祇王寺への参道
二尊院から北へ進み、その先で左折して西へ進んだ突き当たりに
祇王寺への参道があります。
祇王寺模型
祇王寺本堂の模型でしょうか?
滝口寺入口
参道を登ると右側に祇王寺の入口あり、その左側を進んだ先に
滝口寺の拝観受付があります。
滝口寺は山号を小倉山と号する浄土宗の寺院です。
かって、この地には平安時代末期に融通念仏宗の六世・良鎮(りょうちん)によって
創建された往生院があり、その子院・三宝寺は融通念仏の道場として栄え、
山上山下の広大な寺域に数多くの坊が建ち並んでいたと伝わります。
しかし、その後荒廃し、三宝寺と祇王寺を残すのみとなりました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、三宝寺も廃寺となりました。
昭和の初期に寺が再興され、治承3年(1179)に斎藤時頼が「滝口入道」と号して
寺に入ったことから「滝口寺」と名付けられました。
新田義貞の首塚
受付を入った正面に新田義貞の首塚があります。
新田義貞(源義貞:1301頃~1338)は、河内源氏義国流新田氏本宗家の
8代目棟梁で、鎌倉幕府に仕えていましたが、幕府からは冷遇されていました。
第96代・後醍醐天皇が倒幕を掲げるとそれに呼応し、関東方面の主将
(名目的には幼い足利義詮)となり、鎌倉幕府の滅亡へと追い込みました。
義貞は後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となり、後醍醐天皇から
公家女性・勾当内侍(こうとうのないし)を紹介され、妻としたと伝わります。
足利尊氏が建武政権から離反すると(建武の乱)、後醍醐天皇から事実上の
官軍総大将に任命されますが、各地で尊氏軍に敗れ、越前国へ退き戦死しました。
勾当内侍は義貞の死を知り、出家しました。
三条河原で晒し首になっていた義貞の首を密かに持ち帰り、
この地に葬り、庵を結んだと伝わります。
勾当内侍供養塔
首塚の前方、左側に勾当内侍の供養塔が建っています。
参道の石段
参道の石段を登ると、「三宝寺歌石」の碑が建っています。
三宝寺歌石
皇居・清涼殿の警護にあたっていた滝口武者(たきぐちのむしゃ)・斎藤時頼は
平清盛の子・重盛に仕えていました。
清盛が西八条殿で催した花見の宴に時頼も加わり、重盛の妹・建礼門院に
仕えていた横笛を見初めました。
しかし、身分違いの恋に父親が反対し、治承3年(1179)に横笛には伝えず
時頼は往生院で出家し、「滝口入道」と名乗りました。
横笛はそれを知り、時頼を捜して方々の寺を尋ね歩き、嵯峨野を訪れた時に
時頼の念誦の声を耳にしました。
しかし、横笛が時頼と会うことは叶わず、自らの指を切り、
この石に血で歌を書き残したと伝わります。
「山深み 思い入りぬる 紫の 戸のまことの道に 我を導け」
その後、滝口入道は女人禁制の高野山静浄院へ居を移し、それを知った横笛は、
悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺へ出家したとも伝わります。

一方で、時頼を慕い、かつらぎ町の天野の里に庵を結んだとも伝わります。
たまたま天野を通った僧から、横笛の話を聞いた滝口入道は、
心の証の和歌を横笛に送りました。
「そるまでは うらみしかども あずさ弓 まことの道に 入るぞうれしき」
横笛の返歌
「そるとても なにかうらみん あずさ弓 引きとどむべき 心ならねば」
その後、横笛は病の床に伏し、そこに滝口入道から和歌が送られてきました。
「高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし うきよよそなる わが身なりせば」
横笛の返歌
「やおや君 死すればのぼる 高野山 恋もぼだいの たねとこそなれ」
と詠み、19歳の若さで病死しました。
ある日、大円院の梅の木に一羽のウグイスが止まり、美しくさえずりましたが、
やがて庭の井戸に落ち、水に沈みました。
滝口入道はウグイスを井戸からすくい上げ、変わりはてた横笛の姿に無念の涙を流し、
阿弥陀如来を刻んでウグイスの亡骸を胎内に納めました。
大円院は阿弥陀如来を本尊とし、ウグイスの梅・井戸が残され、横笛の墓があります。
以後、滝口入道は仏道修行に励み、高野山真言宗別格本山の
大円院の8代住職となりました。
また、平氏一門が都落ちし、平重盛の子・維盛(これもり)が那智の沖で入水した時、
滝口入道が立ち会ったとされています。
本堂
更に石段を登ると本堂があり、自由に上がることができます。
滝口入道と横笛の悲恋は明治26年(1894)に、高山樗牛
(たかやまちょぎゅう:1871~1902)がこれを題材とした小説
『滝口入道』を発表しました。
大正13年(1924)には『滝口入道 夢の恋塚』として映画化されています。
昭和の初期に長唄三味線の名跡・杵屋佐吉(4代目)が、悲恋を偲んで
三宝寺の旧地に一宇を建立し、「滝口寺」と称したとされています。
時頼・横笛の像
堂内には鎌倉時代の作とされる滝口入道と横笛の坐像が安置されています。
横笛画
また、往生院を訪れた横笛の絵が掲げられています。
十三重石塔
境内の十三重石塔は斎藤時頼と平家一門の供養塔と伝わります。
小松堂
本堂の左側に小松堂があり、斎藤時頼の主君・平重盛が祀られています。
平重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから「小松殿」とも
「小松内大臣」とも呼ばれました。
石塔
境内に残された小さな石塔は三宝寺の遺物でしょうか?

祇王寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村