タグ:泰澄

波切不動明王-1
白山市役所の鶴来支所で変速機付の自転車を500円で借りて、支所前の県道を
南へ進むと波切不動明王の石像を祀る不動堂があります。
波切不動明王-2
堂内の縁起書によれば、霊亀2年(716)に泰澄(たいちょう:682~767)が、
当地・舟岡山の岸壁に刻んだものと伝わります。
泰澄が白山に登る前、舟岡山の石窟で修行を重ね、不動明王を刻んで山上の安穏と
国土の静謐を祈念したとされています。
翌養老元年(717)に泰澄は白山に登り、白山妙理権現を感得したと伝わり、
不動明王は白山妙理権現の眷属・五王子権現の一・太郎王子の
本地仏とされています。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈と用水路の建設に伴い、
岸壁の爆破が行われましたが、仏像への損傷が無かったので、
この地に一宇が建立され、安置されるようになりました。
加賀一の宮駅跡
更に南へ進むと加賀一の宮駅跡があります。
昭和2年(1927)に金名鉄道(きんめいてつどう)が、加賀広瀬から鶴来まで
延伸した際に開設されました。
戦時統合で現在の北陸鉄道石川線となりましたが、平成21年(2009)に
鶴来~加賀一の宮間2.1kmは廃線となりました。
遺跡
駅跡の西側には平成8年(1996)の発掘調査現場が保存されています。
遺跡-発掘品
この調査では「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器1,700枚余りが発見されました。
儀式や祭事に使われた小皿と推定されています。
水戸明神-1
その奥には水戸明神を祀る祠があります。
水戸明神-2
水戸明神は水の取り入れ口(水門)の守護神として、富樫用水が築かれた頃に
現在の水戸町付近に祀られていましたが、洪水で流出したため、
昭和29年(1954)に現在地に遷座されました。
安久涛の渕
この地は「安久涛の渕(あくどのふち)」と呼ばれ、
白山市の名勝に指定されています。
急流・手取川の中でも最も緩やかな淵の一つであり、『久しきにわたり波(涛)
立たぬ瀞淵』の名勝として名付けられました。

霊亀2年(716)~文明12年(1480)まで、現在は水戸明神が祀られている
安久涛の渕の上の台地に白山寺白山本宮が鎮座していました。
波切不動明王縁起には、安久涛の渕は結界の聖地で、不動明王と
釈迦・文殊・金剛菩薩の三尊を彫刻・勧請して、浄域を結界するのが
泰澄の宿願と記されています。
この地で白山寺白山本宮が創建されたのには、
泰澄が関係していたのかもしれません。
しかし、一方で泰澄は手取川ではなく、九頭竜川に沿って白山に登り、瞑想すると
翠ヶ池(みどりがいけ)から九頭龍王が出現し、自らを「白山妙理権現」と
名乗ったとする説もあり、真偽は定かではありません。
表参道-一の鳥居
駅跡の南側に駐車場があり、その先に白山比咩神社の一の鳥居が建っています。
白山比咩神社の創建は崇神天皇7年(BC91)で、 舟岡山に「まつりのにわ」が
祀られたのが始まりとされています。
雪が深く、遅くまで残雪をいただく白山(しらやま)は手取川の水源となり、
水田農耕社会となると白山は水神・農耕神の白き神々の座して
崇められるようになりました。
また、漁など海での生活を基盤とする人々にとっては白山は、
航海で位置を確認する目印にもなりました。

応神天皇28年(297)に手取川の河畔「十八講河原」へ遷座されましたが、
氾濫して社殿が度々流出したため、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に
再度遷座されました。

翌養老元年(717)に泰澄が白山の主峰・御前峰(ごぜんがみね:標高2,702m)に登ると
九頭竜の姿をした十一面観世音菩薩が顕れ、自らを伊弉冉尊の化身で、
白山明神・妙理大菩薩名乗ったとされています。
次いで泰澄が別山(標高2,399)に向かうと宰官(さいかん=役人)が顕れ、
聖観音菩薩のの垂迹である大行事権現であると告げました。
更に大汝峰(標高2,684m)に登拝すると、老翁に会い、本地は阿弥陀如来で、
垂迹は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)と名乗りました。
大己貴命は大汝権現とも称され、大行事権現と共に白山妙理権現の
神務の補佐を行うとされています。

以降、白山には加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道)が
開かれ、修験者の山岳修業の地となりました。
また、延暦元年(782)に日吉八王子山の麓に白山権現が顕われたと伝わり、
天安2年((858)に相応が日吉大社に勧請し、「客人(まろうど)」と呼ばれる
客人神として祀られ、「日吉三聖」に次ぐ格式を持つようになりました。
更に久安3年(1147)には神宮寺の白山寺が延暦寺山門別院となり、
多くの宗徒を擁するようになりました。

しかし、室町時代中期以降は急速に衰亡しました。
康正元年(1455)に本願寺一向一揆門徒が越前国から加賀にも入り、
勢力を拡大していったため、神給田からの年貢を得られなくなりました。
更に、文明12年の大火で延焼し、40余りの堂塔伽藍は悉く焼失しました。
三宮があった現在地に御神体・御本尊が遷されましたが、復興はなされず
以降100年間余り荒廃したままとなりました。
天正11年(1583)に金沢城主となった前田利家は、第106代・正親町天皇から
白山宮復興の綸旨を受け、現在地で再建に着工し、文禄5年(1596)に竣工しました。
その後は加賀藩の庇護を受け、経営基盤は盤石のものとなりました。
表参道
表参道を進むと、中間辺りに琵琶滝があります。
琵琶滝
延命長寿の霊水として名高い白山水系の伏流水が流れ落ち、
手取川へと注がれています。
表参道-手水舎
その先には二の鳥居が建ち、手水舎があります。
表参道-二の鳥居
二の鳥居から石段となり、それを登った所には三の鳥居が建っています。
ケヤキ
三の鳥居の脇に胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年と伝わる
大ケヤキの木があり、白山市の天然記念物に指定されています。
荒御前神社-1
正面には荒御前神社(あらみさきじんじゃ)があります。
荒御前神社-2
荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られています。
荒御前大神は、神功皇后が三韓征伐の際、自らを守護した神とされています。
神門
東側にある神門をくぐります。
神馬舎
くぐった右側に神馬舎があります。
本殿
社殿は外拝殿・直会殿(なおらいでん)・幣拝殿・本殿と続きます。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、神宮寺の白山寺は廃され、
白山本宮は『延喜式神名帳』に記載があった加賀一ノ宮の
「白山比咩神社」と改められ、白山比咩大神(菊理媛尊)・伊邪那岐尊・伊弉冉尊が
祀られるようになりました。
菊理媛尊(くくりひめのみこと)は、伊弉冉尊と伊弉諾尊を仲直りさせた神として
縁結びと和合の神として信仰を集めています。
伊弉冉尊が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を出産した際に火傷を負って
亡くなり、伊弉諾尊は妻を追って死の国である「黄泉の国(よみのくに)」へ
迎えに行きました。
しかし、腐敗して醜い姿に変わり果てた妻を見て驚き、地上へ逃げ出しました。
伊弉冉尊は伊弉諾尊の後を追い、地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)で
追い付き、口論となりました。
そこに菊理媛尊が現れ、二人の仲を取りなすと伊弉冉尊は
黄泉の国へ帰って行ったとされています。

白山比咩神社は、明治4年(1871)に国弊小社に列せられ、全国の白山神社の
総本社とされ、越前・美濃は分霊された白山神社とされました。
大正3年(1914)に国幣中社に昇格し、第二次大戦後は神社本庁の
別表神社に列せられています。
国から白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を
本社境内として無償渡与を受けました。
授与所
社殿の左側に授与所があり、その前右側の三本杉は御神木とされています。
三本杉
昭和58年(1983)の5月21日に石川県で開催された「第30回全国植樹祭」の際、
昭和天皇が境内の杉の種を手蒔きされ、
その時の苗木を御神木として植樹されました。
奥宮揺拝所-1
神門の南側に白山の主峰・御前峰の山頂にある奥宮の揺拝所があります。
奥宮揺拝所-2
大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩が祀られています。
盤持石
揺拝所の右奥にある盤持石(ばんもついし)は、古来の祭礼の神賑(かみにぎわい)
として盤持大会が行われ、力自慢比べで使用された石です。
右から、あか石127.5kg、おまもり石150kg、あお石172.5kgだそうで、
重すぎて試してみる気にもなりませんでした。
錨
古い錨も奉納されています。
遊神殿
東側に遊神殿があります。
平成20年(2008)に御鎮座二千百年を迎えたことを記念して、
平成19年に新築され、参拝者の受付、控室、休憩所として利用されています。
参集殿
遊神殿の右側に参集殿があります。
参集殿の右側
参集殿の右奥に禊場があります。
禊場
滝から流れ落ちた白山水系の伏流水が湛えられ、無色の水で穢れも
流れ落ちそうですが、今の季節、水は少し冷たく感じます。
なんじゃもんじゃの木
脇には春に白く可憐な花を咲かせるいう「なんじゃもんじゃ」の木が植栽され、
その上部には住吉社が見えます。
南参道-手水舎
参集殿から南参道を進むと手水舎があります。
南参道-手水鉢
手水鉢は「亀岩」と称されていますが、形が亀に似ているのか?、
それとも岩石の種類なのか定かではありません。
南参道-鳥居
手水舎の先には木製の鳥居が建っています。
住吉社
鳥居と県道との間に禊場から見上げた住吉社があります。

授与所の方へ戻ります。
社務所
授与所の裏側に社務所があります。
芭蕉句碑
社務所の先に手水舎があり、その手前に松を芭蕉の句碑があります。
「風かをる 越の白嶺(しらね)を 國の華」
芭蕉が「奥の細道」の途次、元禄2年(1689)7月に白山の姿を讃えて
詠んだものです。
白山霊水
手水舎の奥に白山霊水の汲み場があります。
延命長寿の霊水として、遠方からも汲みに来られています。
觸穢の所
駐車場からの鳥居の脇に觸穢(しょくえ)の所があり、葬儀参列やお産などは穢れに
触れるとして、自らお祓いを行い、身を清める所で、
祠の中にはそれに使用する祓い串などが納められています。
宝物館
駐車場の右側に宝物館がありましたが、12/1~3/31までは閉館中でした。
展示されている宝物は、当社のHPで閲覧することが出来ます。
駐車場の鳥居
県道に面した駐車所の入口にも鳥居が建っています。
獅子吼高原
東側には獅子吼高原のゴンドラが見えますが、ゴンドラは11/23から来春まで
営業を休止しています。
かってはスキー場があったようですが、雪不足で閉鎖され、
現在はパラグライダー場として整備されているようです。
正式には後高山(しりたかやま)周辺が「獅子吼高原」と呼ばれ、
泰澄が白山開山に向かう途中、後高山周辺の4カ所で宿泊したことから
当初は「四宿(ししゅく)」と呼ばれていました。
それが、仏教の経典にある「獅子吼」の文字を当てて
「ししく」と呼ぶようになりました。
ゴンドラに乗った標高650mの地点に白山比咩神社の分社・ 獅子吼白山比咩神社が
あります。

鶴来別院へ向かいます。
続く

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鐘楼門
「ねじりマンポ」の西口から西へ進んだ突き当りに円明教寺があります。
円明教寺は山号を医王山と号する真言宗東寺派の寺院です。
山門は重層構造で、上層は鐘楼となっていましたが、梵鐘は戦時供出され、
今はありません。
本堂
本堂
円明教寺は奈良時代に修験僧で白山を開山したと伝わる泰澄により、
円明寺として創建されたと伝わります。
また、平安時代後期に天台宗の寛済法師が円明寺を創建したとの説や、
平安時代中期に曼荼羅寺(後の隋心院)を創建した
仁海によって再建されたとも伝わります。
隋心院の末寺で真言宗善通寺派の寺院になったともされています。
その後、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての
公卿・西園寺公経(きんつね)に譲られ、別荘(円明寺山荘)の庭園の
一部として整備されたのが「御茶屋池」と伝わります。

円明寺は、鎌倉中期には西園寺公経の娘婿で、東福寺を建立した
九条道家に譲られ、池庭が更に整備されました。
その後、道家の息子で一条家始祖となる実経(さねつね)に譲られました。
室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、兵火を受け衰微し、
江戸時代初期には無住となって薬師堂を残すのみとなり、「薬師堂」と呼ばれました。
弘化3年(1846)、無住となった円明寺には観音寺から住職が派遣されていました。
円明教寺と呼ばれるようになったのは近代になってからで、
現在でも住職は他の寺と兼務しているようです。

本尊は、平安時代の薬師如来像で脇侍の日光・月光両菩薩像の他、
平安時代の毘沙門天立像と鎌倉時代の地蔵菩薩立像が安置されています。
しかし、住職が殆ど不在のため、参拝は無理なようです。
鎮守社
鎮守社でしょうか? 詳細は不明です。
庫裏
現在は本堂の薬師堂と庫裏を残すのみとなっています。
御茶屋池
寺から下った南側に「御茶屋池」があります。
斜面に高い堤防が築かれ、水が溜められています。
現在は潅漑用として、水利組合によって管理され、
池の北側には民家が立ち並んでいます。
かっては池に面して公経の山荘が営まれ、道家の時代には
別荘の数も増え、池庭も整備されました。
道家から譲られた実経は晩年、円明寺山荘で隠棲し、「円明寺殿」と称されました。
遠くに比叡山から東山連峰が一望でき、
閑静で風光明媚な地であったことが想像できます。

小倉神社へ向かいます。
続く

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