六請神社から西へ進んだ所に、等持院の山門があります。
江戸時代に建立された一間一戸の薬医門で、切妻造りの本瓦葺です。
かって、この地には仁和寺の一子院があったと伝わり、
東には無学祖元の遺爪髪を祀る正脈庵がありました。
興国3年/暦応5年(1342)に、足利貞氏の子で足利尊氏の弟・直義(ただよし)と
足利家のの執事・高師直(こうのもろなお)により正脈庵が再興されました。
佛光国師(無学祖元)の法孫である夢窓疎石を開山として招き、正脈庵の跡地を
中心に境内が拡張され、七堂伽藍が建立され、寺号は「眞如寺」に改められました。
また、足利尊氏は興国2年/暦応4年(1341)に、中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、
興国4年/康永2年(1343)に、現在地にあった仁和寺の子院を、
夢窓疎石を開山として別院・北等持寺に改めたとされています。
等持寺に関しては、延元3年/暦応元年(1338)に直義が、古先印元(こせんいんげん)を
開山として創建されたとの説もあります。
直義の三条坊門殿の隣地に、一門のために建てた持仏堂であったと推定されています。
その後、正脈庵を再興して眞如寺とし、西にあった仁和寺の子院を夢窓疎石を
開山として別院・北等持寺に改めたとの説もあります。
しかし、正平5年/観応元年(1350)~正平7年(1352)に起こった足利政権の内紛である
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で、足利直義と高師直が争い、
高師直は直義軍により暗殺され、直義は尊氏軍に攻められ、鎌倉へ追い込まれて降伏し、
延福寺に幽閉された直後に急死しました。
この争いで、中京区の等持寺は大きな被害を受け、
尊氏は大規模な修復を行って足利氏の菩提寺に相応しいものにしました。
その際、寺伝が改変され、尊氏の開基で開山を夢窓疎石とし、
直義と古先印元の事績が抹殺されたと伝わります。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が亡くなり、眞如寺で葬儀が行われ、
別院・北等持寺に葬られました。
別院・北等持は尊氏の墓所となり、尊氏の戒名をとって名称を「等持院」と改称し、
足利将軍家の菩提寺となりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で、中京区の等持寺は焼失し、
等持院に吸収合併されました。
その後、室町幕府の衰退に伴って次第に衰微し、
慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再興されました。
文化5年(1808)の火災で大半の建物が焼失し、文政年間(1818~1831)に
復興されましたが、明治時代になると多くの塔頭が廃止されました。
門をくぐり参道を北へ進むと、鉄の門扉があり、参道は西へ曲がります。
参道の北側は墓地で、墓地の背後に衣笠山が望めます。
墓地の西南角に牧野省三(まきの しょうぞう:1878~1929)の像が建っています。
牧野省三は、日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物で
「日本映画の父」と呼ばれました。
大正10年(1921)に日活を退社し、等持院境内に牧野教育映画製作所を設立しました。
等持院撮影所が開設され、教育映画の製作が行われましたが、大正12年(1923)には
マキノ映画製作所に改組され、時代劇や現代劇などの一般作品の
製作が行われるようになりました。
昭和4年(1929)に心臓麻痺で50歳で亡くなり、等持院に葬られました。
参道は再び北向きになり、参道を進んだ西側に鐘楼があります。
北側に表門があり、その背景には庫裏が見えます。
山門と同じく、江戸時代に建立された一間一戸の薬医門で、切妻造りの本瓦葺です。
表門の右側に方丈への棟門(むねもん)があります。
門は閉じられていますが、背後に方丈の屋根、左奥に衣笠山が見えます。
棟門の手前には百日紅(さるすべり)が赤い花を咲かせていました。
画角を広げると、背後に立命館大学の学舎が映り込みます。
立命館大学は、明治2年(1869)に西園寺公望(さいおんじ きんもち:1849~1940)が、
京都御所内の私邸に「私塾立命館」を創設したのが始まりですが、
その在り方を巡り京都府庁の差留命令により1年弱で閉鎖されました。
明治33年(1900)に西園寺の秘書官・中川小十郎は、西園寺の意志を継ぎ、
京都法政学校を設立し、それが大正2年(1913)に「立命館大学」に改称され、
初代学長に就任しました。
大正3年(1914)に京都帝国大学構内に設置された「私立電気工学講習所」と
協力関係にあり、昭和13年(1938)にはそれを引き継ぎ、
「立命館高等工科学校」を北大路の校地に開設しました。
同年、中川小十郎が等持院の檀家総代を務めていたことから、当地で土地を購入し、
翌年には満州国政府からの援助を受けて校舎等が完成し、
「立命館日満高等工科学校」と改称されました。
これが衣笠キャンパスの始まりで、昭和56年(1981)に法学部が移されて、
広小路学舎は閉鎖されました。
立命館大学の清心館の門前には「等持院 墓地参道」の石碑が建立されています。
表門まで戻り、門をくぐると左前方に庫裏があります。
庫裏の虹梁(こうりょう)と蟇股
足利家の家紋「足利二つ引」が寺紋となっているのかもしれません。
庫裏の玄関は広い土間で、上を見上げると煙出しが見え、
かってはここに竈があったことが推察されます。
土間から上がった正面には韋駄天像が安置されています。
拝観受付所があり、500円を納め東側を見ると達磨像が描かれています。
関牧翁(せき ぼくおう:1930~1991)老師により描かれた「祖師像」です。
関牧翁老師は昭和14年(1939)に等持院住職となって等持院を中興し、
昭和21年(1946)には天龍寺派管長に就任しました。
左側には歓喜天像が安置されていますが、厨子の扉は閉じられています。
歓喜天像は鎌倉時代の作で、仁和寺子院の遺仏と伝わり、
日本に現存する最古の聖天像とされています。
かっては池の畔の聖天堂に安置されていましたが、昭和9年(1934)の
室戸台風で聖天堂が倒壊したため、現在の方丈西側に遷されました。
室町時代作の厨子内に安置されています。
現在の方丈は、福島正則により元和2年(1616)に妙心寺塔頭・海福院の方丈として
建立されたものが、文政元年(1818)に移築されました。
桁行19m、梁間12mの建物で、狩野興以(かのう こうい:?~1636)により襖絵が描かれ、
京都市指定有形文化財となっています。
仏間には本尊の釈迦如来坐像が安置されています。
明治維新の動乱や映画撮影により、襖絵の一部が破損しましたが、その後修復され、
平成29年(2017)から霊光殿及び茶室・清漣亭と共に改修工事に着手し、
令和2年(2020)に完成しました。
南側の広縁は鶯張りで、その南側に関牧翁老師により
作庭された南庭が築かれています。
縁の修復跡の「埋め木」。
この他、蝶や銀杏の葉をかたどったものなどがあります。
方丈の東側に霊光殿があります。
足利尊氏の念持仏で弘法大師作と伝わる利運地蔵尊を本尊とし、
左右に共に江戸時代作の夢窓国師と達磨大師像が安置されています。
手前廊下の左右に、いずれも江戸時代作の徳川家康像と
歴代の足利将軍像が安置されています。
徳川家康像は、家康が42歳の時に厄落としのために造らせた像で、
石清水八幡宮の豊蔵坊に安置されていました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、豊蔵坊が廃止されたために等持院へ遷されました。
幕末の文久3年(1863)には、足利三代木像梟首事件(きょうしゅじけん)が発生し、
室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出され、
賀茂川の河原に晒されました。
尊王攘夷運動の高まりにより、幕府への批判ととらえられ、京都守護職の
松平容保(かたもり=会津藩主)は厳重な捜査を命じ、
半年後に犯人は捕えられ、処刑されました。
また、第5代将軍・足利義量と第14代将軍・足利義栄の像はありません。
足利義量(よしかず:1407~1425)は、幼い時から病弱で、応永30年(1423)に
将軍宣下されましたが、その2年後に19歳(満17歳)で病死しました。
父・義持が将軍職を代行し、実権は無いに等しかったとされています。
第14代将軍・足利義栄(よしひで:1538または1540~1568)の前の
第13代将軍・足利義輝は、永禄8年(1566)の永禄の変で、三好義継と
三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)、松永久通らに殺害されました。
同年、三好三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると、三好三人衆は
足利義栄を将軍候補として擁立し、久秀討伐令を出しました。
永禄11年(1568)に足利義栄は、普門寺城(大阪府高槻市富田町)で、
朝廷から将軍宣下がなされ、第14代将軍に就任したのですが、
背中に腫物を患っていたため将軍に就任しても入京せず、富田に留まっていました。
同年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛へと動くと、三好三人衆は抗戦しましたが、
敗れて阿波に逃れ、直後に義栄は腫物が悪化して病死しました。
享年は29とも31とも、死去した所も阿波国の他に淡路国、
摂津国の普門寺など諸説あります。
霊光殿からの渡廊の北正面に見えるのは桜の古木でしょうか?
趣があります。
渡廊
方丈西側の坪庭
方丈北庭の西側に書院があり、抹茶または番茶の接待を受けることができます。
但し、有料で抹茶は500円、番茶は300円で、飲食物の持ち込みは禁止されています。
書院前にスリッパが用意され、庭園を巡ることができます。
方丈北庭は芙蓉池を中心とする池泉回遊式庭園で、夢窓疎石により作庭とされ、
江戸時代に改造が加えられたとされています。
夢窓疎石作の三代名園の一つで、「芙蓉」とはハスの美称であり、
池は蓮の花の形を模して造られたとされています。
衣笠山を借景としていましたが、立命館大学の建物に遮られ、
現在は竹林や樹木で建物が隠されています。
池の中央に蓬莱島があり、南側に島への石橋が架けられています。
北の丘の上に茶室・清漣亭(せいれんてい)がありますが、非公開です。
江戸時代に再建され、平成30年(2018)に修復工事が行われました。
元は康正3年(1457)に第8代将軍・足利義政が、
自分好みの茶室として建立したと伝わります。
画像はありませんが、手水鉢は江戸時代作の司馬温公
(しばおんこう=司馬光:1019~1086)型で、天然石の一部が欠けています。
司馬温公は、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家で、幼少の頃、
仲間の子供たちと遊んでいたところ、一人が水がめに落ちました。
司馬温公が水がめを割り、仲間を救い出した故事に由来しています。
また、茶室付近にある、江戸時代作の等持院型石灯籠は、
竿は四角形で中台は六角形、火袋は日、月、四角に開口され、
傘は四方寄棟となっています。
池の東側に足利尊氏の墓があります。
室町時代の作で四重の基壇の上に建ち、四面に格狭間(こうざま)が彫られています。
「延文3年(1358) 四月二十九日」
それと、尊氏の法名「等持院殿 贈 大相国一品 仁山大居士」と記されています。
足利尊氏は第二次世界大戦前までは、正統な天皇である第96代・後醍醐天皇に
叛旗を翻した逆賊とする否定的な評価がなされていました。
足利三代木像梟首事件の他にも、江戸時代後期の勤王家・高山彦九郎により
尊氏の墓が鞭打たれました。
戦後は、室町幕府のおおよその骨格を形作った人物であり、日本文化の実質的な
開創者の一人とする好意的な評価もなされるようになりました。
東側の庭園は、かっては真如寺の敷地でした。
心字池を中心とする池泉回遊式庭園で、池には3つの島があり、
夢窓疎石による作庭とされています。
最も大きな中之島には石組みが見られます。
中之島には橋が架かり渡れるようになっています。
島には戦前まで妙音閣がありましたが、昭和25年(1950)の
ジェーン台風で倒壊したとされています。
一説では、相国寺の3山外塔頭、鹿苑寺には金閣、慈照寺には銀閣、
そして真如寺には妙音閣と謳われたと伝わります。
西芳寺の黄金池に見られる南北朝時代の様式で造られたと推定されていますが、
その後の改修により、当初の様式は失われています。
樹木が茂る島の間にある小さな岩島ですが、存在感を示しているように見えます。
苑路
池の北側には、等持院を中興した関牧翁(せき ぼくおう)の像が建立されています。
「芙蓉池に 風あるやなし 落花舞ふ」は青山柳為の句碑です。
東側の十三重石塔は、室町幕府歴代15名の将軍の供養塔で、
各将軍の遺髪が納めてあるそうです。
室町時代の作とされ、高さは5mです。
龍安寺へ向かいます。
続く
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