金剛輪寺の付近には名神高速道路湖東三山スマートICがありますが、
125ccバイクには関係無しで国道307号線から高速道路を超えて東へ進み
金剛輪寺の駐車場へと向かいます。
駐車場から総門へと向かう東側に「バイク地蔵」という有難いお地蔵様が祀られ、
丁重に交通安全を祈願しました。
「一馬地蔵」と刻字されていますが、「一馬」と「バイク」にどのような関係があるのかは不明です。
総門は江戸時代に建立され「黒門」とも呼ばれています。
大きな聖観音の提灯が下がっています。
金剛輪寺は山号を「松峯山」と号する天台宗の寺院で、神仏霊場・第135番や
びわ湖百八霊場・第63番などの札所となっています。
また、西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山と称されています。
総門をくぐると受付があり、納経所も兼ね入山料600円と御朱印の300円を納めます。
受付の向かいには愛荘町立歴史文化博物館がありますが、入館は行っていません。
真っ直ぐに伸びる参道の突き当りに西谷堂があります。
西谷堂は江戸時代に建立され、阿弥陀如来立像と地蔵菩薩の石像が安置されています。
西谷堂の左前には阪神大震災犠牲者の慰霊碑や平和地蔵が祀られています。
西谷堂前で参道は左に折れ、突き当りには赤門がありますが、門は閉じられています。
赤門前を右に折れると本坊の明寿院があり、門には「白門」と記されています。
門の左前には龍華地蔵が祀られ、親地蔵と記されています。
本坊
本坊の玄関
本坊の玄関、書院、庫裡は昭和52年(1977)の火災で焼失し、その後再建されました。
金剛輪寺には「豆の木太鼓」が残されているそうですが、
現在は何処に保管されているかは不明です。
村が凶作で困っていた時、金剛輪寺の和尚が隣村まで行ってソラマメを手に入れ、
種蒔きの時期まで庫裡で保管していました。
それを小僧が見つけ、煎り豆にして食べてしまいました。
秋になり和尚がソラマメを蒔こうとしましたが、マメを入れておいた箱は空でした。
和尚は小僧を呼びつけ、諭しました。
「一粒の豆を食べてしまえば一粒で終わるが、
地面に蒔けば何十倍にも何百倍にも増える、その命を奪ってしまった。」
小僧が床を探すと床下の隅で一粒の豆が見つかりました。
小僧はそれを畑に蒔き、大きな豆の木に育つように祈り、世話をしました。
翌年、豆は大木へと育ち、和尚はこの教えを残すために、豆の大木で太鼓を作ったと伝わります。
本坊建物の右側に庭園への入口があります。
庭園は桃山時代、江戸時代初期、江戸時代末期に分かれて作庭され、
三つの池から成る池泉回遊式庭園で国の名称に指定されています。
南庭は桃山時代に作庭され、出島には3個の石を連ねて橋が架けられ、
その奥には滝石組が見られます。
南庭前には書院があり、縁側に座って庭を愛でることができます。
南庭の先に正徳元年(1711)に建立された護摩堂があります。
護摩堂から安政元年(1854)には既に建立されていた茶座敷・水雲閣が続き
その手前には江戸時代初期に作庭された東庭があります。
山腹が出島風に張り出し、左側の大きな滝組が力強さを感じます。
右側の奥にも小さな滝組があり、奥行きを感じさせています。
庭園入口の説明書きには江戸時代末期の作庭と記されている北庭には、
江戸中期と記されています。
池には橋が架けられています。
船石が配され、奥には小島もあります。
北庭の奥には土蔵があります。
本坊から参道に戻ると門があり、参道の両脇には多数の地蔵像が並び、
「千体地蔵」と称されています。
門の手前の地蔵像には「始め地蔵」と記されています。
少し進んだ参道の右側に「地蔵堂」の石標が建っています。
石橋を渡り石段を登った所に平成9年(1997)に建立された地蔵堂があります。
堂内には中央に地蔵菩薩像、その周囲に多数の位牌が祀られ、
信徒、縁者の回向が行われます。
地蔵堂の南側に平成18年(2006)に建立された護摩堂があり、護摩供が修されます。
参道に戻ると参道の北側には十三重石塔が建ち、
その周囲にも多数の地蔵像が祀られています。
また、歴史を感じさせる阿弥陀如来と思われる石仏も祀られています。
石仏前にも整然と地蔵像が祀られています。
参道沿いにはこのように斜面を平らに造成された所が何箇所かあり、
参道に祀りきれなかった地蔵像をまとめて多数祀られています。
ようやく二天門が見えてきました。
「始め地蔵」から10分余りを要しました。
門には大きな草鞋が吊るされています。
門は室町時代前期に建立され、国の重要文化財に指定されています。
当初は楼門でしたがその後、上層部分が失われ仮屋根が造られました。
仮屋根の部材は江戸時代のもので、この頃に改修が行われたと推定されています。
増長天
持国天
門には向かって右に増長天、左に持国天が安置されていまが、撮影は柵に阻まれました。
門をくぐった正面に国宝に指定されている本堂があります。
金剛輪寺は天平13年(741/天平9年説もあり)に第45代・聖武天皇の勅願により
僧・行基により開山されました。
金剛輪寺の所在地は、市町村合併以前は秦川村であったことから、
渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もあります。
平安時代前期の嘉承年間(848年~851)に慈覚大師・円仁より再興されて
延暦寺の末寺となり、天台密教の道場となりました。
鎌倉時代、元寇の戦勝記念として近江守護・佐々木頼綱(六角頼綱)により
現在の本堂が建立され、本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288)の銘が残されています。
天正元年(1573)には織田信長の兵火を受けますが、本堂、三重塔、二天門は焼失を免れました。
昭和63年(1988)に屋根の葺替え工事が行われ、この時の調査で
南北朝時代の建築様式であることが判明し、この時代に旧材も用いた
大改築が行われたと推定されています。
本堂の左側から堂内の参拝ができます。
本尊は聖観音立像で、行基が一刀三礼で彫り進めると、木肌から一筋の血が
流れ落ちたため、荒彫りのまま祀られ「生身(なまみ)の観音様」と呼ばれていますが、
秘仏とされています。
本尊が納められた厨子の左側は広目天と多聞天、右側には増長天と持国天像が安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
持国天・多聞天像には建暦2年(1212)の銘が残されています。
増長天の背後に不動明王立像、その右側に阿弥陀如来坐像が安置され、
二躯とも国の重要文化財に指定されています。
不動明王立像には建暦元年(1211)、阿弥陀如来坐像には貞応元年(1222)の銘が残されています。
須弥壇の左側には、手前に慈覚大師・円仁坐像、奥に行基菩薩坐像が安置されています。
須弥壇の左側の左右に毘沙門天、中央に不動明王像が安置されています。
本堂の右側、一段高い所に重要文化財に指定されている三重塔があります。
寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246)の建立とされていますが、
南北朝時代の建築様式が見られ、その頃建築されたと考えられています。
寺は信長の兵火以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部(柱、梁などの根幹材)と
組物がかろうじて残るだけで、最上部は失われました。
昭和50年(1975)から昭和53年(1978)にかけて修復工事が行われて、現状の姿に戻されました。
相輪には永正17年(1520)の銘があり、現在は寺で保管されています。
付近には伝教大師童形像が祀られています。
二天門の右側に鐘楼があります。
梵鐘には乾元2年(1303)の銘があり、県の文化財に指定されています。
次回は滋賀県蒲生郡日野町にある馬見岡綿向神社から竜王町の鏡神社を巡ります。
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