涌峯塔
表参道から石段を西側に下った広場に、高さ18.3mの涌峯塔(ゆうほうとう)が
建っていますが、本殿より高くならないように配慮されています。
昭和59年(1984)に清水九兵衛(きよみず きゅうべえ)の神刀や神職の使用する
笏(しゃく)・冠などをイメージしたデザインにより建立されました。
山上では水圧が低いため、一度ポンプで塔の高いところに上げて、
落下する水の勢いを利用して各所に配水する給水塔の役割を果たしています。

かって、この地は「西谷」と呼ばれる谷でしたが、平安時代後期に白河法皇が
大塔の建立を発願したのをきっかけに、谷が埋められて整地されました。
この付近には長久元年(1132)に待賢門院(たいけんもんいん)の発願により建立された
小塔(多宝塔)がありました。
藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ)は7歳の時に実父・公実(きんざね)を亡くし、
白河法皇が養父となり育てられました。
永久5年(1117)12月13日に第74代・鳥羽天皇に入内し、元永2年(1119)5月28日、
第一皇子・顕仁親王(あきひとしんのう=後の崇徳天皇)を出産しました。
保安4年(1123)正月28日、白河法皇は5歳になった顕仁に践祚(せんそ)させ、
璋子も翌天治元年(1124)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称しました。
しかし、鳥羽上皇は側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛し、得子が生んだ
第八皇子・体仁親王(なりひとしんのう)を立太子させ、崇徳天皇に譲位を迫りました。
永治元年(1141)12月7日、体仁親王が第76代・近衛天皇として即位すると、
天皇を狙った呪詛(じゅそ)事件が相次いで発覚し、待賢門院が黒幕として疑われ、
権勢を失いました。
待賢門院は康治元年(1142)に自ら建立した法金剛院において落飾し、
3年後の久安元年(1145)8月22日に長兄・実行の三条高倉第にて崩御しました。
文禄5年/慶長元年(1596)の慶長の大地震で塔は倒壊し、
その後に再建されることはありませんでした。
大塔設計図
大塔の設計図
小塔の北側には大塔がありました。
大塔は白河法皇の発願により天永2年(1111)に建立されました。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼に再建されましたが、その絵図面によると側柱の一辺14.9m、
高さ27.1mの規模を誇り、根来寺の大塔とほぼ同規模の日本最大級の真言形式の大塔でした。
しかし、明治の神仏分離令により失われました。
エジソン記念碑
涌峯塔の西側にエジソン記念碑があります。
トーマス・エジソンは白熱電球のフィラメントに男山の「八幡竹」を使い、
白熱電球を商用化しました。
白熱電球はイギリスの物理学者・ジョゼフ・スワンが発明・実用化しましたが、
エジソンはフィラメントに竹を使い点灯時間を飛躍的に伸ばしました。
1900年代初頭にタングステン製のフィラメントが登場するまでの
約10年間、八幡竹が使われました。
電気自動車コンセント
エジソン記念碑の前には電気自動車の充電器がありますが、
使用されているのを見たことはありません。
バッテリーと充電の改良、それに価格が下がれば電気自動車の
普及が加速されるかもしれません。
その前に、スマホでナビに使うとすぐに減ってしまうバッテリーを何とかしてほしい。
宇宙桜
エジソン記念碑の南側に「宇宙桜」が植栽されています。
高知県仁淀川町の小学生達が、樹齢500年のひょうたん桜の種を採取し、
平成20年(2008)、スペースシャトル「エンデバー」号で宇宙に運ばれ、実験棟「きぼう」で
259日間の宇宙旅行を経て、翌年若田飛行士と共に地球に生還しました。
170粒の種は、仁淀川町に返還され、翌平成22年(2010)春に4本が発芽しました。
育成された枝から接木された50本の内の1本です。
茶室
宇宙桜の南側に茶室「鳩峯庵」があります。
清峯殿(研修センター)に申し込めば、5,000円で使用できるそうです。
中尾都山の頌徳碑
茶室の南側に尺八・都山流の創始者・中尾都山の
頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。
中尾都山は石清水八幡宮への信仰が厚く、枚方の都山邸に石清水八幡宮を分祀して、
流の記念行事をその神前で行いました。
この伝統は現在も都山流会館で続いています。
この碑は流祖七回忌記念事業として昭和37年(1962)に建立されました。
楠峯館
広場の西側に無料の山上駐車場があり、その南側に青少年文化体育センターの
体育館「楠峯館(なんぽうかん)」があります。
茶園
楠峯館の手前を南へ進んだ所に茶園があります。
石清水八幡宮では宇治・山城地区の各献茶家から毎年献茶が奉納されていました。
昭和22年(1947)7月には益々の茶業振興を志し「石清水八幡宮献茶講」が設立されました。
献茶講では、毎年9月下旬にその献茶の審査品評会が行われ、入賞した献茶は、
10月27日に斎行される秋季献茶祭にて全献茶を御神前にお供えした後、
褒賞式にて表彰されます。
昭和26年(1951)には、更なる茶業の発展を願い境内に「鳩嶺(きゅうれい)茶園」が
開園されましたが、昭和58年(1983)春に宿泊施設・研修センターの建設に伴い閉園となりました。
現在の茶園は平成16年(2004)4月に「雄徳山(おとこやま)茶園」として復活されたものです。
石翠亭
参道の西側には「石翠亭」と呼ばれる休憩所があります。
供御井
石翠亭の北側に供御井があります。
かっては神饌(しんせん)の調理などに使われていたのかもしれません。
八角堂-古絵図
古絵図では供御井の西側、現在の三女神社の付近に八角堂、
その南側に大塔が描かれています。
八角堂は鎌倉時代初期の健保年間(1213~19)に第84代・順徳天皇の発願により、
石清水八幡宮検校・善法寺祐清(ぜんぽうじゆうせい)によって建立されました。
慶長12年(1607)に豊臣秀頼によって再建されましたが、
寛文年間(1661~73)には破損転倒していました。
元禄11年(1698)に善法寺央清(ぜんぽうじおうせい)の勧進により再建され、
神仏分離令により撤去されました。
八角院
明治3年(1807)、正法寺の住職・志水円阿(しみずえんあ)が八角堂と元三大師堂を譲り受け、
所有地であった西車塚古墳の後円部上に移築しました。
八角堂の東側に庫裏を、その南側に茶所を設け、「八角院」と称されていました。
しかし、その後荒廃し、八角堂を除いた建物は昭和50年代には撤去されました。
八角堂
平成24年(2012)に石清水八幡宮の境内が国の史跡に指定されたのに伴い、
この地も境内の一部として指定され、八幡市の所有となりました。
市は平成26年(2014)から保存修理工事を行い、平成31年(2019)3月末に完了しました。
阿弥陀如来
本尊であった像高約3mの阿弥陀如来坐像は重要文化財に指定され、
現在は正法寺の法雲殿に安置されています。
三女神社-1
三女神社(さんみょうじんじゃ)には、多紀理毘売命(たぎりびめ)、
市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神が祀られています。
三女神社-2
宗像三女神は比咩大神として本殿の西御前にも祀られています。
『日本書紀』巻第三「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の
御許山(おもとやま)に降臨し、宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐八幡宮の
本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしています。
地蔵尊-1
地蔵尊-2
ケーブル山上駅の方へ下って行くと駅前には地蔵尊が祀られています。
山上駅
ケーブル男山山上駅
10月1日からは「ケーブル八幡宮山上駅」に改められます。
展望台への石段
駅前には展望台への石段があります。
十三重石塔
展望台には十三重石塔が建っています。
竹細工-展示
竹細工
展望台にはNPO法人「八幡たけくらぶ」の集会所があります。
八幡たけくらぶは男山に点在する竹林の整備活動を行うボランティア団体で、
展望台や集会所には竹細工製品の展示が行われています。
谷崎潤一郎文学碑
展望台には谷崎潤一郎の文学碑が建立されています。
谷崎潤一郎は大正12年(1923))9月1日に起こった関東大震災で横浜の自宅が類焼し、
関西に移り住みました。
現在の神戸市で何度か転居を繰り返し、昭和7年(1932)に根津松子の隣に転居しました。
根津松子は『細雪』の幸子のモデルとなった人物で、この年から松子との
不倫が始まり、同年に『蘆刈(あしかり)』が発表されました。
『蘆刈』は十五夜の大山崎から橋本へ渡る淀川の中州が舞台となり、
月を背にする男山が描写されています。
また、蘆の中で出会った男が語った恋の話は、当時の潤一郎の心境だったのかもしれません。
この碑は谷崎潤一郎生誕100年に当る昭和61年(1986)7月24日に除幕されました。
京阪電車
展望台の眼下には木津川鉄橋を渡る京阪電車が望めます。
比叡山
東北方向には平安京を守護する比叡山とその奥には比良山が顔を覗かせています。
天王山
西には天王山が迫っています。
愛宕山
北西にはとんがった愛宕山があり、周囲を山で囲われている故に千年以上、
京都が都であり続けたのかもしれません。
鳥居
展望台から参道の方へ進むと鳥居が建っています。
かってはケーブル山上駅からのメインルートだったのか?
麓から別の参道があったのか?定かではありません。
大西坊跡
鳥居の手前に太西坊(たいせいぼう)跡の説明板があります。
太西坊の住職・専貞(せんてい)は赤穂藩家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の実弟で、
後を継いだ覚運は内蔵助の養子でした。
「松の廊下事件」の7日後、内蔵助は覚運に仮住まいできる邸宅を探すように依頼しています。
覚運が紹介したのが、山科の邸宅跡でしょうか?
討ち入り後、覚運が討ち入りを手伝ったことが評判となり、沢山の寄付が集まって
覚運は坊を再興したと伝わります。
近年、覚運の墓が善法律寺で見つかりました。

裏参道を下ります。
続く

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