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日體寺(にったいじ)
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「無動庵」から100m足らず西へ進んだ突き当りに常寂光寺があります。
南約100mに小倉池があるので随分遠回りして来た感があります。
山門は江戸時代後期に改修されました。
江戸時代中期の「都名所図会」には袖に土塀をめぐらした薬医門が
描かれていますが、現在は土塀は取り払われ、「塀の無い寺」となっています。
常寂光寺は山号を小倉山と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見の札所です。
慶長元年(1596)に本圀寺(ほんこくじ)十六世・日禎(にっしん)が
この地に隠棲して開創されました。
常寂光の「常」には法心(ほっしん)、「寂」には般若、
「光」には解脱の意味があります。
法心とは仏が悟った真理、般若とは真理を悟る智慧、解脱とは生死の苦悩から
根源的に開放された状態のことであり、この地は涅槃にいたっている
仏が住む地の観があるとして「常寂光寺」と名付けられました。
かって、山門脇に歓喜天堂がありましたが、元治元年(1864)の「禁門の変」の際、
天龍寺から逃れてきた長州兵を追って来た幕府軍の薩摩藩兵により焼かれました。
尚も薩摩藩兵は本堂にも火を放とうとしたのですが、
第32世・日仁がこれをくい止め、焼失は免れました。
仁王門は境内で最も古い建物で、貞和年間(1345~1350)に本圀寺客殿の
南門として建立されたものを、元和2年(1616)に移築されました。
仁王像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝わり、北の政所の甥で小浜城主の
木下長嘯子(きのした ちょうしょうし:1569~1649)により、長源寺から遷されました。
仁王門の右側に藤原定家山荘跡の石碑が建っています。
定家の山荘の場所については諸説あります。
碑には定家の歌が刻まれています。
「小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば いまひとたびの 御幸(みゆき)またなん」
仁王門をくぐった石段上に本堂があります。
本堂は安土・桃山時代の慶長年間(1596~1614)に、第2世・通明院日韶(にっしょう)
により、小早川秀秋の助力を得て伏見城の客殿が移築・修造されたものです。
かっては本瓦葺の二層屋根でしたが、昭和7年(1932)の大修理の際に
平瓦葺屋根に改修されました。
本尊は「法華題目」で、釈迦如来像が安置されています。
鐘楼は寛永18年(1642)に建立されました。
梵鐘は戦時供出され、昭和48年(1973)に京都工芸繊維大学教授・青木一郎氏の
音響設計により鋳造されたものです。
本堂の右側に庫裏があります。
本堂から左側に進むと妙見堂があります。
慶長年間(1596~1610)の保津川洪水の際、上流から流れ着いた妙見菩薩像を
角倉(すみのくら:現在の嵯峨天龍寺角倉町)の船頭が拾い上げ、地元で祀られていました。
享和年間(1801~1803)の第22世・日報上人の時に常寂光寺へ遷され、
第26世・日選上人の代に妙見堂が建立されました。
拝殿は昭和3年(1928)に建立されました。
妙見菩薩は、インド発祥の菩薩ではなく、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と
習合し、仏教の天部の一尊として日本に伝来したものです。
北極星または北斗七星を神格化したもので、「尊星王(そんしょうおう)」、
「妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)」、「北辰菩薩(ほくしんぼさつ)」などとも
呼ばれています。
古代中国では北極星を中心に星々が回転することが既に知られ、北極星が
宇宙の中心と考えられて「北辰」と呼ばれていました。
また、北斗七星は「斗=柄杓」の形をしていることから、
大地を潤す農耕の神として信仰されてきました。
「北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証する」と重要視されました。
中国に仏教思想が流入すると、善悪や真理を見通すという意味が込められた
「妙見菩薩」と称されるようになり、飛鳥時代に日本へ伝わりました。
本殿
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
江戸時代中期に、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に
祀られた妙見宮を巡る「洛陽十二支妙見めぐり」が始まりました。
江戸時代末期から昭和初期にかけては、市内だけでなく関西一円から
大勢の参拝者で賑わうようになりました。
開運や厄除けが祈願された他、「妙見」の語義が「麗妙なる容姿」と解されて
役者や花街の女性などからも信仰を集めました。
石造りの鳥居や石灯籠、本殿前の狛犬などが寄進・奉納されています。
妙見堂から西側へと進む参道の脇には五輪塔があり、石仏が祀られています。
本堂の裏側に戻ると庭園が築かれています。
石段を登ると元和6年(1620)に建立され、重要文化財に指定されている
多宝塔があります。
方三間、重層、宝形造、檜皮葺で総高は12m余りです。
多宝塔の上方に歌仙祠(かせんし)があり、富岡鉄斎筆の扁額が掲げられ、
藤原定家、藤原家隆像が祀られています。
定家の山荘は常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側にあったと伝わり、
室町時代頃から定家像を祀る祠が建てられました。
常寂光寺の創建に伴い、祠は現在地に遷され、明治23年(1890)に以前の祠より
大きな現在の歌仙祠に建て替えられました。
藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
公家・歌人で、2つの勅撰集、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』を撰進しました。
宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じ、18歳から74歳までの
56年にわたる克明な日記『明月記』を残しました。
藤原家隆(1158~1237)は、藤原定家と並び称される歌人で、『新古今和歌集』の
撰者の一人でした。
嘉禎2年12月(1237年1月)に病を得て79歳で出家し、四天王寺に入りました。
四天王寺は日本浄土思想発祥の地とされ、西方の浄土を思って日が没する様子を
見詰める「日想観」が修せられていました。
家隆は四天王寺の西側に夕陽庵(せきようあん)を営み、「日想観」を修したとされ、
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになりました。
大阪市天王寺区夕陽丘町5には、藤原家隆の墓と伝わる家隆塚があります。
歌仙祠の南隣に時雨亭跡(しぐれていあと) があります。
江戸時代の享保13年(1728)の境内図には、既に描かれており、
戦前まで建っていたとされていますが、台風で倒壊したと伝わります。
歌仙祠の右上方に展望台があり、京都市内が一望できます。
東側は比叡山から東山連峰が一望でき、画像の右端に大文字山が望めます。
多宝塔の北側の開山堂は、平成16年(2004)に建立され、
開山・日禎(にっしん)上人坐像が安置されています。
日禎は第105代・後奈良天皇から第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に
仕えた公家・広橋国光の三男で、幼い頃に本圀寺に入り、
18歳で本圀寺第16世となりました。
文禄5年(1596)、豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)から小倉山の土地を
寄進され、常寂光寺を開山して隠棲しました。
落柿舎へ向かいます。
続く