太閤堤-石碑
三室戸寺から下り、京阪電車の三室戸駅横を通り過ぎ、宇治川堤防の手前で左折した
突き当りに史跡「宇治川太閤堤跡」があります。
太閤堤-1
平成19年(2007)の夏に発見され、現在は仮称「宇治川太閤堤跡歴史公園」の
工事中でフェンスで囲われ、平成30年(2018)に訪れた時はフェンスに
説明板が取り付けられていましたが、
今回は取り払われていました。
工事は令和3年(2021)の完成を目指し継続中です。
太閤堤-2
平成30年(2018)に訪れた際、許可を得て

入口近くの堤防跡らしきものを撮影しました。
太閤堤-3
豊臣秀吉は、文禄3年(1594)に完成した伏見城築城を契機として、
宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を行いました。
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方向に流れて巨椋(おぐら)池に
合流していましたが、北方に流れる流路にまとめられ、伏見城下へと導かれました。
しかし、その後の氾濫のため埋没し、明治時代に新たに現在の堤防が築かれ、
太閤堤とは流路も外れました。
そのため遺構は極めて良好な状況に保存されていて、
公園整備後は太閤堤の詳しい状態が見られると思います。
菟道雅郎子の墓-宮内庁
史跡「宇治川太閤堤跡」の斜め向かいに菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の墓があり、
考古学名は「丸山古墳」と名付けられています。
菟道雅郎子の墓-石碑
菟道雅郎子は、第15代・応神天皇の皇太子で、異母兄の大鷦鷯尊
(おおさざきのみこと=仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされています。
『日本書紀』によれば、菟道雅郎子は聡明で、百済から来朝した阿直岐(あちき)と
王仁(わに)を師に典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
王仁は『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字を日本に伝えた人物とされています。
また、滋賀県豊郷町安食西には、阿直岐を神とした阿自岐神社(あじきじんじゃ)があります。

菟道稚郎子は儒教を学んだことから、天皇には異母兄の大鷦鷯尊
(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)が、天皇に相応しいとして即位しませんでした。
菟道稚郎子命は菟道に移り住みましたが、河内の国からこの地に向かう際
道に迷い困っていたところ、一羽の兎が現れて道案内をしました。
兎は先導して振り返りながら、莵道雅郎子を正しい道へと導いたことにより
「見返りの兎」の伝承となって「莵道」という地名が生まれ、
平安時代に「宇治」に定着したとされています。
菟道雅郎子の墓
現在の宇治神社または宇治上神社の地に「菟道宮(うじのみや)」を建てて住まい、
大鷦鷯尊と3年に亘って皇位を譲り合いました。
そして、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩み自ら果てました。
313年、大鷦鷯尊が第16代・仁徳天皇として即位すると、天皇は菟道宮跡に祠を建て
菟道稚郎子命の神霊を鎮祭しました。
それが宇治神社の始まりとされています。
浮舟の碑
墓に隣接して「浮舟宮跡」の石碑が建立されています。
かって、この付近一帯は「浮舟の森」と呼ばれ、榎木の大木が茂り、
その中に浮舟宮(浮舟社)がありました。
『源氏物語・宇治十帖』の浮舟が祀られていましたが、江戸時代中期に社は廃絶しました。
浮舟の碑-フェンス
今は工事中のフェンスで囲まれていますが、やがて「宇治川太閤堤跡歴史公園」の
一角として、もう少し注目されるような気がします。

次回は万福寺から醍醐寺、明治天皇陵を経て御香宮神社を巡ります。
続く
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