今出川通に面した同志社大学のキャンパスの間を北へ進むと相国寺の総門があります。
山号を「萬年山」と号する臨済宗相国寺派の大本山で、神仏霊場の第99番札所です。
永徳2年(1382)、室町幕府第3代代将軍・足利義満(在職:1369~1395)は、
花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、
10年後の明徳3年(1392)に竣工しました。
夢窓疎石(むそう そせき:1275~1351)を開山とし、当時の義満は左大臣であり、
中国では左大臣を「相国」と称されていたことから正式な寺号を
「萬年山相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)」と
定められました。
定められました。
至徳3年(1386)に義満は京都五山の制度を定め、相国寺は第二位に列せられました。
創建当時の相国寺は、南は室町一条あたりに総門があったと伝わり、
室町第の総門を兼ねていました。
寺域は約144万坪に及び、北は上御霊神社の森、東は寺町、
西は大宮通に至る広大なものでした。
事実上、相国寺の開山となった二世の春屋妙葩((しゅんおく みょうは:1312~1388)
も伽藍の完成を見ずに入寂されました。
伽藍完成してから2年後の応永元年(1394)の火災で伽藍の大半が焼失し、
応永32年(1425)にも全焼しました。
その後も、応仁・文明の乱(1467~1477)や天明8年(1788)の大火などで焼失と再建が
繰り返され、明治の神仏分離令による廃仏毀釈や上知令などにより
寺領の大半が失われました。
現在の伽藍の大部分は文化年間(1804~1818)に再建され、
総門は寛政9年(1797)の再建で、京都府の文化財に指定されています。
総門の左側には勅使門がありますが、普段は閉じられています。
天明8年(1788)の大火を免れたと伝わり、慶長年間(1596~1614)頃の創建と考えられ、
平成16年(2004)には修復が行われました。
総門と同様に京都府の文化財に指定されています。
総門をくぐった左側、勅使門の正面に放生池があり、「天界橋」が架かっています。
「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目を
果たしているところから名付けられました。
伽藍は焼失しました。(相国寺の戦い)
天文19年(1550)の中尾城の戦いで、慈照寺の観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。
かって、放生池の先には至徳3年(1386)に立柱上棟が行われた三門がありました。
その後4回の焼失があり、天明8年(1788)の大火後は再建されず、現在に至っています。
弁天社-拝殿
京都御苑内で祀られていましたが、明治13年(1880)に御苑内の宮家が東京へと
移転するのに伴い、久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう:1824~1891)から
相国寺へ寄進されました。
弁天社-本殿
その後、明治18年(1885)に現在地へ遷座されました。
弁財天が祀られています。
弁天社の右側に鐘楼があり、「洪音楼(こうおんろう)」と名付けられています。
天保14年(1843)に再建されたもので、京都府の有形文化財に指定されています。
梵鐘には、「干時寛永六己已季卯月七日」とあり、1629年に鋳造された古鐘を
寛政元年(1789)に購入し、鐘楼が完成するまでは仮楼に吊るされていました。
鐘楼の右奥に宗旦稲荷社があります。
江戸時代の初め頃、相国寺境内に住み着いた狐が、千利休の孫である
千宗旦(せん の そうたん:1578~1658)に化け、相国寺の茶会で宗旦に代わって
お点前をやってのけたことから「宗旦狐」と呼ばれました。
また、ある時は僧堂で坐禅をしたり、托鉢にも行き、
時には寺の和尚と碁を打つなどしたと伝わります。
門前の豆腐屋が資金難から倒産寸前に陥った時、
宗旦狐は蓮の葉をたくさん集めて来て、
それを売って大豆を買うよう勧めました。
豆腐屋はそのお陰で店を建て直すことができ、狐の大好物である
鼠の天婦羅を作って宗旦狐にお礼をしました。
しかし宗旦狐は、それを食べると神通力が失われ、もとの狐の姿に戻り、
それを見た近所の犬たちが激しく吼え始めました。
狐は追われて藪の中に逃げ込み、誤って井戸に落ちたとも、猟師に撃たれて
命を落としてしまったとも伝えられています。
宗旦狐の死を悼み、雲水たちが祠を造って供養したのが宗旦稲荷社です。
法堂(はっとう)-南側
参道に戻った左前方に法堂(はっとう)があります。
永徳2年(1382)には早くも法堂、仏殿の立柱が行われ、法堂は「法雷堂」と
称されていましたが、伽藍完成から2年後の応永元年(1394)に全焼し、
応永32年(1425)にも再度全焼しました。
法堂(はっとう)-西側
応仁元年(1467)には相国寺が応仁・文明の乱(1467~1477)の
細川方の陣地となったあおり受けて焼失しました。
天文20年(1551)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失しました。
この時焼失した仏殿は、その後再建されず、
安置されていた仏像は法堂に遷されました。
天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる
西笑承兌(さいしょう/せいしょう じょうたい)が住職となって
復興が進められました。
その後も元和6年(1620)に火災があり、天明8年(1788)の
「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇が焼失しました。
現在の法堂は天文20年(1551)に焼失後、慶長10年(1605)に
徳川家康の命により豊臣秀頼が寄進して、再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
法堂前にあった仏殿が再建されていないこともあり、本尊の釈迦如来坐像が
安置され、法堂は本堂としての役割も持っています。
正面28.72m、側面22.80mの大きさがあり、法堂建築としては日本最古のものです。
拝観受付を済ますと堂内の参拝ができます。
法堂の天井には直径約9mの円内に狩野光信によって蟠龍図が描かれています。
本尊の横付近の特定の場所で手を打つと反響することから
「鳴き龍」とも呼ばれています。
撮影は禁止されていますが、中央に本尊の釈迦如来、向かって左に
阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が安置されています。
本尊と両脇侍は運慶(生没年不詳)の作と伝わります。
西の壇には達磨、臨済、百丈、開山・夢窓国師、東の壇には、
大権修利菩薩、足利義満の像が安置されています。
拝観受付で800円を納めて先に進むと、正面に庫裏があります。
文化4年(1807)の再建と伝わり、「香積院」と称され、
京都府の有形文化財に指定されています。
正面向かって左の大玄関は、二世・普明国師(春屋妙葩)の五百年遠忌を記念して
明治16年(1883)に設けられました。
以前は韋駄天を祀る室であったと考えられています。
庫裡の左側に方丈があり、天明の大火で焼失後、
文化4年(1807)に再建されたもので京都府の有形文化財に指定されています。
北と南にそれぞれ三室あり、原在中などにより襖絵が描かれています。
前庭には、太陽の反射を利用して室内を明るくするために、
白砂が敷き詰められています。
開山堂は法堂の東側にあり、法堂から渡り廊下で結ばれています。
開山堂は応仁元年(1467)の応仁の乱の兵火で焼失し、寛文6年(1666)に
第108代・後水尾天皇により再建されました。
しかし、天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、現在の建物は江戸時代末期に
第116代・桃園天皇の皇后、恭礼門院(きょうらい もんいん:1743~1796)の
黒御殿が下賜され、文化4年(1807)に移築、増改築されました。
前方の礼堂と、その奥に続く中央の祠堂とから成り、
正面奥には夢窓国師像が安置されています。
開山堂庭園は手前が白砂敷きの平枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山と
なっていて、その間を幅五尺(約151.5cm)ほどの小川が流れていましたが、
昭和十年(1935)頃に水源が途絶えてしまいました。
この流れは上賀茂から南流する御用水『賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~
開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流』を取り入れたもので、寺ではこれを
『龍淵水(りゅうえんすい)』と称し、開山堂をでてからの水路を
『碧玉構(へきぎょくこう)』と称していました。
開山堂を出て左側の参道を進んだ角に浴室があります。
相国寺の浴室は「宣明(せんみょう)」と呼ばれますが、「宣明」を称せられるのは、
皇室、及び将軍家に限られます。
宣明とは、宋の禅宗建築に示される浴室の別名です。
浴室は室町時代の応永7年(1400)頃に創建されました。
現在の建物は慶長元年(1596)に再建されたもので、
平成14年(2002)に復元修復され、京都府の文化財に指定されました。
浴室は春季に特別公開されます。
浴室の北側を西に進むと「禁門変長州藩殉難者墓所」の碑が建っています。
右側には藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓が並んでいます。
伊藤若冲の墓は石峰寺(せきほうじ)にもあり、藤原定家の墓は
厭離庵(えんりあん)にもあります。
厭離庵は、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山荘跡にある寺で、
定家塚や定家の嗣子である為家塚が残されています。
晩年の伊藤若冲は、石峰寺の門前に自宅を構え、若冲が下絵を描き、
当寺の住職と協力して寺の境内裏山に五百羅漢の石像群を造立しました。
また、観音堂の格天井には天井画を描きました。
寛政12年(1800)9月10日、85歳の生涯を閉じ、石峰寺に葬られました。
足利義政は、室町幕府第8代将軍で、幕府の財政難と土一揆に苦しんで政治を疎み、
自らは東山文化を築いた文化人でした。
義政には富子との間に男子がありましたが、長禄3年(1459)に早世(そうせい)し、
その後、嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋(ぎじん)を還俗させて
足利義視(あしかが よしみ)と名乗らせ、養子として次期将軍に決定しました。
しかし、寛正6年(1465)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生したため、
義政はどちらにも将軍職を譲りませんでした。
これに反発した畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)が政長と
合戦に及んで応仁・文明の乱(1467~1477)が起こりました。
義政は東軍の細川勝元に将軍旗を与え、義視が逃げ込んだ
西軍・山名宗全追討の命令を下しました。
文明5年(1473)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、
義政は12月19日に将軍職を子で9歳の義尚へ譲りました。
しかし、実権を握り続けたため、義尚・富子と対立するようになり、
それから逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。
浴室から南へと戻った所に「天響楼(てんきょうろう)」があります。
平成22年(2011)に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼です。
この鐘は、中国の河南省、開封市にある大相国寺により二つ鋳造され、
その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、
「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。
傍らには、インド産の黒御影石で造られた友好記念碑が建立されています。
平成6年(1994)に日中両相国寺が友好条約を締結した記念に
両相国寺の境内に建立されました。
八幡宮の南側に後水尾帝歯髪塚があります。
かってこの地には七重大塔がありました。
応永6年(1399)に足利義満によって建立された大塔は、
全高(尖塔高)109.1mを誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔でした。
しかし、応永10年(1403)に落雷により焼失し、承応2年(1653)に
後水尾上皇が大塔を再建されました。
その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、
天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚が建立されました。
その南側に京都府の有形文化財に指定されている経蔵があります。
現在の建物は、天明の大火で焼失した宝塔の跡地に、万延元年(1860)に建立されました。
仏舎利が納められ、宝塔としての機能も兼ねていましたが、
その後、仏舎利は他の堂宇に遷されました。
塔頭の大光明寺へ向かいます。
続く
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