山門
今出川通りの「上七軒」の信号から七本松通りを南下した東側に清和院があります。
清和院は、山号を川崎山と号する真言宗智山派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第33番札所(結願寺)です。

清和院は仁寿年間(851~854)に、現在の京都迎賓館の地に、
第55代・文徳天皇が后の染殿(藤原明子=ふじわら の あきらけいこ)のために、
仏心院を建立し、地蔵菩薩像を安置したことに始まります。
平安時代の初期、その地には藤原良房の邸宅があり、良房の一人娘・明子が入内すると
良房邸の南に地蔵菩薩像を本尊とする内祈祷所が建てられ、仏心院と称しました。
嘉祥3年(850)3月19日、仁明天皇から譲位されて文徳天皇が即位し、
直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が誕生しました。

惟仁親王には既に3人の異母兄がおり、天皇は第一皇子の
惟喬親王(これたかしんのう)に皇位の継承を願ったのですが、
良房の圧力に屈し、惟仁親王は同年11月に生後8か月で立太子しました。
天安2年(858)に文徳天皇が崩御されると、惟仁親王はわずか9歳で第56代・清和天皇
として即位しましたが、政治の実権は良房に握られることになりました。
貞観6年(864)に天皇は元服しましたが、貞観8年(866)に起こった応天門の変で、
事件を解決した良房を摂政に任命しました。

貞観18年(876)に第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
仏心院は後院(御在所)となり、「清和院」と改称されました。
清和院には代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなりました。
鎌倉時代の徳治3年(1308)、勅令により浄土宗の僧・照空が、清和院を
上京区室町通上長者町通下る清和院町で再興し、今に伝わる清和天皇を模して
造られたとされる「玉体地蔵」を奉安しました。
洛陽石標
室町時代は清和天皇が清和源氏の祖であったことから、将軍家の足利氏から深く
帰依され、その保護を受け栄えました。
享禄4年(1531)、鴨川西岸の一条河原崎にあった河崎観音堂が焼失し、
本尊であった「河崎観音」が清和院へ遷されました。
「河崎観音」は弘法大師作と伝わり、霊仏として崇敬され、
洛陽三十三所観音霊場・結願所の札所本尊となりましたが、
現在は九州国立博物館の所有となっています。
寛文元年(1661)の御所炎上の際に類焼し、その後、後水尾上皇と東福門院により
現在地で再興されました。
また、東向観音寺の土蜘蛛塚に祀られている石灯籠の火袋は、
この門前から掘り出されました。
本堂
山門を入った左側(北側)にコンクリート造りの本堂があります。
本尊
堂内中央の厨子内には本尊の像高165cmで鎌倉時代作の地蔵菩薩像が
安置されています。
「玉体地蔵」や「清和地蔵」とも呼ばれ、清和天皇の身の丈に等しく、
眼には仏舎利、胎内に宸筆の法華経が納められています。
重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
厨子の前に御前立の像が安置されています。
「河崎観音」は写真のみが祀られています。
阿弥陀如来像他
堂内の右側には十一面観音像や阿弥陀如来立像などが安置されています。
大黒天他
左側には大黒天、八臂辨財天、不動三尊像が安置されています。
爪形天満宮
本堂の左側に白梅殿古跡 爪形天満宮があります。
爪形天満宮-石標
白梅殿は菅原道真の旧邸のことで、下京区仏光寺にある
菅大臣神社がその所在地とされていますが、詳細は不明です。

五番町から福勝寺へ向かいます。
続く

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