日吉神社
湖東三山は、西明寺・金剛輪寺・百済寺の三つの天台宗寺院の総称で、琵琶湖の東側、
鈴鹿山脈の西山腹に位置し、紅葉の名所と知られ、
日本の紅葉名所百選にも選ばれています。
最も京都寄りにあるのが百済寺で、125ccバイクは名神高速道路を
使えない悲しさから、自宅からの距離は80km余りなのに
途中休憩を含め2時間半を要しました。
百済寺へ向かい、最初に目にするのは赤門で、その前には
「日吉神社御旅所」と刻字された石柱が建っています。
見過ごしてしまいましたが、手前には和銅5年(712)に創建された日吉神社がありました。
百済寺は寺伝では推古天皇14年(606)に聖徳太子によって開かれ、
後に延暦寺の勢力下に入り、天台宗に改宗されました。
延暦寺が創建されたのは延暦7年(788)であることから、
日吉神社も創建当初は産土神を祀っていたのかもしれません。
その後、百済寺が天台宗寺院となってからは、「日吉山王権現」、
「日吉十禅社」と称され、明治の神仏分離令で「日吉神社」に改められました。
峻徳院殿廟所
赤門の東側200m奥には峻徳院殿廟所(井伊直滋墓所)がありますが、
鎖で参道は閉ざされているようなので、先へは進みませんでした。
毎年6月8日に百済寺住職により「峻徳院殿墓参」が行われているようです。
井伊 直滋(いい なおしげ:1612~1661)は、彦根藩第2代藩主・井伊直孝の
長男でしたが、父と度々対立し、万治元年(1658)に廃嫡(はいちゃく)されて、
百済寺で出家しました。
井伊直孝・直滋親子は百済寺の再興に尽力されました。
直滋は寛文元年(1661)に百済寺で亡くなりました。享年50。
赤門
赤門からの参道が表参道となります。
阿弥陀堂
門をくぐってしばらく進むと右側に阿弥陀堂があります。
供養塔
阿弥陀堂の向かい側に天文法華の乱・戦士供養塔があります。
天文5年(1536)7月に延暦寺の衆徒が、洛中洛外の拠点 21ヵ寺を焼き払い、
法華宗徒を武力で洛外へ追放しましたが、その際、
出陣した百済寺僧兵の戦死者の供養碑です。
極楽橋
赤門から50mほどの先に架かる極楽橋は、手前が「此岸」、渡り終えると「彼岸」となります。
かってこの橋から本堂まで多くのの僧坊が建ち並び、「石垣参道」と称されたそうです。
戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイスは、
「地上の天国 一千坊」と絶賛したと書簡に残しています。
また、橋の袂に「矢杉」と呼ばれる杉の木と、その付近に「ねずみ地蔵」が祀られています。
時間が遅れていた関係で表参道は極楽橋の手前までしか行かず、
それより先の画像はありません。
元亀4年(1573)4月、織田信長に抵抗を続けていた六角承禎(ろっかく じょうてい)が
百済寺の近くにあった鯰江城(なまずえじょう)に籠城しましたが、
百済寺は六角氏に味方しました。
百済寺は鯰江城に僧兵や兵糧を支援し、六角軍の妻子を匿うなどをしたため
同月11日に信長軍の襲撃を受けました。
その時、ネズミたちが矢を僧兵に運んで助け、「矢杉」の梢からは無数の矢が
飛び出して信長軍に対抗した、という伝説があります。
しかし、百済寺は全焼しましたが、本尊の植木観音は約8㎞離れた奥の院に
避難させて難を免れました。
奥の院は明治時代に本坊隣に移されました。
また、「ねずみ地蔵」の先に「蛇封じの井戸」がありますが、詳細は不明です。
通用門
通用門下の駐車場まで登り、拝観受付となっている
本坊の喜見院(きけんいん)へ向かいます。
百済寺は山号を釈迦山(しゃかさん)と号する天台宗の寺院で、
神仏霊場・第141番、聖徳太子霊跡・第34番、近江西国三十三観音霊場・第16番などの
札所となっています。

寺伝では推古天皇14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた
近江最古の仏教寺院とされています。
当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)と共にこの地を訪れた
聖徳太子は、山中に不思議な光を見出しました。
太子はその光を発しているのが杉の霊木であることを見つけ、その杉を
根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を造り、
像を囲むように堂を建立しました。
その木は上半分が切られていて、百済の龍雲寺の十一面観音が刻まれ、
東向きに安置されたと伝わります。
百済寺では西向きに安置され、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので
百済寺と号したとされています。
一方で、渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高いとの見方もあります。

平安時代からは延暦寺の勢力下に入り、「湖東の小叡山」や
「天台別院」とも称されるようになりました。
寺の規模は拡大され、北谷・東谷・西谷・南谷に300近い坊を持つようになりました。
しかし、明応7年(1498)の火災と文亀3年(1503)の兵火により創建以来の
建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類などの大半を焼失しました。
喜見院
本坊の喜見院は、かっては仁王門付近にあり、千手坊と呼ばれていました。
寛永11年(1634)に天海大僧正の弟子・亮算(りょうさん)が入山して
喜見院に改め、昭和15年(1940)に現在地に移され、庭園が築かれました。
書院
本坊の書院か客殿でしょうか?
千年菩提樹-下
本堂脇の「千年菩提樹」の子株が植栽されています。
不動堂
建暦3年(1213)、百済寺は延暦寺塔頭・無動寺の末寺となったことが記録に残されています。
無動寺は千日回峰行の拠点で、百済寺でも比叡山に倣い背後の山を越えた
8㎞先(現・東近江市百済寺甲)に不動堂を建立して奥の院と呼び、
回峰修行が盛んに行われるようになりました。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ちの際は、本尊を不動堂に遷して難を逃れました。
明治時代に不動堂は現在地に移築され、堂内に安置されている
鎌倉時代後期作の不動三尊像は東近江市の文化財に指定されています。
下馬碑
不動堂の脇に立つ下馬碑は小野道風が参拝した際に直筆したものとされています。
庭園入口
不動堂の横を奥へ進むと池泉回遊式庭園が築かれています。
池-1
池には平らな石が配され、その上を渡って進みます。
滝組-1
池の奥には滝が組まれ、自然の谷川の水が石の間を渓流となって流れ、
池に落ちるように造られています。
滝の脇には「不動石」が配されています。
池-2
池を半周しました。
遠望への石段
滝からは緑の中を石段が続き、それを登ると遠望台があります。
遠望-看板
遠望
遠望台からは湖東平野、その右側に太郎坊宮、安土城跡、
琵琶湖対岸の比叡山や比良山系が望めます。
石垣
遠望台先の石垣は六角氏が文亀年間(1501~1503年)に着工したとされる
城砦(じょうさい)の遺構です。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ちで、建物は悉く焼失し、
寺坊の石垣も持ち去られ安土城の石垣となりました。
弥勒像
参道を右に外れると全高3.3mの弥勒菩薩半跏思惟の石像が祀られています。
寺宝である像高27cmの金銅製弥勒像(秘仏)を模して2000年の
ミレニアムを記念して造立されました。
仁王門への石段
参道に戻ると石段の先に、本堂と同時期に建立され、
市の文化財に指定されている仁王門が見えてきます。
仁王門
仁王門前には大きな草鞋が吊るされています。
当初は仁王像に相応しい50cm程度の大きさでしたが、江戸時代中頃から
仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願をかけるようになりました。
草鞋が大きくなればご利益も大きくなるということで、草鞋が段々大きくなり、
現在では3mほどの大きさになりました。
約10年毎に新調されているそうです。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は、門と同時期に造立されたのでしょうか?
長く門番をされているのか、少々負傷されているようです。
弁天堂
仁王門をくぐり参道を進んだ右側に池があり、その中に弁天堂があります。
慶安3年(1650)に本堂と共に再建されましたが、昭和の豪雪で倒壊し、
平成8年(1996)に新しく造り替えられました。
しかし、平成24年(2012)春に風で倒壊し、現在の弁天堂は翌25年に再建されたもので、
「七転び八起きの弁天様」として信仰を集めています。
観音杉
参道の正面には石垣が積まれ、その上に本堂があります。
参道の石段は石垣の下まで続き、そこで右側に折れますが、
その角に境内最大の樹木で、樹齢430年と推定される「観音杉」が聳えています。
三所権現社
本堂の右側には三所権現社があり、市の文化財に指定されています。
本堂と同時期に建立され、熊野三山の主祭神が祀られています。
画像はありませんが三所権現社から右手に入った所に五重塔跡があり、
礎石が残されています。
五重塔が創建されたのは鎌倉時代と考えられています。
その後、百済寺は4度の焼失があり、塔は明応7年(1498)と文亀3年(1503)に焼失しました。
昭和26年(1951)に発掘調査が行われ、心礎位置から高さ21cm、
径19cmの信楽焼の壺が発掘されました。
文亀3年の焼失後に塔が再建され、舎利容器として埋められたと推定されています。
本堂-横
本堂の側面
現在の本堂は慶安3年(1650)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ち以前の本堂は、現本堂の裏側にありました。
焼き討ち後の天正12年(1584)に堀秀政により仮本堂が再建され、
寛永11年(1634)に天海大僧正の弟子・亮算(りょうさん)が入山して百済寺が再興されました。
享保年間(1716~1736年)には四谷の坊舎は37坊、僧60数名まで復興されましたが、
慶応元年(1865)には5坊にまで減少し、明治の神仏分離令後は喜見院1坊を
残すのみとなり、坊舎は廃棄され、僧は山を去りました。
本堂-斜め前
本尊は信長の焼き討ちでも難を逃れた像高2.6mの十一面観音立像で、
脇侍として室町時代作の聖観音菩薩坐像と如意輪観音菩薩半跏思惟像
安置されていますが、いずれも秘仏です。
御前立として院祐作の聖観音菩薩坐像と如意輪観音菩薩半跏思惟像が安置されています。
閻魔像
閻魔+賓頭盧尊者
堂内外陣には閻魔大王像と賓頭盧尊者像が安置されています。
五重塔
また、五重塔の模型や聖徳太子元服姿立像が祀られています。
聖徳太子元服姿立像は、平成3年(1991)に滋賀県主催の
世界陶芸祭ワークショップ会場で陶芸家・島林氏により造形されたものです。
千年菩提樹-上
本堂の左側には樹齢約千年と推定される菩提樹が葉を茂らせ、「千年菩提樹」と称されています。
信長の焼き討ちの際、幹まで焼損しましたが根は無事であったため、幹の周囲から蘇ってきました。
中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しているそうです。
鐘楼
千年菩提樹の左側に鐘楼があります。
梵鐘
初代の鐘楼は信長の焼き討ちの際に持ち去られ、
江戸時代に鋳造されたものは戦時供出されました。
現在の梵鐘は昭和30年(1955)に鋳造された三代目で、
余韻の長さと音色の美しさで「昭和の名鐘」と謳われ、自由に撞くことができます。
表門
参道を下ると表門があります。
更に参道を下ると赤門へと続きますが、駐車場の方へ戻り、永源寺へ向かいます。
続く

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