山門
千本通りを南下し、「千本寺之内」の信号の先、左側に石像寺があります。
石像寺は山号を「家隆山(かりゅうざん)」、正式には「光明遍照院石像寺」と
号する浄土宗の寺院で、洛中四十八願寺及び地蔵尊の洛陽四十八願所霊場の札所です。
大師堂
山門をくぐった左側に大師堂があり、弘法大師と観音菩薩が祀られています。
石像寺は弘仁10年(819)に空海によって創建された真言宗の寺院でした。
最澄らと共に唐に渡った空海は、大同元年(806)に帰国しましたが、
唐から石を持ち帰り、その石に地蔵菩薩を刻んで安置したのが
石像寺の始まりとされています。
この地蔵菩薩には苦しみを抜くという霊験があり、「苦抜地蔵(くぬきじぞう)」と
呼ばれるようになりました。
寺は栄えて8町四方(873㎡)の境内地を有したと伝わります。
その後、鎌倉時代に俊乗房・重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)によって
再興され、浄土宗に改宗されました。
重源は南宋へ3度渡り、建築技術などを習得したとされ、治承4年(1180)に
平重衡の南都焼討で焼失した東大寺の復興を果たしました。
文治2年(1186)に大原・勝林院で行われた「大原問答」に加わり、
法然上人に師事するようになりました。

また、『新古今和歌集』の撰者の一人である藤原家隆が、嘉禎2年(1237)に
石像寺で出家したことから山号が「家隆山」となったとの説があります。
境内の墓地には藤原家隆と共に寂連藤原定家のものと伝わる
三基の供養塔があります。
家隆はその後、四天王寺に入り、その西側の地に「夕陽庵(せきようあん)」を
設けて浄土教の教えである「日想観」を修し、この地より見える
「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、
その彼方にある極楽浄土へ来迎される事を望みました。
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになり、
現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆の墓と伝わる「家隆塚」があります。
釘抜のモニュメント
山門をくぐった正面に本堂があり、その前には大きなブロンズ製の釘抜の
モニュメントがあります。
昭和39年(1964)に堂本印象が、母の病気平癒を祈願して奉納されました。
本尊の地蔵菩薩が「苦抜地蔵」から「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのには
以下のような伝説が残されています。
『室町時代の終わり頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。
彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治療を施しても効き目がなかった。
そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、
満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。
地蔵菩薩は「お前の苦しみの原因は、前世において人をうらみ、呪いの人形
(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、
呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。
道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。
そして、石像寺に参詣すると、本尊の地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が
置かれていたという。
道林は地蔵菩薩に感謝して、100日間のお礼参りを行ったと伝わります。』
現在では、本堂の周囲を百度または、年齢の数だけ回って祈願される
多くの方々が見られます。
絵馬
本堂の外壁には、実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた約千枚もの絵馬が
貼り付けられています。
玉姫社・おさすり地蔵
本堂の右側に「おさすり地蔵」と「玉姫大明神」が祀られています。
おさすり地蔵は、自身の体の悪い部分と同じところを擦って祈願すれば
治癒すると信仰を集めているそうです。
境内の右側
境内の右側
水掛地蔵・不動
水掛地蔵菩薩や不動明王も祀られています。
阿弥陀三尊像
本堂の裏側に、国の重要文化財に指定されている石像の阿弥陀三尊と弥勒菩薩立像
が安置されています。
中央の阿弥陀如来像は像高91.5cmで、光背の裏面に元仁2年(1225)開眼の銘があり、
台座から光背まで切り出した石像としては日本最古例とされています。
脇侍として右に観音菩薩、左に勢至菩薩像が安置され、共に像高は約103cmです。
三尊像の右側に弥勒菩薩立像が安置されています。
地蔵堂
本堂の右側に地蔵堂がありますが、「釘抜地蔵尊」と呼ばれるのは
本堂に安置されている地蔵尊です。

画像はありませんが、境内には空海が自ら掘ったと伝わる井戸が残され、
今も水が湧き出ているそうです。

千本通りを北上して引接寺(千本ゑんま堂)へ向かいます。
続く

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