タグ:洛陽十二支妙見

山門
松原通を東へ進み、東大路通を横断した先に日體寺があります。
山号を「常照山」と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見・巳(南南東)の札所です。
創建の詳細は不明ですが、浄土宗の寺院として創建され、
かっては「観音寺」と称されていました。
江戸時代中期の享保6年(1721)に、当時の住職が常照院・日體上人の
法華経折伏(しゃくぶく/しゃくふく)により日蓮宗に改宗されました。
本堂
本堂には像高35cmの北辰妙見菩薩像が安置され、
洛陽十二支妙見・巳の札所本尊となっています。

右手に剣を立て、左手に蛇を持ち、亀に跨っています。
「北辰」とは、北極星のことで、古代中国で呼ばれていたものが
日本に伝わりました。
妙見菩薩は、国土を守り貧窮を救う神で、
北極星としてこの世に現れると伝わります。

この妙見像はかって、祇園下の妙見宮に安置されていたのですが、
妙見宮が廃されることになり、明治18年(1885)に祇園の芸妓が妙見像を
自宅に引き取りました。
その芸妓が亡くなった後に日體寺に葬られ、妙見像も日體寺で
祀られるようになりました。
鎮宅妙見宮
本堂の右側には「鎮宅妙見宮」の碑が建っています。
鎮宅妙見宮の詳細は不明ですが、家内安全の鎮宅霊符と結び付いたものでしょうか...?
庫裡
納経所は本堂横の庫裏にあります。

清水寺へ向かいます。
続く
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寺号標
相国寺から東へ進んだ寺町通に面して本満寺があります。
山号を「広宣流布山(こうせんるふざん)」と号する日蓮宗の本山で、
京都十六本山の札所です。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼き討ちされる以前から存在した法華宗の
本山・洛中法華二十一ヶ寺の一つで、その後帰洛が許され、
単立または合併によって再建された十五ヶ寺に一ヶ寺が追加され、
一部は入れ替えされて現在の京都十六本山となりました。
妙見宮-1
寺町通から参道を進むと総門があり、国の重要文化財に指定されていますが、
その手前の北側に妙見宮があります。
洛陽十二支妙見・丑の札所となっています。
妙見宮-2
本満寺・第13世に就任した日乾(にっけん:1560~1635)は、自ら妙見菩薩像を
二躯刻み、一躯をこの妙見宮に、もう一躯を能勢妙見宮に安置しました。
能勢妙見宮は本満寺の旧末寺・真如寺の境外仏堂で、
真如寺は身延山久遠寺・第21世に就いた日乾に帰依した
能勢頼次(1562~1626)により、創建されました。
七面堂
総門をくぐった先に七面堂があります。
第14世・日遠(にちおん:1572~1642)が七面山で千日修行を行った際に
感得したとされる七面天女が祀られています。
洗い浄行菩薩像-1
七面堂から参道を右側に曲がり、その先を左に曲がった先に
「洗い浄行菩薩像」が祀られています。
洗い浄行菩薩像-2
浄行菩薩は法華経に出現する菩薩で、穢れを清める水徳を持つ菩薩とされています。
また、自身の悪いところ、病気、怪我などで痛む所と同じこの菩薩像の箇所に
水をかけ、磨くことによって治癒するとの信仰があります。
鐘楼
その前に鐘楼があります。
本堂
現在の本堂は明治44年(1911)2月8日に焼失した後、
昭和2年(1927)に再建されました。
本満寺は応永17年(1410)に関白・近衛道嗣の子である日秀(1264~1334)が、
本圀寺(ほんこくじ)から分立し、道嗣の別荘であった現在の
上京区元本満寺(新町通今出川上る西入付近)に創建しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
帰洛したとする説と、天文8年(1539)に関白・近衛尚道(1472~1544)の外護により
現在地で再建されたとする説があり、その後は後奈良天皇の勅願寺となりました。
寛文元年(1661)と宝永5年(1708)及び天明8年(1788)にも
大火で焼失しましたが、その都度再建されました。
万治4年(1751)には8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となりました。
蓮乗院霊屋
本堂の左側に蓮乗院霊屋があります。
蓮乗院(れんじょういん:?~1621)は徳川家康の次男・松平秀康の正室で、
蓮乗院霊屋は元和7年(1621)に没後間もなく建立されたと考えられています。
鶴姫(蓮乗院)は常陸国(茨城県)の水戸城主・江戸重通の娘として生まれました。
天正18年(1590)、水戸城は佐竹義重の攻撃を受け落城し、
重通は妻の兄である結城晴朝の許へと逃れました。
晴朝は鶴姫を養女とし、豊臣秀吉との結びつきを求めて養子の紹介を願い出たところ、
当時、秀吉の養子となって「羽柴秀康」と名乗っていた松平秀康が婿養子として
鶴姫と婚姻し、結城家の家督を継ぐことになりました。
秀吉没後の慶長5年(1600)、秀康は徳川家康による会津征伐に参戦しましたが、
その間隙をぬって石田三成らが挙兵し、関ケ原の戦いが起こりました。
関ヶ原の戦いの後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から
越前北庄68万石に加増移封されました。
慶長9年(1604)には松平氏に復されましたが、慶長12年(1607)に34歳で病死しました。
その後、鶴姫は公卿・烏丸光広(からすまる みつひろ)と再婚しました。
寛永15年(1638)、烏丸光広が60歳で亡くなると、鶴姫は福井に移り
結城家を継いだ子の直基と暮らし、福井で亡くなりました。
直基は秀康の五男で実母は鶴姫の侍女でした。
鶴姫が没後は烏丸家に縁がある本満寺に葬られました。
蓮乗院霊屋は越前産・笏谷(しゃくだに)石を用いた石造建築で、
内部に元和7年(1621)の陰刻をもつ宝篋印塔が据えられています。
五輪塔
その左側の五輪塔は本満寺12世の日重上人(1549~1623)のものと思われます。
若狭小浜で生まれ、千葉の本国寺で出家し、日珖(にちこう:1532~1598)に
師事して日蓮教学を学びました。
本国寺学道求法講院に招かれ開祖となり、門下の養成に努めた後、
久遠寺二十世に就任しました。
慰霊塔
五輪塔の左側に慰霊塔があります。
六地蔵
本堂の右側にある参道を北へ進むと六地蔵が祀られています。
観音像
墓地の入口には観音像が祀られ、墓地には安土・桃山時代の
武将・山中幸盛(1545~1578)の墓があります。
山中幸盛は戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、
尼子氏の家臣でした。
通称で鹿介(しかのすけ)と呼ばれ、優れた武勇の持ち主で
「山陰の麒麟児」の異名もありました。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝わります。
永禄9年(1566)、尼子氏は最後の砦としていた月山富田城(がっさんとだじょう)に
毛利軍の総攻撃を受け、滅ぼされました。
その後、山中幸盛が尼子家の再興に尽力したのですが、
天正6年(1578)の上月城(こうづきじょう)の戦いで敗れ、
尼子家は滅亡し、山中幸盛は捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、
備中国成羽で殺害されました。

京阪出町柳駅まで戻り、次回からは京阪丸太町駅から革堂・行願寺から
京都御苑などを巡ります。
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不明な建物
白河院から二条通を西へ進み、次の路地を北へ入るとクランク状に進み、
曲がった所に、付近の景観とは似合わない工場のようなレンガ造りの建物があります。
不明な建物-門
門構えからすると別荘の建物ようにも思え、調べてみようと考えています。
山門
そこから北上した先、東側に満願寺があります。
山号を「示現山(じげんざん)」と号する日蓮宗の寺院で、
京都御所から辰(東南東)の方角に当たる、洛陽十二支妙見の5番の札所です。
現在の山門は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
山門には山号の扁額「示現山」が掲げられています。
題目石塔
門の左側(北側)に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔が建っています。
文子天満宮-鳥居
門を入った左側に文子(あやこ)天満宮があり、拝殿及び本殿は
京都市の文化財に指定されていますが、拝殿は倒壊しています。
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、延喜3年(903)に
道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、「われを右近の馬場に祀れ」との
道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、右京七条二坊の自宅に
小さな祠を建てて道真を祀り、これが北野天満宮の始まりであり、
天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社が創建され、
現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった
現在の北野天満宮の地に遷されました。
文子天満宮
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前の天慶3年(940)に西ノ京に遷され、
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
安置する真言宗の寺院が満願寺の始まりとされています。
道真の託宣が多治比文子によって成就され、
道真の霊が示現したことから山号を「示現山」と称したと伝わります。
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
倒壊前の拝殿
こちらは平成29年(2017)8月参拝時の倒壊前の拝殿です。
鎮守社-鳥居
右側には鎮守社と思われる小さな祠があります。
鎮守社
詳細は不明ですが、祠の前にとぐろを巻く蛇の石像、
覆屋にも蛇の彫刻が施されています。
本堂
本堂は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて造営され、
京都市の文化財に指定されています。
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、
元禄14年(元禄15年とも...)に現在の地に移りました。
元禄13年(1700)には第113代・東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
安永3年(1774)に本光寺が焼失したために、満願寺に遷されました。
本堂のかご
本堂の軒下にはかごが吊るされています。
本堂のウサギ
本堂の屋根にはうさぎが...
妙経万部之塔
本堂の右前に見える石碑は、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を
記念する「妙経万部之塔」です。
経塔
境内の北東側には「経塔」と刻まれた石碑が建っています。
手水舎
本堂の右側、庫裡への参道脇に手水舎があり、現在地に移転した直後に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
庫裡
庫裡
俊寛僧都故居碑
庫裡の手前には「俊寛僧都故居碑」が建立されています。
俊寛僧都(しゅんかん そうず)は、後白河上皇の側近で、
法勝寺執行の地位にありました。
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘
藤原成親西光らと平氏打倒の密議を行いました。
しかし、密告により陰謀は露見し薩摩国の鬼界島に流され、
その後、俊寛は死を決意して、食を断ち自害したと伝わります。
鐘楼
向かいには元禄16年(1703)に建立された鐘楼があり、
京都市の文化財に指定されています。
閼伽井天
右側に「閼伽井天」が祀られ、その脇に法勝寺で使われていたと
伝わる井戸が残されています。
俊寛の荒行井戸
この井戸は、「俊寛の荒行井戸」とも呼ばれていました。
祖師堂
庫裡の左側に祖師堂があり、本妙寺分身の日蓮像が安置されています。
溝口健二之碑
祖師堂前の参道脇に映画監督「溝口健二之碑」が建立されています。
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
境内に建てられたそうです。
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
その後の変遷を経て、昭和30年(1955)に当時、永田雅一が社長だった
大映の取締役に就任、重役監督となりました。
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
翌年、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し亡くなりました。
大阪物語の碑
「溝口健二之碑」の横に「大阪物語」の碑が建てられています。
こちらは平成11年(1999)の市川準監督「大阪物語」のあらすじです。

平安神宮へ向かいます。
続く
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山門
松ヶ崎大黒天から松ヶ崎橋の方へ戻り、橋を渡って川端通りを横断した先で
右折し、その先直ぐを左折して東へ進みます。
叡山電鉄の踏切を渡り、その先の白川通りを横断して音羽川沿いに東へ進みます。
途中で、音羽川から離れて修学院離宮の方へ向かう道と分岐しますが、
音羽川沿いに進み、二つ目の「烏丸橋」を渡った右側に導入寺があります。
(画像および記事は平成30年(2018)3月のものです)

導入寺は、山号を「法華山」と号する日蓮宗の寺院で、
洛陽十二支妙見の第3番(寅)札所です。
日長上人は、音羽川の上流で苦行を行い、この地に留まって正保3年(1646)に
道入寺を創建したと伝わります。

寅の焼き物
山門をくぐった正面に玄関があり、玄関前には「福寿寅」の
焼き物が置かれています。

本堂
左側に本堂があります。

本堂-扁額
本堂には「法華山」の扁額が掲げられています。
妙見堂
本堂前の南側に妙見堂があり、洛陽十二支妙見・第3番(寅=北東)の
札所本尊となっています。
この妙見像は、昭和54年(1979)に当時の住職が発見した像高20cmの坐像で、
左手に数珠を持つ僧形をした珍しい像とされています。
台座には七面天女像が祀られています。

赤山禅院へ向かいます。
続く
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山門
「無動庵」から100m足らず西へ進んだ突き当りに常寂光寺があります。
南約100mに小倉池があるので随分遠回りして来た感があります。
山門は江戸時代後期に改修されました。
江戸時代中期の「都名所図会」には袖に土塀をめぐらした薬医門が
描かれていますが、現在は土塀は取り払われ、「塀の無い寺」となっています。
常寂光寺は山号を小倉山と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見の札所です。
慶長元年(1596)に本圀寺(ほんこくじ)十六世・日禎(にっしん)が
この地に隠棲して開創されました。
常寂光の「常」には法心(ほっしん)、「寂」には般若、
「光」には解脱の意味があります。
法心とは仏が悟った真理、般若とは真理を悟る智慧、解脱とは生死の苦悩から
根源的に開放された状態のことであり、この地は涅槃にいたっている
仏が住む地の観があるとして「常寂光寺」と名付けられました。

かって、山門脇に歓喜天堂がありましたが、元治元年(1864)の「禁門の変」の際、
天龍寺から逃れてきた長州兵を追って来た幕府軍の薩摩藩兵により焼かれました。
尚も薩摩藩兵は本堂にも火を放とうとしたのですが、
第32世・日仁がこれをくい止め、焼失は免れました。
仁王門
仁王門は境内で最も古い建物で、貞和年間(1345~1350)に本圀寺客殿の
南門として建立されたものを、元和2年(1616)に移築されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝わり、北の政所の甥で小浜城主の
木下長嘯子(きのした ちょうしょうし:1569~1649)により、長源寺から遷されました。
山荘跡石碑
仁王門の右側に藤原定家山荘跡の石碑が建っています。
定家の山荘の場所については諸説あります。
碑には定家の歌が刻まれています。
「小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば いまひとたびの 御幸(みゆき)またなん」
本堂への石段
仁王門をくぐった石段上に本堂があります。
本堂
本堂は安土・桃山時代の慶長年間(1596~1614)に、第2世・通明院日韶(にっしょう)

により、小早川秀秋の助力を得て伏見城の客殿が移築・修造されたものです。
かっては本瓦葺の二層屋根でしたが、昭和7年(1932)の大修理の際に
平瓦葺屋根に改修されました。
本尊は「法華題目」で、釈迦如来像が安置されています。
鐘楼
鐘楼は寛永18年(1642)に建立されました。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は戦時供出され、昭和48年(1973)に京都工芸繊維大学教授・青木一郎氏の
音響設計により鋳造されたものです。
庫裏
本堂の右側に庫裏があります。
妙見堂
本堂から左側に進むと妙見堂があります。
慶長年間(1596~1610)の保津川洪水の際、上流から流れ着いた妙見菩薩像を
角倉(すみのくら:現在の嵯峨天龍寺角倉町)の船頭が拾い上げ、地元で祀られていました。
享和年間(1801~1803)の第22世・日報上人の時に常寂光寺へ遷され、
第26世・日選上人の代に妙見堂が建立されました。
妙見堂-拝殿
拝殿は昭和3年(1928)に建立されました。
妙見菩薩は、インド発祥の菩薩ではなく、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と
習合し、仏教の天部の一尊として日本に伝来したものです。
北極星または北斗七星を神格化したもので、「尊星王(そんしょうおう)」、
「妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)」、「北辰菩薩(ほくしんぼさつ)」などとも

呼ばれています。
古代中国では北極星を中心に星々が回転することが既に知られ、北極星が
宇宙の中心と考えられて「北辰」と呼ばれていました。
また、北斗七星は「斗=柄杓」の形をしていることから、
大地を潤す農耕の神として信仰されてきました。
「北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証する」と重要視されました。
中国に仏教思想が流入すると、善悪や真理を見通すという意味が込められた
「妙見菩薩」と称されるようになり、飛鳥時代に日本へ伝わりました。
妙見堂-本殿
本殿
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
江戸時代中期に、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に
祀られた妙見宮を巡る「洛陽十二支妙見めぐり」が始まりました。
江戸時代末期から昭和初期にかけては、市内だけでなく関西一円から
大勢の参拝者で賑わうようになりました。
開運や厄除けが祈願された他、「妙見」の語義が「麗妙なる容姿」と解されて
役者や花街の女性などからも信仰を集めました。
妙見堂-狛犬
石造りの鳥居や石灯籠、本殿前の狛犬などが寄進・奉納されています。
五輪塔
妙見堂から西側へと進む参道の脇には五輪塔があり、石仏が祀られています。
本堂-裏の庭園
本堂の裏側に戻ると庭園が築かれています。
多宝塔
石段を登ると元和6年(1620)に建立され、重要文化財に指定されている
多宝塔があります。
方三間、重層、宝形造、檜皮葺で総高は12m余りです。
歌仙祠
多宝塔の上方に歌仙祠(かせんし)があり、富岡鉄斎筆の扁額が掲げられ、
藤原定家、藤原家隆像が祀られています。
定家の山荘は常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側にあったと伝わり、
室町時代頃から定家像を祀る祠が建てられました。
常寂光寺の創建に伴い、祠は現在地に遷され、明治23年(1890)に以前の祠より
大きな現在の歌仙祠に建て替えられました。
藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
公家・歌人で、2つの勅撰集、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』を撰進しました。
宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じ、18歳から74歳までの
56年にわたる克明な日記『明月記』を残しました。

藤原家隆(1158~1237)は、藤原定家と並び称される歌人で、『新古今和歌集』の
撰者の一人でした。
嘉禎2年12月(1237年1月)に病を得て79歳で出家し、四天王寺に入りました。
四天王寺は日本浄土思想発祥の地とされ、西方の浄土を思って日が没する様子を
見詰める「日想観」が修せられていました。
家隆は四天王寺の西側に夕陽庵(せきようあん)を営み、「日想観」を修したとされ、
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになりました。
大阪市天王寺区夕陽丘町5には、藤原家隆の墓と伝わる家隆塚があります。
時雨亭跡
歌仙祠の南隣に時雨亭跡(しぐれていあと) があります。
江戸時代の享保13年(1728)の境内図には、既に描かれており、
戦前まで建っていたとされていますが、台風で倒壊したと伝わります。
展望台-市内
歌仙祠の右上方に展望台があり、京都市内が一望できます。
展望台-比叡山
東側は比叡山から東山連峰が一望でき、画像の右端に大文字山が望めます。
開山堂
多宝塔の北側の開山堂は、平成16年(2004)に建立され、
開山・日禎(にっしん)上人坐像が安置されています。
日禎は第105代・後奈良天皇から第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に
仕えた公家・広橋国光の三男で、幼い頃に本圀寺に入り、
18歳で本圀寺第16世となりました。
文禄5年(1596)、豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)から小倉山の土地を
寄進され、常寂光寺を開山して隠棲しました。

落柿舎へ向かいます。
続く

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