本堂は江戸時代の明暦元年(1655)に建立されたものを、
滋賀県の文化財に指定されるにあたり、解体修理を行って、
昭和63年(1988)に現在地に移築されました。
水観寺-堂内
堂内には薬師如来とその左右には十二神将像が安置されています。
浄妙坊跡
水観寺から南へ進んだ所に浄妙坊跡があり、かって筒井浄妙が住していました。
 後白河天皇の第三皇子で高倉天皇の兄宮である以仁王(もちひとおう)は、
治承4年(1180年)、源氏に平氏打倒の令旨を発しました。
以仁王と源頼政は打倒平氏のための挙兵を計画したのですが、準備不足の上、
平家に露見し、逆に追討を受けることになりました。
以仁王を興福寺へ逃すために、三井寺は僧兵千余騎を出して、
当時三井寺の末寺であった宇治の平等院へと向かいました。
平家軍は平知盛を大将に、二万八千余騎を従え大挙して宇治橋まで攻め寄せ、
両軍は宇治川を挟んでの戦闘となりました。
その時、活躍したのが筒井浄妙でしたが、多勢に無勢で、浄妙は命を落とし、
源頼政は平等院で自害しました。
以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出したのですが、藤原景高の軍勢に
追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって
落馬したところを討ち取られたと『吾妻鏡』は伝えています。
治承4年(1180)、清盛の五男、重衡(しげひら)は一万余騎を
引き連れて三井寺に火を放ちました。
本堂、大講堂をはじめ、焼け落ちた堂塔伽藍は、総じて637棟に及んだと
『平家物語』巻第四「三井寺炎上」に記されています。

浄妙坊跡の先にある石段を上ると観音堂へと続き、
観音堂から長等神社横へと下り、近松寺へ向かいます。
園城寺(三井寺)-その5(三井寺の周辺)に続く。

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