二の鳥居
頓宮の南門から南へ進むと表参道で、
「頼朝松」から右側(西側)の石段を上ると裏参道となります。
表参道から登り、裏参道へ下りたいと思います。
表参道の入口には二の鳥居が建ち、ここから30分弱で本殿へ参拝することができます。
相槌神社への下り坂
鳥居をくぐり参道を進むと下りの石段があります。
下馬碑
石段を下った所に松花堂昭乗の筆と言われている下馬碑が建っています。
相槌神社
下馬碑の北側に相槌神社があります。
山ノ井-1
山ノ井-2
相槌神社に隣接して山ノ井があります。

相槌神社には髭切(ひげきり)、膝丸(ひさまる)と命名された名刀の
以下のような伝説が残されています。
『平安時代の中頃、多田(源)満仲公が筑紫国三笠郡土山に住んでいる鍛冶職人の男を
呼び寄せて「武将にも朝廷にも代々受け継ぐことのできるような、丁度三種の神器に
匹敵するくらいの立派な刀を打ってほしい」と要望され、
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈りました。
やがて「汝の申すこと、よく分かった。良い鉄を使って作るがよい。
最上の剣を二つ与える」との託宣を頂いた。
その刀工は良質の鉄を持って来て山ノ井の水を焼刃の水に使って昼夜を問わず
懸命に刀を打っていると、何処からともなく相槌をしてくれる音がして、
ふと我に返ると向かいに神様がいて一緒になって刀を打っていた。
その刀鍛冶は霊験の厳かさに、神様をこの場所に祀り相槌稲荷社とした。
出来た二振りの刀は、早速、多田満仲公に献上した。
満仲は余りもの素晴らしさに、刀の切れ味を罪人を使って試したところ、
罪人の髭まで切れてしまった。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、その刀を髭切(ひげきり)
、膝丸(ひさまる)と命名した。
満仲の息子の源頼光の時、その二振りの刀の一振りは源頼光の配下の渡辺綱が持ち、
一条戻り橋で突然何者かに兜をつかまれた渡辺綱が切りかかると、
兜をつかんだままの鬼の腕だけ落ちていた。
更にもう一振りは源頼光が持ち、瘧(おこり、マラリヤ)で苦しんでいた時、
怪しい法師が現れ切ったところ、それが土蜘蛛だと分かった。
この様な奇怪な出来事が起こり、名前を鬼斬(おにきり)、蛛斬(くもきり)と改名した。
後世、この二振りの刀は北條氏に渡り、一振りを足利尊氏に、もう一振りを
新田義貞へ伝わり、その後新田氏から徳川氏に伝来したという。』
七曲り
参道へ戻ると七曲がりの石段が続きます。
大扉稲荷社-1
大扉稲荷社-2
七曲がりの石段を登りきると左側に大扉稲荷社があります。
文政12年(1829)当時、富くじが流行し、御利益を得た信者の寄進で建立されたそうです。
現在でも宝くじに御利益があるかは定かではありません。
かげきよの碑
大扉稲荷社の前に影清塚があり「舊跡(きゅうせき)かげきよ」の石碑が建っています。
駒返し橋の碑
影清塚から奥へ進むと「駒返し橋」の石碑が建っています。
祓谷
この谷は「祓谷(はらいだに)」と呼ばれ、参道沿いに小川が流れ、
曲がった所に駒返し橋が架かっています。
ここから先は登りが急峻となるので、馬がここから引き返したと伝わりますが、
七曲がりの石段下に下馬碑があり、ここまで馬で来れなかったと思われます。
かって、この辺りに祓谷社があり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされる
瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られていました。
参詣の人々はこの小川に自分の影を写し、身繕いを正したことが
「影清」の由来となったと伝わります。
6月30日の夏越大祓と12月31日の年越大祓もここで行われていましたが、
現在は山上の祓所に移されました。
参道の先は松華堂跡や石清水社を経て、裏参道に合流します。
かげきよ塚の先
表参道に戻ります。
ここからは緩やかな登り坂が続きます。
橘本坊跡
緩やかな坂を登った所に東谷・橘本坊(きっぽんぼう)跡があり、石垣が残されています。
石清水八幡宮は宮寺として創建され、江戸時代までは
「男山四十八坊」と呼ばれる宿坊や僧坊が建ち並んでいました。
橘本坊もその一つで、足利氏の祈願所でした。
足利氏は、平安時代後期に石清水八幡宮の社頭で元服し、「八幡太郎」と呼ばれた
源義家の四男・義国が下野国(しもつけのくに)足利荘(栃木県足利市)を領地とし、
義国の次男・義康以降の子孫が「足利」と称したことに始まります。
室町幕府の第三代将軍・足利義光の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた
善法寺家の出身であったことから所縁も深く、
足利将軍の多くは何度も参詣し、放生会も執り行いました。
橘本坊には八幡太郎の産衣や甲冑が残されていましたが、
宝暦9年(1759)の大火で失われました。
男山の麓の南約300mの所に善法寺家ゆかりの善法律寺があり、
良子が寄進した紅葉が美しく「もみじ寺」とも呼ばれています。
また、善法律寺には神仏分離令後の廃仏毀釈で、頓宮の極楽寺から
宝冠阿弥陀如来坐像、本宮からは僧形八幡坐像が遷され安置されています。
橘本坊跡先の石段
橘本坊跡からは再び石段が続きます。
石段の曲がり角
石段は右側へカーブしています。
中坊跡
曲がった先に中坊と椿坊の跡があります。
椿坊は現在の社務所辺りにあり、平安時代後期から鎌倉時代にかけての
女流歌人・小侍従(こじじゅう)が住んでいたと伝わります。
小侍従は石清水八幡宮の別当・光清(こうせい)の娘で、異母姉は鳥羽天皇に嫁ぎ、
八幡市の地名・美濃山から美濃局と呼ばれました。
小侍従は女房三十六歌仙の一人に加えられ、私家集である『太皇太后宮小侍従集』、
『小侍従集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に作品を残しています。
また、『平家物語』等に記されたエピソードから
「待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)」と呼ばれました。
小侍従の墓は大阪府三島郡島本町にあります。
四角い切り石が積み上げられた所には中坊の門がありました。
中谷の絵図
この辺りは「中谷」と呼ばれ、現在の社務所周辺まで所狭しと坊が建ち並んでいました。
豊蔵坊跡
中坊跡の石垣の上には豊蔵坊跡があります。
豊蔵坊は徳川家康が早くから祈願所とし、徳川将軍家の坊として最も栄えました。
石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家、正法寺(しょうぼうじ)の志水宗清の
娘・お亀の方は、文禄3年(1594)、22歳の時、家康に見初められ側室に入り、
慶長5年(1600)には尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を出産しました。
そのような関係からか、豊蔵坊は江戸幕府が直接修理や築造を行い、
客殿や庭園を備え、湯殿が2か所、3棟の蔵がありました。
また、文久3年(1863)には第121代・孝明天皇が攘夷祈願を行いました。
しかし、明治の神仏分離令により建物は全て破却され、
徳川家康の像は等持院へ遷されました。
茶処
石段を上った中間辺りに茶処がありますが、普段は営業されてないようです。
古地図にはこの付近に愛染堂が描かれていますが、
還俗した社僧らによって売却されました。
愛染堂は寛元4年(1246)に建立された隅切り八角形の仏堂だったそうです。
愛染明王像
安置されていた愛染明王像は現在、愛知県蒲郡市の永向寺に遷されています。
開山堂の絵図
愛染堂の向かいには、古絵図では開山堂が描かれていますが、
その後の変遷などの詳細は不明です。
神仏分離令後、石清水八幡宮から凄まじい勢いで仏教色が排除され、
貴重な文化財が換金されて散逸したそうです。
神馬舎
石段を上った左側に神馬舎があります。
昭和34年(1959)に新築され、神馬も奉納されましたが、
平成16年(2004)に死去してからは建物だけが残されています。
神馬舎の辺りには天治3年(1126)に平清盛の孫である平 宗実(たいら の むねざね)が
建立した「駿河三昧堂」と称した多宝塔がありました。
走上り参道
神馬舎の横にも古くからの参道があり、古絵図では小さな門が描かれています。
ナビタイムによると、走上りバス停まで1.1km、約15分、歩数は約1,506歩で、
消費カロリーは約185kcalだそうですが試してはいません。
三の鳥居
神馬舎の正面には三の鳥居があり、参道が南総門まで一直線に伸びています。
三の鳥居周辺には、平安時代に藤原道長の建てた仏塔がありました。
鳩峯寮の庭
鳥居をくぐった左側に、重森三玲氏による「鳩峯寮(きょうほうりょう)の庭」が築庭されています。
昭和36年(1961)9月16日の第二室戸台風で倒壊した三の鳥居の石材を用いて
昭和41年(1966)5月11日に作庭されました。
重森三玲氏は明治29年(1896)8月20日に岡山県で生まれ、昭和4年(1929)に
京都へ移り住み、生涯にわたって石清水八幡宮への月参りを続けられました。
第二室戸台風は最低気圧が882hPaを観測した超大型台風で、9月16日9時過ぎに
中心気圧925hPaで室戸岬西方に上陸し、風速計が振り切れてしまう
(84.5m/s以上)の風を観測しました。
関西に甚大な被害をもたらしたこの台風により、正保2年(1645)に建立された
三の鳥居が倒壊しました。
石灯籠

三の鳥居から南総門までの石畳の参道は100mあり、両側には400基の石灯籠が並び、
その一部にはかっての宿坊の名が残されています。
平成30年(2018)6月18日午前7時58分に発生した大阪北部地震では、境内や参道の
石灯籠約500基の内約40基が倒壊するなどの被害を受けました。
関係者からは「倒れた石灯籠は江戸時代以降のもので、それ以前のものは無傷であった」と
の話もありましたが、現在では全て修復されています。
一ッ石
石畳の参道の三の鳥居前の中央に、自然石が埋め込まれています。
「一ッ石」「勝負石」と呼ばれ、かって南総門の下にあった「五ッ石」まで、
競い馬・走り馬の出発点になっていました。
また、百度参り、千度参りの起点となっていたことから「百度石」とも呼ばれ、
江戸時代には本殿参拝を終えた参詣人が一ッ石の前で再び本殿に向かい
拝礼するという習わしがあったとも伝わります。
御鳳輦舎
参道を進んだ右側(東側)に御鳳輦舎(ごほうれんしゃ)があります。
ここに鳳輦(ほうれん)3基が納められています。
鳳輦とは、屋根に鳳凰の飾りのある天子の輦(くるま)で、神輿の原形と言われています。
石清水祭では、本殿から3座の神霊が鳳輦3基で頓宮殿まで降りられる際に使用されます。
御羽車舎
御鳳輦舎の北側に御羽車舎があります。
淀殿が再興した経蔵でしたが、明治の神仏分離で羽車2基を納め「御羽車舎」と改称されました。
羽車とは、御神体の移動などに用いられる輿(こし)のことです。
書院
御羽車舎の北側に書院があります。
石庭-1
石庭-2
書院石庭は昭和27年(1952)に重森三玲氏によって作庭されました。
南北約8m、東西約6mの方形のなかに白砂が敷き詰められ、
八幡大神の「海神」としての神格に因み、海洋を表しています。
白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を大海原に浮かぶ島に見立てて配し、
三尊石を組んだものもあります。
15個目の石として、石庭の東南の角には配置されている石灯籠には
「永仁3年(1295)未乙三月」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
社務所
書院に隣接して北側に社務所があります。
供御所
南総門への石段下の左側に供御所(くごしょ)があり、
現在の建物は慶長2年(1597)に造営されました。
竈神殿
また、末社の竈神殿(そうしんでん)としてかまどが祀られています。
台所守護神を祀り、神殿に供える食物を調理する所としての役割を持っていました。
カゴの木
南総門の右側(東側)に立つカヤの木は、御神木とされています。
樹齢約700年以上で樹高約20mあり、京都府下のカヤのなかでも有数の巨木とされています。
カヤの実からは油が採れますが、現在では石清水祭の神饌として使われ、
また茶道・裏千家の初釜式において「蓬莱山飾り」という新春のお飾りにも用いられています。

本殿へ向かいます。
続く

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