西門
御室八十八ヶ所霊場から下ってきた所に仁和寺の西門があります。
境内の立ち入りは無料ですが、桜の季節は有料となります。
御影堂-門
門を入った北側に御影堂の門があります。
御影堂
御影堂は鎌倉時代の建暦元年(1211)に創建されましたが、応仁・文明の乱
(1467~1477)で焼失し、寛永年間(1624~1644)に慶長年間(1596~1615)に
造営された御所の清涼殿の一部が下賜され、移築・再建されました。

堂内には像高75cmの弘法大師像、像高75cmの宇多法皇像、
像高80cmの性信親王像が安置されています。
これらの像は全て、寛永年間(1624~1644)の再建時に造立されました。
仁和寺は仁和2年(886)に第58代・光孝天皇の勅願で建立に着手されましたが、
天皇は翌年に崩御されました。
遺志を継いだ第59代・宇多天皇により、仁和4年(888)に落成し、
「西山御願寺」と称されましたが、その後、年号から「仁和寺」と改称されました。
空海の弟子・真然を導師として盛大な落慶法要が営まれたことから、
仁和寺は真言宗の寺院となりました。
寛平9年(897)、宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(899)に東寺長者
(東寺の管理者・長官)の益信(やくしん:827~906)を戒師として出家し、
「寛平法皇」と名乗りました。
更には延喜元年(901)に東寺で伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨となると、
法皇の弟子となった僧侶に灌頂が授けられるようになりました。
法皇は弟子の僧侶を朝廷の法会に推挙し、真言宗と朝廷との関係強化や
地位の向上を計りました。
延喜4年(904)に法皇は「御室」と呼ばれる僧坊を造営して移り住みました。
承平元年(931)に法皇が65歳で崩御され、性信親王が仁和寺第二世となりました。

性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう:1005~1085)は第67代・三条天皇の
第4皇子で、寛仁2年(1018)に出家し、治安3年(1023)に
仁和寺で伝法灌頂を受戒しました。
親王宣下を受けてから出家されたので「入道親王」と称せられます。
性信親王は、第70代・後冷泉天皇が病の際、その平癒を祈願して
霊験があったことなどから永保3年(1083)に二品に叙せられました。
出家した皇族に品位が与えられた最初の例とされています。
別当よりも上位にあたる検校(けんぎょう)に任じられ、仁和寺第二世となりました。
水掛不動尊-1
御影堂の東側に門があり、出た所に水掛不動尊が祀られています。
近畿三十六不動尊霊場・第14番の札所本尊でもあります。
水掛不動尊は「菅公腰掛石」の上に安置されています。
宇多法皇は譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、
大納言・藤原時平の次席とし、道真と時平に政務を委ねました。
昌泰2年(899)に時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、
同時に菅原道真も右大臣に任ぜられました。
しかし、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた
醍醐天皇と藤原時平・藤原菅根(ふじわら の すがね)らが政治の主導権を奪還せんと、
道真に太宰府への左遷を下しました。(昌泰の変=しょうたいのへん)
道真は上皇に無実を訴えるため仁和寺に訪れたのですが、
上皇が御影堂で勤行中であったため、道真がこの石の上に腰を掛け
勤行が終わるのを待っていたとされています。
法皇は急遽内裏に向かいましたが、宮門は固く閉ざされ、
藤原菅根は醍醐天皇への取次も行わなかったと伝わります。
水掛不動尊-2
不動明王の石像はかって、一条戻り橋が洪水で流された際、その復旧工事中に
下流から出現したもので、当初は現地で祀られていました。
しかし、不動明王が仁和寺に帰りたいと告げたので、
地元の人々により現在地に安置されました。
その後、腰掛石の下から水が湧き出したと伝わります。
鐘楼
南へ進むと、正保元年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されている鐘楼があります。
大黒堂
御影堂の向かい側に、江戸時代初期に建立された大黒堂があります。
毎月28日に護摩供が修せられています。
令和阿弥陀堂
大黒堂の南側に令和阿弥陀堂があり、その前には石庭が築かれています。
御室桜
更にその南側には桜の林があります。
「御室桜」と呼ばれ、遅咲きの桜として有名で、国の名勝に指定されています。
背丈が伸びず、遅咲きなのは、粘土質の土壌で土中に
酸素や栄養分が少ないのが要因の一つと考えられています。
観音堂
東側に曲がると、寛永18年(1641)から正保元年(1644)にかけて建立され、
国の重要文化財に指定されている観音堂があります。
本尊は寛永期作の千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、
更にその周囲に二十八部衆が安置されています。
須弥壇の背後や壁面、柱などには、白衣観音をはじめ仏・高僧などが
極彩色で描かれていますが、堂内は通常非公開です。
五重塔-1
観音堂前の参道を東へ進むと、寛永21年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されている総高36.18mの五重塔があります。
五重塔-梵字
塔正面には大日如来を表す梵字の扁額が掲げられ、
塔内須弥壇の中央に大日如来像が、それを囲み、東に宝幢 (ほうどう) 、
南に開敷華 (かいふけ) 、西に無量寿、北に天鼓雷音 (てんくらいおん) の
胎蔵界の四仏が安置されています。
塔の中央に心柱、それを囲むように四本の天柱が塔を支え、
柱や壁面には真言八祖像などが描かれています。
金堂への参道
五重塔から東の木立へと進むと、烏から奇襲攻撃を受けました。
二羽の烏が交互に、頭をめがけて襲ってきます。
寸前のところで身をかがめて何の逃れ、退散して五重塔と観音堂の間にある
南北の参道まで退却しました。

参道の北側の正面に金堂があります。
金堂-1
慶長年間(1596~1615)に造営された御所の紫宸殿が下賜され、
寛永年間(1624~1643)に移築されました。
宮廷建築の数少ない遺構として国宝に指定されています。
本尊は創建時の阿弥陀三尊像で、国宝に指定されていますが、
現在は霊宝館で安置されています。
阿弥陀如来坐像は像高89.5cmで、宇多天皇が崩御された父・光孝天皇の追善のため
造立したと伝わり、光孝天皇の等身大とされています。
腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像で、平安時代の彫刻が次第に和様式へと
たどる出発点の造形とされています。
左脇侍は像高123.3㎝の観音菩薩立像、右脇侍は像高123.4cmの勢至菩薩立像です。
金堂-2
現在の金堂には、江戸時代の再建時に造立された
阿弥陀三尊像が安置されています。
また、梵天、帝釈天、四天王像などが安置され、
壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。
黄石公
金堂向拝の屋根の左右には、黄石公(こうせきこう)を乗せた
亀の飾り瓦が施されています。
黄石公は中国秦代末の隠者で、前漢創始の功臣・張良に
太公望の兵書を授けたとされています。
呂尚(りょ しょう)は、古代中国・周の軍師で、「太公望」と呼ばれ、殷(いん)を破った
軍功により、斉(せい)の地を与えられてとされています。
兵法書『六韜(りくとう)』を著し、釣を好んだことから、
日本では釣り師の代名詞となっています。
亀は3000~4000年に一度、水面に顔出すとされ、黄石公はその亀を
3~4回見たそうで、永遠の象徴として安置されています。
中門
金堂から南へ進んだ正面に江戸時代に再建された中門があります。
三間一戸の八脚門で、国の重要文化財に指定されています。
増長天像
増長天像
多聞天像
多聞天像
門には増長天像と多聞天像が安置されています。
済信塚
門をくぐり南へ進んだ東側に済信塚があります。
済信(さいじん/せいじん:954~1030)大僧正の聖徳をしのび
追恩謝徳の浄域として定められました。
済信大僧正は、仁和寺二世・性信入道親王の師であり、
万寿4年(1028)の藤原道長の葬儀の際は導師を務めました。
仏教界の聖僧として寛仁4年(1020)には、
朝廷より僧侶として初めて牛車の使用を許されました。
霊宝館
済信塚の南側を東へ曲がった北側に大正15年(1926)に
建立された霊宝館があります。
霊宝館は春(3/20~5/31)と秋(9/19~12/6)に開館されていますが、令和2年(2020)は
第58代・光孝天皇の1133回忌を記念して夏(7/21~8/31)にも開館されます。
霊宝館では国宝12件、重要文化財47件、古文書類をあわせると
数万件にも及ぶ寺宝が収蔵されています。
金剛華菩薩像
霊宝館の前に、仏師・長田晴山により、昭和56年(1981)の宇多法皇1050年
御忌法要の記念事業として造立された金剛華菩薩像が祀られています。
「花の仏さま」と呼ばれ、花を愛した宇多法皇を流祖とする華道・御室流の
技芸上達を祈願して造立されました。
御室会館
霊宝館から東へ進んだ南側に御室会館があります。
青少年錬成道場として、日本船舶振興会(現日本財団)から助成を受け、
昭和53年(1978)に完成しました。
修学旅行や海外学生団体の宿泊などの他、各種研修会、勉強合宿、
地域の福祉活動の場として利用されています。
冠木門
御室会館の前を北へ進むと冠木門があります。
九所明神社-鳥居
門をくぐって先に進むと鳥居が建っています。
烏の襲撃にビビリながら先へ進んだのですが、烏は出かけられたようで、
姿は見かけませんでした。
九所明神社-拝殿
先へ進むと鎮守社・九所明神社の拝殿があります。
九所明神社-織部灯籠
拝殿の先に九所明神社があり、その前には織部灯籠が建っています。
古田織部により創案されましたが、竿の円部に、アルファベットを
組み合わせた記号を陰刻し、その下部に立像が浮彫されました。
これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、「マリア灯籠」とか
「切支丹灯籠」とも呼ばれました。
九所明神社
九所明神は仁和寺の初代別当・幽仙が勧請した伽藍鎮守で、中殿・左殿・右殿から成り、
現在の社殿は寛永年間(1624~1643)の伽藍再建時に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
九所明神社-中殿
中殿は「八幡三所」と称され、石清水八幡宮の祭神・誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)の
三柱が祀られています。

東側の左殿には、伏見稲荷大社の稲荷大明神、八坂神社の牛頭天王、
日吉大社西本宮の日吉大明神、及び下鴨神社の賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)と上賀茂神社
賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が祀られています。

西側の右殿には松尾大社の松尾大神、平野神社の平野大明神、
日吉大社東本宮の小日吉大明神、木嶋坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)の木野嶋天神が祀られています。
経蔵
九所明神社の左奥に経蔵があります。
寛永(1624~1643)~正保年間(1645~1648)に建立された宝形造、
禅宗様の建物で、国の重要文化財に指定されています。
堂内中央には八角輪蔵が設けられ、天海版の『一切経』などが収められています。
天海は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の大僧正で、
諡号(しごう)を「慈眼大師(じげんだいし)」と称します。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、
延暦寺の再興にも関わりました。
慶安元年(1648)には、幕府の支援により一切経(大蔵経)の印刷と出版を行いました。
堂内には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯の仏像が安置され、
壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれています。
烏に襲われることもなく無事に金堂前まで戻り、
参道を南へ進んで二王門へ向かいます。
二王門
二王門は寛永14年(1637)~正保元年(1645)に再建された重層、入母屋造、
本瓦葺で高さ18.7mの建物で、国の重要文化財に指定されています。
同時期に建立された知恩院三門と南禅寺三門を合わせ「京都三大門」と
呼ばれますが、仁和寺の二王門が和様に対し、他は禅宗様です。

仁和寺は山号を大内山と号する真言宗御室派の総本山で、
真言宗十八本山・第6番、京都十三仏霊場・第9番、
近畿三十六不動尊霊場・第14番及び神仏霊場の第92番札所です。
また、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として、
ユネスコの世界遺産に登録されました。
仁王像-左
吽形像
仁王像-右
阿形像
二王門には仁王像が安置されています。
中門-遠景
門をくぐり、中門を見ると背後に山号となった大内山が望めます。

仁王門をくぐった左側の一画は「御殿」と呼ばれています。
御殿を巡ります。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村