田中殿跡
城南宮から東へ進み、次の四つ角で左折して北上した左側に公園があり、
公園内に「田中殿跡」の石碑が建っています。

応徳3年(1086)11月、第72代・白河天皇は8歳の堀河天皇に
譲位して院政を開始しました。
院御所として造営されたのが鳥羽殿(鳥羽離宮)で、白河法皇が崩御された後、
鳥羽法皇が鳥羽離宮に入り、院政を行いました。
田中殿は鳥羽法皇が娘の暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう)の
御所として建立しました。
鳥羽法皇は第一皇子の崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位していたのですが、
院政開始後に寵愛するようになった藤原得子(美福門院)との間に
躰仁(なりひと)親王が誕生すると、崇徳天皇に譲位を迫りました。
永治元年12月7日(1142年1月5日)、躰仁親王が第76代・近衛天皇として即位し、
崇徳天皇は実権無き上皇となり、田中殿に移り住みました。
久寿2年(1155)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御されました。
鳥羽法皇は、近衛天皇の死は崇徳上皇に近い藤原頼長の
呪詛によるものと信じていたとされています。
保元元年(1156)5月に鳥羽法皇は病に倒れますが、
崇徳上皇が見舞いに訪れても対面せずに追い返しました。
鳥羽法皇が同年7月に崩御されると、皇位継承問題や摂関家の内紛により、
朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至りました。(保元の乱
この戦いで崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流されました。
白河天皇陵-1
田中殿跡の公園から南へ進み、新城南宮通で左折して東へ進み、
油小路通へ左折した先に白河天皇の成菩提院陵があります。
交通量の多い油小路通に面し、安らかに眠れないような気がします。
白河天皇陵-2
陵墓の規模は小さく、築かれた時からこの規模だったのか疑問が残ります。
白河天皇は天喜元年6月19日(1053年7月7日)に第71代・後三条天皇の
第一皇子として誕生し、治暦元年(1065)に13歳で元服しました。
治暦4年(1068)に親王宣下を受け、翌年に立太子、同3年(1971)に
関白・藤原師実(ふじわら の もろざね)の養女・
藤原賢子(ふじわら の けんし/かたいこ)が参入しました。
延久4年(1072)に父帝から譲位され、20歳で即位しましたが、
翌年に父の後三条上皇が崩御されました。
白河天皇陵-3
白河天皇は関白は置きましたが、父と同様に親政
(しんせい=天皇自身が政治を行うこと)を目指し、
摂関家の権勢を弱めることに努めました。
応徳3年(1086)11月、白河天皇は実子である8歳の善仁親王
(たるひとしんのう=後の第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位しました。
白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、院政が開始されました。
しかし、実際には堀河天皇の母・藤原賢子の義理の父である
藤原師実が摂政となり、実権を握っていたとみられています。
白河上皇の第1皇女・媞子内親王(ていし/やすこないしんのう)が
嘉保3年8月7日(1096年8月27日)に崩御されると、上皇は出家しました。
藤原師実の子・師通(もろみち)が後を継いで関白となり、堀河天皇を補佐しましたが、
承徳3年6月28日(1099年7月18日)に師通が亡くなると、
天皇は白河法皇に助言を求めるようになり、法皇による政務への関与が高まりました。
堀河天皇は病弱だったため、
嘉承2年7月19日(1107年8月9日)に29歳で崩御されました。
白河天皇陵-4
第74代天皇として即位したしたのは、僅か5歳の鳥羽天皇でした。
鳥羽天皇は白河法皇の孫で、生後間もなく母・藤原苡子
(ふじわら の いし/しげこ)が亡くなり、法皇に引き取られて養育されました。
政務の実権は法皇が握り、永久元年(1113)に起こった永久の変では皇位継承の
対立候補であった法皇の異母弟・輔仁親王(すけひとしんのう)を
自邸での蟄居へと追い込み、親王は没落しました。
宮中の慣例で退位した太上天皇は内裏には立ち入れないため、
藤原師通の子・忠実(ただざね)は、天皇と白河法皇との取次を行っていました。
法皇は亡くなった藤原公実(ふじわら の きんざね)の娘・璋子
(ふじわら の しょうし / たまこ)を養女とし、璋子を藤原忠実の嫡男・忠通の正室とし、
忠実の娘である勲子(やすこ/くんし)を鳥羽天皇の后にする構想を持っていました。
しかし、忠実はこれを拒否したため、法皇は永久5年12月13日(1118年1月6日)に
璋子を入内させ、永久6年1月26日(同年2月18日)には鳥羽天皇の中宮に立てました。
保安元年(1120)、鳥羽天皇が藤原忠実に娘の勲子の入内を命じたという噂が流れました。
法皇は忠実に真偽を問いただしましたが、忠実は「間違いである」と答えました。
後にそれが嘘であったことが判明し、忠実は罷免されました。
保安2年3月5日(1121年3月25日)、関白に藤原忠実の嫡男・忠通が就き、
元永2年(1119)に璋子が出産した顕仁親王が、
保安4年(1123)に第75代・崇徳天皇として即位しました。
崇徳天皇の時代も院政が敷かれ、大治4年7月7日
(1129年7月24日)に白河法皇は77歳で崩御されました。

北向不動院へ向かいます。
続く

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