三鈷寺への参道
画像は平成31年(2019)3月27日、平成29年(2017)‎‎11‎月‎2‎日、
平成28年(2016‎)10‎月‎9‎日参拝時のものを使用しています。
善峯道を登って行くと善峯寺のバス停から
下った所に三鈷寺(さんこじ)への登り口があります。
阿智坂明神-1
三鈷寺への参道付近に阿智坂明神が祀られています。
源算上人が霊地を求めてこの地に入りましたが、山が険しく休憩していると
一人の翁神が現れました。
「我はこの地の地主にて名を阿智坂という。この霊地に伽藍を草創し給え。
この地を与えて永く仏法を守らん。」と上人に告げるといなくなりました。
阿智坂明神-2
阿智坂明神はその鎮守として祀られています。
橋
善峯川に架かる橋を渡って参道へと入ります。
車道の滝
橋の反対側には小さな滝があり、注連縄が張られています。
滝の前には石像が祀られ、滝には何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
坐禅石
橋を渡り、しばらく登った所に「坐禅石」があります。
源算上人が開山を思惟するため、苔むした岩石の上に40日近く坐り魔障を退除し、
良峯を開いたとされる石です。
 一見すると上部が平らなように見えますが、長い年月を経て谷の方に傾いています。
比叡山横川の恵心僧都に師事していた源算上人は、平安中期の長元2年(1029)、
47歳の時にこの地で千手観音を自作し、本尊として

小堂に安置し、法華院と号したのが善峯寺の始まりです。
開山に当たって、この地は岩が多いことから、地ならしが困難であることを思い悩みました。
ある日、一人の僧があらわれ、力を貸し与えることを告げます。
次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、
平地になったとの伝承が残されています。
東門
「坐禅石」からしばらく坂道を登るとようやく東門が見えてきます。
仁王門
東門をくぐると、圧倒的な威容を誇る仁王門が正面に立ち塞がります。
善峯寺は山号を西山(せいざん)と号する、天台宗系単立の善峰観音宗の寺院で、
西国三十三所観音霊場・第20番、神仏霊場・第85番、京都洛西観音霊場・第1番の
札所となっています。
善峯寺は応仁の乱(1467~1477)で焼失し、その後荒廃しました。
現存する多数の堂塔は、江戸時代になって、桂昌院の寄進より再建されたものです。
仁王門も正徳6年(1716)に再建された三間一戸の楼門形式の山門です。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は鎌倉時代の運慶作と伝わります。
源頼朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を当山の観性法橋が
勤めた報恩として寄進されました。
仁王門の楼上に安置されていた本尊の文殊菩薩と脇侍の二天像は、
修復され現在は文殊寺宝館に安置されています。
手水舎-1
仁王門で入山料500円を納め、正面の石段を登った左側に手水舎があります。
手水舎-2
手水舎は簡素で、取水口には竹が使われています。
本堂前からの仁王門
本堂前からの仁王門です。
本堂
石段を登った正面にある観音堂が本堂となっています。
長元7年(1034)に第68代・後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、
「良峯寺」の寺号を下賜されました。
長久3年(1042)、第69代・後朱雀天皇が夢告を受け、勅命により
洛東・鷲尾寺(わしのおでら)の千手観音を遷座して本尊とされ、
千手堂が創建されて本尊が安置されました。
天喜元年(1053)、尊仁親王(たかひとしんのう=後の第71代・後三条天皇)の
后・藤原茂子(ふじわら の もし)は、難産のため

当山の本尊に祈願し、無事に貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生しました。
後三条天皇は、本堂他堂宇を寄進、建立しました。
寺は全盛となり、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守社と
52の僧坊を有する大寺院となりました。
治暦4年(1068)に大旱魃が発生した際、源算上人の祈りで、龍王が西山の峰より
雨を降らした奇瑞によって、第70代・後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。
建久3年(1192)、第82代・後鳥羽天皇は「良峯寺」を「善峯寺」に改め、
勅額宸筆を下賜されました。
南北朝時代の正平8年/文和2年(1353)に山名時氏は室町幕府に対して挙兵し、
京都へと進行しましたが丹波守護・高 師詮(こう の もろあきら)はこれを阻止すべく
合戦となり、戦火を被り善峯寺は焼失しました。
この合戦で敗れた師詮は切腹して果てました。
その後、第102代・花園天皇により伽藍が再興されましたが、
応仁の乱(1467~1477)で焼失し、寺は荒廃しました。
52あった僧坊は7にまで減じ、荘園も失われました。
江戸時代になって桂昌院の寄進により寺は復興され、現在の観音堂(本堂)は
元禄5年(1692)に再建されました。
明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されます。
現在は境内地3万坪に20近くの堂塔伽藍を有し、所有地36万坪が受け継がれています。

本尊は鷲尾寺から遷された像高178.8cmで、平安時代後期から鎌倉時代初期の作と
される十一面千手観世音菩薩で、西国三十三所観音霊場・第20番の札所本尊でもあります。
この観音像には以下のような伝承が残されています。
「賀茂社境内の畑に植えてあった苗が一夜にして欅になり、光明を放ったと伝わります。
革堂(こうどう=行願寺)の行円は、この霊木で本尊を刻み、
安居院(あぐい=比叡山東塔の竹林院の里坊)の仏師・仁弘はその余材で
十一面千手観世音菩薩を造り鷲尾寺に安置した」とされています。
現在、この観音像は秘仏で、毎月第2日曜および毎年正月三箇日に開帳されていますが、
2022年以降の開帳は開山から1,000年となる2028年まで行わない予定となっています。

また、開山・源算上人が刻んだとされる、像高174.5cmの十一面千手観世音菩薩は
脇本尊とされ、京都洛西観音霊場・第1番の札所本尊にもなっています。
秘仏本尊の左側には、聖観音菩薩像が安置されています。
文殊寺宝館
本堂の左側、駐車場の上に文殊寺宝館がありますが、春(4~6月)と
秋(10・11月)の土・日・祝日に無料開放されますが、館内の撮影は禁止されています。
井戸
本堂の右側にお香水の井戸があります。
閼伽水として仏前に供され、この水を服すると長寿の御利益があると伝わります。
修行大師像
井戸の右側に修行大師像が祀られています。
善峯寺は天台宗ですが、なぜか弘法大師が祀られています。
地蔵堂-1
修行大師像の右横に地蔵堂があります。
大師堂
大師堂-堂内
地蔵堂の右横に大師堂があり、弘法大師像が安置されています。
納札所
大師堂の右側に石段があり、石段を挟んで納札所があり、無料休憩所にもなっています。
賓頭盧尊者
納札所には賓頭盧尊者像が安置されています。
観音霊場本尊
また、西国観音霊場の各本尊が祀られています。
鐘楼
納札所と大師堂の間にある石段を登り、右に曲がった先に、
貞享3年(1686)に再建された鐘楼堂があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘には貞享4年(1687)の銘があり、徳川5代将軍・綱吉が42歳の厄年を迎えるにあたり、
桂昌院が厄除けのために寄進したことから「厄除けの鐘」と呼ばれています。
護摩堂
鐘楼堂の北側に元禄5年(1692)に建立された護摩堂があります。
護摩堂-堂内
堂内には本尊の不動明王像を中心に右隣に降三世(ごうざんぜ )明王、
その右隣に金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王。
不動明王像の左側に軍荼利(ぐんだり)明王、その左隣に
大威徳(だいいとく)明王の五大明王が安置されています。
松-北
護摩堂前の石段上には「遊龍の松」が北に向けて、枝を伸ばしています。
松-中央
「遊龍の松」は、五葉松で樹齢600年以上、幹周り約1.5m、高さ約2m、
北方向に約24m、西方向に約37m水平に枝を伸ばし、
国の天然記念物に指定されています。
桂昌院によって植えられたと伝わりますが、桂昌院が亡くなってからは
300年余りですので、当時で樹齢300年の松を植えられたのかもしれません。
松-西
遊龍の松-西方向
主幹が地を這うように伸びる巨大な松は、臥龍の遊ぶ様に見えることから、
安政4年(1857)、花山院前右大臣家厚公により「遊龍」と名付けられました。
平成6年(1994)に松くい虫の被害により、全長50mほどの松が
15m余り切断され、現在は全長37mとなっています。
松-碑
標石は明治26年(1893)、鳥尾中将の書です。
多宝塔
多宝塔は元和7年(1621)に第28代・賢弘法師により再建された善峯寺に現存する
最古の建物で、国の重要文化財に指定されています。
本尊は愛染明王で、ガラス越しに拝むことができます。
経堂
多宝塔の西側には六角六柱・二重屋根の経堂があります。
経堂-傅大士
宝永2年(1705)に桂昌院の寄進により建立され、傅大士(ふだいし)を奉安し、
鉄眼版一切経が納められ、 現在は祈願成就の絵馬奉納所でもあります。
経堂-彫刻
堂内には六角の壁面上部に、それぞれ二頭の獅子の像が施されています。
桜
経堂の西側に桂昌院が手植えされたと伝わる樹齢300年以上のしだれ桜が植栽されています。
この桜はカエデとの合体木で、二本の古木が絡み合った結び木となっています。
JR東海のCM「そうだ 京都に行こう」で有名になりました。
開山堂
後戻りして遊龍の松に沿って北へと進むと開山堂があります。
開山堂は、貞享2年(1685)に源算上人の廟所として建立されました。
開山堂前の景色
開山堂は比叡山を望むように建てられています。
幸福地蔵堂
開山堂から西へ進んだ所に「幸福地蔵」が急な斜面に
柱を組んで造られた祠に祀られています。
幸福地蔵
330年前に造られた地蔵像で「自分以外の幸せを願いましょう」と記されています。
幸福地蔵-下から
地蔵の先、左に下れば白山・桜あじさい苑へ、右側は鎮守社へと参道が分かれ、
桜あじさい苑の方へ下ります。
幸福地蔵を下から見上げました。
白山名水-湧水
更に下ると白山名水が湧き出ています。
源算上人が写経を行おうと自らの手で用紙を作りました。
寛徳2年(1042)2月1日の夜、白山明神がこの地に現れ、手本となる法華経経巻と
浄水を授け、翌日には五色の雪が降ったと伝えられています。
この由緒によってこの地は「白山」と呼ばれ、源算上人は毎年この日に法楽をされたと伝わります。
白山名水-井戸
その付近に井戸が残されています。
また、この地にはかって、塔頭の実光坊があったとされています。

鎮守社の方へ戻ります。
続く

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