天授院-門
塔頭・退蔵院の北側に塔頭・天授院があります。
天授院-建物
天授院は康暦2年/延元4年(1340)に妙心寺二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)
により、現在の東海庵の北側に創建されました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
妙心寺六祖・雪江宗深(せっこうそうしん)により再建されました。
承応2年(1653)の増改築に伴い、現在地に移築されました。
明治元年(1868)に越渓守謙(えっけいしゅけん)により専用道場が設けられました。
聖澤院-門
塔頭・天授院の北側に聖澤派の本庵である塔頭・聖澤院
(しょうたくいん)があります。
聖澤院
大永3年(1523)に妙心寺18世・天蔭徳樹(てんいとくじゅ)により、
土岐政房や細川氏の援助を受け、師の東陽英朝(とうようえいちょう)を
勧請開山として創建されました。
その後衰微し、文禄3年(1594)に庸山景庸(ようざんけいよう)が、
早川長政の援助を得て再興しました。
早川長政は、寺領20石を寄進し、表門、方丈、玄関、庫裡を造営しました。
霊雲院-門
聖澤院の北側に霊雲派の本庵である塔頭・霊雲院があります。
霊雲院
大永6年(1526)に妙心寺25世・大休宗休(だいきゅうそうきゅう)が、
特芳禅傑(どくほうぜんけつ)を勧請開山として創建しました。
狩野元信筆の障壁画「琴棋書画図(きんきしょがず)」があることから
「元信寺」とも呼ばれています。
琴棋書画とは、文人、士大夫(中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の
三者を兼ね備えた者)がたしなむべきとされた芸で、琴を奏(かな)でること、
棋(日本の囲碁)を打つこと、書することを意味します。
天文12年(1543)に建立されたと伝わる書院は、
国の重要文化財に指定されています。
また、枯山水庭園「霊雲院庭園」は、国の名勝・史跡に指定されています。
西田幾多郎墓の碑
霊雲院には京都大学の哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の墓があります。
西田幾多郎は、明治3年4月19日(1870年5月19日)に加賀国河北郡森村
(現在の石川県かほく市森)で生まれました。
西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家でしたが、
父が米相場に失敗して破産し、母と姉の支援を受けて東京帝国大学の選科
(聴講生に近い立場)に入学しました。
卒業後は故郷に戻り中学の教師となりましたが、学校内での内紛で失職するなど、
在職校を点々としました。
20代後半の時から高校の同級生である鈴木大拙(すずき だいせつ)の影響で
禅に打ち込むようになり、十数年間徹底的に修学・修行しました。
明治43年(1910)に京都帝国大学文科大学助教授となり、翌年『善の研究』を著しました。
西田幾多郎の哲学的思考は仏教の禅の研究から始まり、東洋的な基盤に立った
東西哲学との融合が作りあげられ、日本における哲学の祖ともされています。
晩年は鎌倉に居を移して研究に専念し、昭和15年(1940)に文化勲章を受章しました。
昭和20年(1945)6月7日に病で他界し、神奈川県鎌倉市の東慶寺に葬られ、
霊雲院へ分骨されました。
玉鳳院
霊雲院から、法堂と大方丈へと渡る廊下の下をくぐり、東へ進むと
玉鳳院(ぎょくほういん)があります。
かって、この地には第95代・花園天皇が営む離宮・萩原殿がありました。
文保2年(1318)に後醍醐天皇に譲位し、萩原殿を仙洞御所として移り住み、
禅宗の信仰に傾倒しました。
上皇は建武2年(1335)に出家して法皇となり、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)

禅師に参禅し、印可(いんか=弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)
されています。
法皇は、花園御所を禅寺に改めることを発願しましたが、建武4年(1337)に
宗峰妙超が病で重態となり、宗峰は後継に高弟の
関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。
暦応元年/延元3年(1338)、法皇は自身が起居する禅宮御殿として、
山内最古の塔頭・玉鳳院を建立しました。
暦応5年/康永元年(1342)に関山慧玄を開山として妙心寺が創建されましたが、
妙心寺では宗峰妙超が入寂された建武4年(1337)を開創の年としています。
貞和4年/正平3年(1348)に花園法皇が崩御され、玉鳳院はその塔所となりました。
延文5年/正平15年(1360)には関山慧玄が入寂され、境内の北東隅に葬られました。
塔所として微笑庵が建立され、後に開山堂となりました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天文7年(1538)に開山堂が再建されました。
天正19年(1591)、病弱であった豊臣秀吉の嫡男・鶴松が3歳で亡くなり、
妙心寺で葬儀が行われ、その廟である祥雲院殿霊屋(おたまや)が建立されました。
玉鳳院-鐘楼
西側に鐘楼があり、梵鐘は慶長15年(1610)に鋳造されました。
玉鳳院-庫裏
鐘楼の東側に庫裏があります。
扁額「玉鳳院」が掲げられていますが、文字が消え判読することはできません。
玉鳳院-牛石
庫裏の左前に「牛石」があります。
関山慧玄は、花園法皇に都へ呼び戻される前には美濃国(岐阜県)の
伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていました。
田畑を耕す際に牛の力を借り、その牛と慣れ親しんだと伝わります。
昭和34年(1959)に滋賀県安土町で見つかった石が、
その逸話の基に奉納されました。
玉鳳院-門
庫裏の東側には寛文年間(1661~1673)に建立され、
京都府の文化財に指定されている玉鳳院唐門があります。
玉鳳院-扁額
門内には明暦2年(1656)に再建された方丈があります。
門の格子から僅かに扁額「玉鳳禅宮」が見え、扁額は花園法皇の宸筆です。
方丈は桁行18.7m、梁行10.8mの寝殿風の建物で、建物内中央奥の昭堂に
花園法皇の法体姿の木像が安置されています。
前方、下段の東側に徳川家康及び徳川家の位牌、西側に豊臣秀吉・織田信長・
織田信忠・武田信玄などの位牌が祀られています。
方丈の襖絵の金地着色「秋草図」12面は、狩野益信(かのう ますのぶ)の
筆と伝わり、「麒麟図」12面、「花鳥図」18面、「龍虎図」16面、「山水図」18面、
「牡丹図」9面は狩野安信の筆と伝わります。
開山堂-門
玉鳳院唐門の東側に、国の重要文化財に指定されている開山堂唐門があります。
応永16年(1409)に第100代・後小松天皇から御所の南門が下賜され、
移築されて当初は勅使門として使われていました。
門内の開山堂は「微笑塔」とも呼ばれ、山内で最も神聖な場所であり、
非公開です。
「微笑塔」は「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事に由来しています。
「拈」は、ひねる・つまむ、「華」は花を意味しています。
釈迦が弟子に説法をしている時に、一本の花をひねって見せたましたが、
弟子たちはその意味を理解できず沈黙していました。
ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を理解し、微笑しました。
釈迦は、摩訶迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、
彼に仏法の奥義を授けたとされています。
「正法眼蔵・涅槃妙心、微妙(みみょう)法門あり、文字を立てず教外に別伝して

迦葉に付属す」と記され、「妙心寺」の寺号と「微笑塔」の由来となりました。
開山堂は天文6年(1537)に東福寺から移築された、山内で最も古い建物で、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には開山・関山慧玄(かんざんえげん)の尊像が安置され、
常夜灯と常香盤によって灯明とお香が絶えることはありません。

玉鳳院内には「南庭」、「風水泉の庭」、「鶏足嶺(けいそくれい)の庭」と
称される3つの庭があり、国の名勝・史跡に指定されています。
「南庭」は、方丈と開山堂の南に広がる白砂敷の枯山水庭園です。
「風水泉の庭」は、方丈と開山堂を結ぶ渡り廊下の北側にあり、
四方を建物で囲われた苔地の中庭となっています。
安土・桃山時代初期の石組み・滝組・蓬莱石が見られます。
「鶏足嶺の庭」の「鶏足嶺」とは、古代インド のマガダ国の山の名
「鶏足山」に由来し、摩訶迦葉が入定した地とされています。
摩訶迦葉は釈迦から預かった衣と言葉を、56億7千年後に弥勒菩薩が
鶏足山に姿を現した時、それらを授けると言い残したと伝わります。
鶏頭山は3つの険しい峰からなり頂上には、仏足石や仏塔が納められています。
「鶏足嶺の庭」は、江戸時代に開山堂の東に作庭され、
苔地に植栽された庭で長い築山が築かれています。
蓮池
玉鳳院の前に蓮池がありますが、現在は池に蓮が見られません。
玉鳳院-宝蔵
池には玉鳳院の宝蔵があります。
衡梅院-門
蓮池の西側に塔頭の衡梅院(こうばいいん)があります。
衡梅院-庫裏
妙心寺中興六祖の一人・雪江宗深(せっこうそうしん)により創建されました。
創建されたのは文明元年(1469)または、文明12年(1480)とする説があり、
文明18年(1486)に雪江宗深が入寂された後は塔所となりました。
その後、無住となって衰微し、慶長9年(1604)に
天秀得全(てんしゅうとくぜん)により中興されました。
妙心寺では開山・関山慧玄(かんざんえげん)以降、
二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)、三祖・無因宗因(むいんそういん)、
四祖・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)、五祖・義天玄承(ぎてんげんしょう)、
六祖・雪江宗深までを「六祖」と呼び、尊崇しています。
但し、住持としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深は、
それぞれ七世、八世、九世にあたります。
養源院-門
蓮池の東側に塔頭の養源院があります。
妙心寺中興四祖・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が、文安5年(1448)に
細川持之の援助により創建しました。
日峰宗舜が生前に建てた寿塔であったとも伝わります。
永禄2年(1559)に剛宗宗紀(ごうそう そうき)が、堺の豪商であった
父・半井元成(なからい もとなり)の援助を受けて中興し、中興の祖となりました。
客殿が再建され、棟札が残されており、建立年が確定している建物としては
山内で最古とされています。
明治元年(1868)には北総門前にあった雄心院(ゆうしんいん)を合併しました。
養源院-庫裏
向かって右側の建物が府の文化財に指定されている本堂と思われます。
東林院
玉鳳院前を東へ進んだ所に塔頭の東林院があります。
享禄4年(1531)に室町幕府の最後の管領 ・ 細川氏綱(1514~1564)が、
養父・細川高国の菩提を弔うために創建されました。
当初は「三友院」と称し、上京清蔵口の細川家邸宅
(現在の京都市上京区)内にありました。
弘治2年(1556)に細川高国の孫である山名豊国を開基、妙心寺第51世・
直指宗諤(じきしそうがく)を開山として、寺基を妙心寺山内に移して再興されました。
寺号は「東林院」に改められ、山名氏の菩提寺となりました。
天保3年(1832)に諸堂宇が大破しましたが、山名家により再建されました。

樹齢300年の沙羅双樹の銘木があることから「沙羅双樹の寺」と呼ばれ、
6月の「沙羅の花を愛でる会」では特別拝観が可能となります。
また、1月の「小豆粥で新春を祝う会」及び10月の「梵燈のあかりに親しむ会」でも

特別拝観が行われています。
宿坊があり、予約をすれば宿泊も可能で、現住職の西川玄房は精進料理研究家
として著名であり、現在は毎週火曜日に精進料理教室(要予約)が開かれています。

塔頭の東海庵から大心院へ向かいます。
続く

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