勅使門-1
仁和寺の二王門をくぐった左側に「御殿」と呼ばれる一画があり、
かってこの辺りに宇多法皇の御所があったと伝わります。
法皇が住した僧坊は「御室」と呼ばれ、仙洞御所(せんとうごしょ)の役割を果たし、
御室に入った上皇の尊称ともなりました。
また、付近の地名の由来にもなっています。
御殿には勅使門があり、国の登録有形文化財となっています。
御殿は明治20年(1887)に焼失したため、京都府技師であった亀岡末吉による
設計で再建され、主要な建物は国の登録有形文化財となっています。
勅使門は大正2年(1913)に再建されました。
檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。
勅使門-2
勅使門-3
門には鳳凰や牡丹唐草、幾何学模様などの彫刻が施されています。
本坊-門
勅使門の南側に本坊表門があり、御殿への拝観入口となります。
拝観受付
門をくぐり、斜めの参道の先が御殿への入口で、拝観料500円を納めます。
霊宝館の拝観料500円を合わせると700円に割引されるのですが、
新型コロナの影響で霊宝館は閉館されていました。
白書院-南側の間
白書院は明治23年(1890)に再建され、現在の宸殿が再建されるまでは
仮宸殿として使われていました。
昭和12年(1936)に福永晴帆(ふくながせいはん)により、
松を主題にした襖絵が描かれました。
壺は信楽焼です。
白書院-中の間
中の間
白書院は東面して建ち、表と裏に三室ずつあり、表側の前が順路となっています。
室境には竹の節欄間が用いられています。
白書院-北側の間-1
白書院-北側の間-2
北側の間には床や違い棚が設けられています。
白書院-南庭
白書院の正面広縁は吹放しで、前面は「南庭」と呼ばれ、
勅使門との間には白砂が敷かれて東西に砂紋が引かれています。
宸殿
南庭の北側に宸殿があり、向かって右側(東側)に「左近の桜」、
左側(西側)に「右近の橘」が植えられています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、
左近は御所の紫宸殿の東方に、右近は西方に陣を敷き、
その陣頭の辺に植えられていたのでこの名があります。
宸殿は大正3年(1914)に再建された門跡寺院に相応しい優雅な意匠で、
亀岡末吉の代表作の一つとされています。
桁行19.7m、梁間11.8m、入母屋造檜皮葺で寝殿造の外観、
書院造の内部構成を組み合せています。
中庭
各建物は「御殿回廊」によって結ばれ、宸殿と黒書院の間には中庭があります。
奥に見えるのは霊明殿です。
黒書院
白書院の北西方向、宸殿の西側に黒書院があります。
京都・花園にあった旧安井門跡の宸殿を移して改造したもので、
明治42年(1909)に竣工しました。
桁行15.5m、梁間11.7m、入母屋造桟瓦葺。
黒書院-松の間
昭和6年(1931)の宇多天皇一千年・弘法大師一千百年御忌の記念事業として、
堂本印象画伯により襖絵が描かれました。
こちらは松の間で、堂本印象画伯が名付けた画材の名が、
全6室それぞれの名称となっています。
黒書院-上段の間
秋草の間及び上段の間。
霊明殿
黒書院の北側に霊明殿があります。
仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊・薬師如来坐像を安置する為に
明治44年(1911)に建立されました。
亀岡末吉により設計された方三間、宝形造、一間向拝付、檜皮葺の建物で、
正面に須弥壇があります。
薬師如来坐像は像高10.7cm、康和5年(1103)に仏師・円勢
長円を率いて製作し、国宝指定されていますが、秘仏です。
また、仁和寺歴代門跡の位牌が祀られています。
遼廓亭
霊明殿の西側に茶室・遼廓亭(りょうかくてい)がありますが、
屋根の一部しか見えません。
江戸時代中期(1661~1750)に建立され、天保年間(1830~1844)に
門前(堅町)から移築されたと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
また、尾形光琳の弟・尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)が
仁和寺の南に営んだ草庵であったとも伝わります。
尾形乾山が、元禄2年(1689)に茶室・如庵(じょあん)を模した習静堂を構え、
参禅や学問に励むとともに、付近に住む野々村仁清から陶芸を学びました。
光琳も習静堂を好み、乾山が器を作り、光琳がそこに絵を描いた
兄弟合作の作品も多く残されています。
霊明殿-北庭
宸殿の北側には北庭が築かれ、霊明殿からは見下ろすことができます。
北庭は、寛永年間(1624~1643)に作庭されたと推定され、元禄3年(1690)に
加来道意(かく どうい)、白井童松(しらい どうしょう)らにより改修されました。
しかし、明治20年(1887)の火災で荒廃し、大正時代(1912~1926)に
七代目・小川治兵衛によって整備されました。
北庭-2
北庭は池泉回遊式庭園で、西側と東側の池との間には橋が架けられています。
宸殿-霊明殿
西側の池越しに霊明殿を望みます。
池には睡蓮だと思われる白い花が咲いています。
北庭-滝組
滝組には江戸時代の作庭が残されています。
北庭-飛濤亭
池背後の築山には茶室・飛濤亭(ひとうてい)が建てられ、その奥に中門の屋根、
更に奥に五重塔が望めます。
茶室・飛濤亭は第119代・光格天皇遺愛の席と伝わり、
江戸時代末期(1830~1867)に建立されました。
鴨居の高い貴人口が設けられているなど、貴族好みの実例で、
わびの手法が遊びの意匠に利用されているとして、
国の重要文化財に指定されています。
北庭-東池
建物の直線的な縁と庭園の描く曲線が対比されています。
宸殿-上段の間
宸殿は、明治20年(1887)の焼失以前は御所から下賜された常御殿が
移築・改築して使用されていました。
現在の建物は、大正3年(1914)に建立され、内部は三室からなり、
襖絵や壁などの絵は全て原在泉(はらざいせん:1849~1916)の筆によります。
西側の上段の間の床には「遠山流水」、襖には「桜花」が描かれ、
床框(かまち)などには螺鈿細工が施されています。
宸殿-中段の間-葵祭之図
中段の間、西側の襖には「葵祭之図」が描かれています。
宸殿-中段の間-大堰川三船之図
東側には秋の「大堰川三船之図」が描かれています。
宸殿-下段の間
東側の下段の間には「鷹野(大阪・交野)行幸図」が描かれています。
宸殿-下段の間-将棋
また、平成31年(2019)に将棋の第32期竜王戦(龍王=広瀬章人:ひろせ あきひと/
挑戦者=豊島将之)の第2局対戦場となりました。
この対戦で豊島将之名人が第1局に次いで勝利し、
通算4勝1敗で竜王位を奪取しました。
因みに当時の藤井聡太七段は4組で優勝し、決勝トーナメントに進出しましたが、
1組4位だった豊島将之名人に準々決勝で敗れました。
宸殿-板戸絵
宸殿の板戸絵

画像はありませんが、宸殿の東側には車寄せがあります。
宸殿-勅使門-2
宸殿からの勅使門と二王門
東門
御殿を出て、東へ進むと東門があります。
東門を出て、向かいの蓮花寺へ向かいます。
続く

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