慈尊院の多宝塔前から丹生官省符神社へ119段の石段があります。
その中間辺りに石の大鳥居が建ち、九度山町の文化財に指定されています。
宝永2年(1705)3月に九度山の村民により九度山槙尾山明神社の参道に建立されました。
明治43年(1910)に町内の九度山、入郷、慈尊院の三地区の氏神社、
無格社が丹生官省符神社と合祀されたのに伴い、
大正10年(1921)8月に現在地へ移されました。
石段を上った所には丹塗りの両部鳥居が建っています。
鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
拝殿奥の本殿は三棟から成り、現在の本殿は天文10年(1541)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
また、平成16年(2004)7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されました。
社伝では弘仁7年(816)に空海によって慈尊院と共に丹生高野明神社として
創建されたと伝わります。
空海は霊地・高野山の存在を教えられた狩場明神(高野御子大神)とその母である
丹生都比売大神を高野山の入り口である当地に祀りました。
永承4年(1049)に金剛峰寺は紀の川北岸地域及び南岸地域一円の支配を求め、
朝廷は租税官物免除と国使不入(国が干渉しない)正式な荘園であることを認めました。
これが官省符荘です。
文明6年(1474)に慈尊院の弥勒堂が現在地に移された際に、丹生官省符神社も
一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。
その時、気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、古くからこの地に鎮座していた
天照、八幡、春日の三神を合祀して七社明神としました。
その後、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、官省符荘の鎮守社とされてきました。
天正18年(1590)、豊臣政権は金剛峯寺の所領を一時没収した際に官省符荘などの
金剛峯寺領は解体されましたが、その後、豊臣政権から改めて寺領が与えられました。
明治43年(1910)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀し、
昭和21年(1946)に丹生官省符神社の社号に改められました。
現在は第一殿に丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)、
高野御子大神(たかののみこのおおかみ=高野明神)、天照大御神、
第二殿に大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ=気比明神)、
誉田別大神(ほんだわけのおおかみ=八幡神)、天児屋根大神(春日大神)、
第三殿に市杵島比売大神(厳島明神)、合祀祭神が祀られています。
拝殿前の左側に空海と狩場明神出会いの図が描かれています。
弘仁年間(810~824年)、空海は真言密教修法の道場の根本地を求めて、東寺を出立ち
各地を行脚され、途中、大和国宇智郡に入られた時、1人の気高い猟師に出会い
「高野」という山上に霊地のあることを教えられました。
猟師は、従えていた白・黒二頭の犬を放たれ、空海を高野山へと導かれました。
此の処は天下無双の霊地であり、空海は地主神が姿を猟師に現し、
化現狩場明神(けげんかりばみょうじん)となり、神託として一山(高野山)を
与え下さったものであると、想念の内に感得されました。
境内の東側にある招魂社は伊勢神宮及び高野山遥拝所となっています。
境内の西側に社務所があり、丹生官省符神社は神仏霊場・第11番札所となっています。
社務所前から尖った楊柳山の山頂が望めます。
高野山を真言密教の根本道場として開いた弘法大師は、高野山全体を十六弁の
八葉蓮華にたとえ、中心にある大塔の四方四隅の峰を内八葉、
奥ノ院の外にそびえる八峰を外八葉と見立てました。
楊柳山はその外八葉の一峰で、高野山の北部に位置し、
十六葉の峰の中では最も高く、標高は1009mあります。
かつらぎ町兄井にある鎌八幡宮・諏訪明神社から
かつらぎ町三谷にある丹生酒殿神社・鎌八幡宮へ向かいます。
続く