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山門
下御霊神社から更に南下すると行願寺があります。
山号を「霊麀山(れいゆうざん)」と号する天台宗の尼寺で、
神仏霊場・第114番の札所となっています。
寛弘元年(1004)、行円により一条小川の一条北辺堂跡に創建されました。
京都御苑の西方には、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残されています。 
行円は仏門に入る前は猟師で、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から
子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わります。
行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、「皮聖」、「皮聖人」などと呼ばれ、
寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれました。
行願寺はその後、度々の火災で焼失、再建を繰り返し、天正18年(1590)に豊臣秀吉による都市計画のため、寺町荒神口へ移転しました。
宝永5年(1708)の大火の後に現在地で再建されましたが、
天明8年(1788)の大火でも焼失しました。
山門は元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で焼失し、
その後再建されました。
行願寺は戦後荒廃していましたが、昭和44年(1969年)から中島湛海尼が住職となって
寺を再興し、名誉住職となりました。
湛海尼は昭和63年(1988)に尼僧で初めて天台宗最高位の大僧正になりましたが、
平成18年(2006)10月28日に91歳で亡くなりました。
手水舎
山門を入った左側に手水舎があります。
本堂-1
門を入った正面に本堂があります。
現在の本堂は文化12年(1815)に再建されたもので、
京都市の有形文化財に指定されています。
本堂-2
本尊は像高2.5mの千手観世音菩薩像で、行円が上賀茂神社のご神木を得て
3年をかけて自ら刻んだと伝わります。
本尊は秘仏とされ、毎年1月の17と18日のみ開帳されます。
加茂明神塔
境内の西北隅にある五輪塔は「加茂明神石塔」と称され、行円が上賀茂神社のご神木を
得た報恩として、加茂明神を勧請したと伝わります。
かっては、石塔前に鳥居が建っていたそうです。
百体地蔵堂
その東側に百体地蔵堂があり、多くの地蔵尊や石仏、石塔が祀られています。
鐘楼
更にその東側には文化元年(1804)に再建された鐘楼があり、
京都市の有形文化財に指定されています。
梵鐘
鐘は許可なく撞くことはできませんので、勝手に撞かないよう、
時々猫が見張りをしています。
鎮宅霊符神堂
鐘楼の東側に鎮宅霊符神堂があります。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
『風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸されました。
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで尋ねたところ、
「その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にありました。
ある時、いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、
十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて
来るであろうと預言し、忽然と消えた」と答えました。
孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた』と伝わります。
但し、単に霊符を書いて壁に貼っておくだけでは駄目で、
この霊符を用いるには修法を実践する必要があるそうです。
日本に伝わってからは、鎮宅霊符そのものを神として祀られているようです。
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、この神の家内安全、
商売繁盛のお祭りです。
庫裡
鎮宅霊符神堂前の東側に庫裏があります。
七福神
庫裏の向かいの参道を挟んだ西側に七福神の像が祀られています。
寿老神堂
その南側に安土・桃山時代に建立された寿老神堂があります。
本尊の寿老人は「都七福神めぐり」の札所本尊でもあります。
愛染堂
更にその南側には愛染堂があります。
大日如来
本堂の南側に天道大日如来と延命地蔵菩薩を祀った社があり、
画像はありませんがその東側に宝物館があります。
宝物館には行円が身につけていたとされる鹿皮の衣が保存され、
毎年1月に2日間だけ公開されます。
また、お盆の期間のみ公開される「幽霊絵馬」には以下のような伝説が残されています。
『江戸時代の文化8年(1811)、行願寺の近くにあった質屋で子守として奉公していた
「おふみ」という少女が、よく境内で子守をしていました。
革堂から聞こえてくる御詠歌を子守歌代わりに、唄い聞かせていたのですが、
質屋の主人は熱心な法華信者でした。
ある時、おふみが唄う御詠歌が主人の耳に入り、
それに怒った主人に虐待され殺されてしまいました。
主人はおふみの遺体を親に返さず、蔵に隠しました。
行願寺での通夜に訪れていた両親の前におふみが幽霊となって現れ、
両親に真相を告げたました。
両親はおふみを葬った後に幽霊を絵馬に描き、
手鏡をはめて寺に奉納した』と伝わります。

寺町通を北上して京都御苑へ向かいますが、丸太町通を境に北は上京区、
南は中京区に分かれ、京都御苑は上京区となります。
続く
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総門
今出川通に面した同志社大学のキャンパスの間を北へ進むと相国寺の総門があります。
山号を「萬年山」と号する臨済宗相国寺派の大本山で、神仏霊場の第99番札所です。
永徳2年(1382)、室町幕府第3代代将軍・足利義満(在職:1369~1395)は、
花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、
10年後の明徳3年(1392)に竣工しました。
夢窓疎石(むそう そせき:1275~1351)を開山とし、当時の義満は左大臣であり、
中国では左大臣を「相国」と称されていたことから正式な寺号を
「萬年山相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)」と
定められました。
至徳3年(1386)に義満は京都五山の制度を定め、相国寺は第二位に列せられました。

創建当時の相国寺は、南は室町一条あたりに総門があったと伝わり、
室町第の総門を兼ねていました。
寺域は約144万坪に及び、北は上御霊神社の森、東は寺町、
西は大宮通に至る広大なものでした。
事実上、相国寺の開山となった二世の春屋妙葩((しゅんおく みょうは:1312~1388)
も伽藍の完成を見ずに入寂されました。

伽藍完成してから2年後の応永元年(1394)の火災で伽藍の大半が焼失し、
応永32年(1425)にも全焼しました。
その後も、応仁・文明の乱(1467~1477)や天明8年(1788)の大火などで焼失と再建が
繰り返され、明治の神仏分離令による廃仏毀釈や上知令などにより
寺領の大半が失われました。
現在の伽藍の大部分は文化年間(1804~1818)に再建され、
総門は寛政9年(1797)の再建で、京都府の文化財に指定されています。
勅使門
総門の左側には勅使門がありますが、普段は閉じられています。
天明8年(1788)の大火を免れたと伝わり、慶長年間(1596~1614)頃の創建と考えられ、
平成16年(2004)には修復が行われました。
総門と同様に京都府の文化財に指定されています。
天界橋
総門をくぐった左側、勅使門の正面に放生池があり、「天界橋」が架かっています。
「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目を
果たしているところから名付けられました。
天文20年(1551)、細川晴元三好長慶の争いは、この橋をはさんで始まり、
伽藍は焼失しました。(相国寺の戦い
鹿苑寺(金閣寺)と慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭ですが、その前哨となる
天文19年(1550)の中尾城の戦いで、慈照寺の観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。

かって、放生池の先には至徳3年(1386)に立柱上棟が行われた三門がありました。
その後4回の焼失があり、天明8年(1788)の大火後は再建されず、現在に至っています。
弁天社-鳥居
参道の右側には玉龍院、光源院と塔頭が並び、その先に弁天社があり、
京都府の有形文化財に指定されています。
弁天社-拝殿
弁天社-拝殿
京都御苑内で祀られていましたが、明治13年(1880)に御苑内の宮家が東京へと
移転するのに伴い、久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう:1824~1891)から
相国寺へ寄進されました。
弁天社-本殿
弁天社-本殿
その後、明治18年(1885)に現在地へ遷座されました。
弁財天が祀られています。
鐘楼
弁天社の右側に鐘楼があり、「洪音楼(こうおんろう)」と名付けられています。
天保14年(1843)に再建されたもので、京都府の有形文化財に指定されています。
梵鐘には、「干時寛永六己已季卯月七日」とあり、1629年に鋳造された古鐘を
寛政元年(1789)に購入し、鐘楼が完成するまでは仮楼に吊るされていました。
宗旦稲荷社-1
鐘楼の右奥に宗旦稲荷社があります。
江戸時代の初め頃、相国寺境内に住み着いた狐が、千利休の孫である
千宗旦(せん の そうたん:1578~1658)に化け、相国寺の茶会で宗旦に代わって
お点前をやってのけたことから「宗旦狐」と呼ばれました。
また、ある時は僧堂で坐禅をしたり、托鉢にも行き、
時には寺の和尚と碁を打つなどしたと伝わります。
門前の豆腐屋が資金難から倒産寸前に陥った時、
宗旦狐は蓮の葉をたくさん集めて来て、
それを売って大豆を買うよう勧めました。
豆腐屋はそのお陰で店を建て直すことができ、狐の大好物である
鼠の天婦羅を作って宗旦狐にお礼をしました。
宗旦稲荷社-2
しかし宗旦狐は、それを食べると神通力が失われ、もとの狐の姿に戻り、
それを見た近所の犬たちが激しく吼え始めました。
狐は追われて藪の中に逃げ込み、誤って井戸に落ちたとも、猟師に撃たれて
命を落としてしまったとも伝えられています。
宗旦狐の死を悼み、雲水たちが祠を造って供養したのが宗旦稲荷社です。
法堂-南側
法堂(はっとう)-南側
参道に戻った左前方に法堂(はっとう)があります。
永徳2年(1382)には早くも法堂、仏殿の立柱が行われ、法堂は「法雷堂」と
称されていましたが、伽藍完成から2年後の応永元年(1394)に全焼し、
応永32年(1425)にも再度全焼しました。
法堂-西側
法堂(はっとう)-西側
応仁元年(1467)には相国寺が応仁・文明の乱(1467~1477)の
細川方の陣地となったあおり受けて焼失しました。
天文20年(1551)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失しました。
この時焼失した仏殿は、その後再建されず、
安置されていた仏像は法堂に遷されました。
天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる
西笑承兌(さいしょう/せいしょう じょうたい)が住職となって
復興が進められました。
法堂-北西側
その後も元和6年(1620)に火災があり、天明8年(1788)の
「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇が焼失しました。
現在の法堂は天文20年(1551)に焼失後、慶長10年(1605)に
徳川家康の命により豊臣秀頼が寄進して、再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
法堂前にあった仏殿が再建されていないこともあり、本尊の釈迦如来坐像が
安置され、法堂は本堂としての役割も持っています。
正面28.72m、側面22.80mの大きさがあり、法堂建築としては日本最古のものです。
法堂-鳴き龍
拝観受付を済ますと堂内の参拝ができます。
法堂の天井には直径約9mの円内に狩野光信によって蟠龍図が描かれています。
本尊の横付近の特定の場所で手を打つと反響することから
「鳴き龍」とも呼ばれています。

撮影は禁止されていますが、中央に本尊の釈迦如来、向かって左に
阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が安置されています。
本尊と両脇侍は運慶(生没年不詳)の作と伝わります。
西の壇には達磨、臨済、百丈、開山・夢窓国師、東の壇には、
大権修利菩薩、足利義満の像が安置されています。
庫裡
拝観受付で800円を納めて先に進むと、正面に庫裏があります。
文化4年(1807)の再建と伝わり、「香積院」と称され、
京都府の有形文化財に指定されています。
正面向かって左の大玄関は、二世・普明国師(春屋妙葩)の五百年遠忌を記念して
明治16年(1883)に設けられました。
以前は韋駄天を祀る室であったと考えられています。
方丈-勅使門
庫裡から更に西に進むと方丈の勅使門があります。
唐破風の一間一戸の四脚門で、京都府の有形文化財に指定されています。
方丈
庫裡の左側に方丈があり、天明の大火で焼失後、
文化4年(1807)に再建されたもので京都府の有形文化財に指定されています。
北と南にそれぞれ三室あり、原在中などにより襖絵が描かれています。
前庭には、太陽の反射を利用して室内を明るくするために、
白砂が敷き詰められています。
方丈-勅使門-内側
内側から見た方丈勅使門です。
背後に見えるのが法堂で、方丈から渡り廊下で結ばれています。
坪庭
坪庭は石が3個配置されたシンプルな作りとなっています。
裏方丈庭園-1
裏方丈庭園-2
裏方丈庭園-3
裏方丈庭園は、手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸には築山を設け、
深山幽谷の雰囲気を感じさせ、悟りの内容の豊かさを表現しているとされています。
裏方丈庭園は、京都市の名勝に指定されています。
方丈西側庭園
方丈西側庭園

開山堂は法堂の東側にあり、法堂から渡り廊下で結ばれています。
開山堂は応仁元年(1467)の応仁の乱の兵火で焼失し、寛文6年(1666)に
第108代・後水尾天皇により再建されました。
しかし、天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、現在の建物は江戸時代末期に
第116代・桃園天皇の皇后、恭礼門院(きょうらい もんいん:1743~1796)の
黒御殿が下賜され、文化4年(1807)に移築、増改築されました。
前方の礼堂と、その奥に続く中央の祠堂とから成り、
正面奥には夢窓国師像が安置されています。
西の壇には仏光国師像、仏国国師像、普明国師像、足利義満像が安置されています。
開山堂庭園-1
開山堂庭園-2
開山堂庭園-3
開山堂庭園は手前が白砂敷きの平枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山と
なっていて、その間を幅五尺(約151.5cm)ほどの小川が流れていましたが、
昭和十年(1935)頃に水源が途絶えてしまいました。
この流れは上賀茂から南流する御用水『賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~
開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流』を取り入れたもので、寺ではこれを
『龍淵水(りゅうえんすい)』と称し、開山堂をでてからの水路を
『碧玉構(へきぎょくこう)』と称していました。
浴室
開山堂を出て左側の参道を進んだ角に浴室があります。
相国寺の浴室は「宣明(せんみょう)」と呼ばれますが、「宣明」を称せられるのは、
皇室、及び将軍家に限られます。
宣明とは、宋の禅宗建築に示される浴室の別名です。
浴室は室町時代の応永7年(1400)頃に創建されました。
現在の建物は慶長元年(1596)に再建されたもので、
平成14年(2002)に復元修復され、京都府の文化財に指定されました。
浴室は春季に特別公開されます。
禁門変長州藩殉難者墓所-1
浴室の北側を西に進むと「禁門変長州藩殉難者墓所」の碑が建っています。
禁門変長州藩殉難者墓所-2
奥へ進むと墓所があり、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変
戦死した約200名の長州藩士の内、湯川庄蔵ら20数名がこの地に葬られました。
藤原定家らの墓
右側には藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓が並んでいます。
伊藤若冲の墓は石峰寺(せきほうじ)にもあり、藤原定家の墓は
厭離庵(えんりあん)にもあります。
厭離庵は、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山荘跡にある寺で、
定家塚や定家の嗣子である為家塚が残されています。

晩年の伊藤若冲は、石峰寺の門前に自宅を構え、若冲が下絵を描き、
当寺の住職と協力して寺の境内裏山に五百羅漢の石像群を造立しました。
また、観音堂の格天井には天井画を描きました。
寛政12年(1800)9月10日、85歳の生涯を閉じ、石峰寺に葬られました。

足利義政は、室町幕府第8代将軍で、幕府の財政難と土一揆に苦しんで政治を疎み、
幕政を正室の日野富子細川勝元山名宗全らの有力守護大名に委ねて、
自らは東山文化を築いた文化人でした。
義政には富子との間に男子がありましたが、長禄3年(1459)に早世(そうせい)し、
その後、嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋(ぎじん)を還俗させて
足利義視(あしかが よしみ)と名乗らせ、養子として次期将軍に決定しました。
しかし、寛正6年(1465)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生したため、
義政はどちらにも将軍職を譲りませんでした。
応仁元年(1467)正月、義政は御霊合戦で敗北した畠山政長の家督復帰を許し、
これに反発した畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)が政長と
合戦に及んで応仁・文明の乱(1467~1477)が起こりました。
義政は東軍の細川勝元に将軍旗を与え、義視が逃げ込んだ
西軍・山名宗全追討の命令を下しました。
文明5年(1473)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、
義政は12月19日に将軍職を子で9歳の義尚へ譲りました。
しかし、実権を握り続けたため、義尚・富子と対立するようになり、
それから逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。
天響楼
浴室から南へと戻った所に「天響楼(てんきょうろう)」があります。
平成22年(2011)に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼です。
この鐘は、中国の河南省、開封市にある大相国寺により二つ鋳造され、
その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、
「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。
友好記念碑
傍らには、インド産の黒御影石で造られた友好記念碑が建立されています。
平成6年(1994)に日中両相国寺が友好条約を締結した記念に
両相国寺の境内に建立されました。
八幡宮-1
天響楼の南側に鎮守社の八幡宮があります。
八幡宮-2
義満が石清水八幡宮から勧請し、創建当初は今出川通の北で祀られていました。
「御所八幡町」の地名が残され、御神体を奉迎した時は石清水八幡宮から
当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたと伝わります。
後水尾帝歯髪塚
八幡宮の南側に後水尾帝歯髪塚があります。
かってこの地には七重大塔がありました。
応永6年(1399)に足利義満によって建立された大塔は、
全高(尖塔高)109.1mを誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔でした。
しかし、応永10年(1403)に落雷により焼失し、承応2年(1653)に
後水尾上皇が大塔を再建されました。
その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、
天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚が建立されました。
経蔵
その南側に京都府の有形文化財に指定されている経蔵があります。
現在の建物は、天明の大火で焼失した宝塔の跡地に、万延元年(1860)に建立されました。
仏舎利が納められ、宝塔としての機能も兼ねていましたが、
その後、仏舎利は他の堂宇に遷されました。

塔頭の大光明寺へ向かいます。
続く
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山門
烏丸今出川から烏丸通を北へ進んだ二筋目の北西角に大聖寺があります。
山号を「岳松山」と号し、花の御所の跡地の一部にあって「御寺御所」とも称する、
天皇家ゆかりの尼門跡寺院で、臨済宗系の単立です。
神仏霊場・第98番札所ですが、普段は非公開で、御朱印の授与のみ可能です。

第3代将軍・足利義満の正室・日野業子(ひの なりこ)の叔母であり、
北朝初代・光厳天皇(1313~1364)の妃であった日野宣子(のぶこ:1326~1382)は、
貞治7年(1368)に光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、
春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を導師として落飾(出家)しました。
出家後「無相定円」と称し、義満に招かれ花の御所内の岡松殿に住しました。
永徳2年(1382)、無相定円が亡くなった後、西園寺実衡(さいおんじ さねひら)の
孫である玉厳悟心尼(ぎょくがんごしんに:生没年不詳)を開基として、
岡松殿を寺にしたのが大聖寺です。
寺号は無相定円の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み、
山号の岳松山は岡松殿に由来します。

室町時代、北朝最後の第6代・後小松天皇の内親王が入寺して以降、
皇女が入寺するようになりました。
寺はその後、永享2年(1430)に長谷(現・左京区岩倉長谷町)に移転し、
さらに文明11年(1479)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に
移転しましたが、延宝元年(1673)に焼失しました。
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/在位:1557~1586)の皇女が入寺した際、
天皇から尼寺第一位の綸旨を得、尼門跡寺院となっています。
江戸時代の元禄10年(1697)に現在地で大聖寺が再興されました。
現在地には聖護院がありましたが、延宝3年(1675)に焼失し、
翌年に現在地へ移転して跡地が残されていました。
その後、天巌永皎(てんがん えいこう:1733~1808)が住持職の時に
「御寺御所」の称号を授かり、天巌永皎は大聖寺中興の祖とされました。

山門は江戸時代後期(1751~1830)に建立されたものを、大正11年(1922)に
移築したもので、国の登録有形文化財に指定されています。
花山院慈薫の歌碑
門を入った左側に第27世・花山院慈薫(かさのいん じくん:1910~2006)の
歌碑が建立されています。
「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」
背後の高塀は国の登録有形文化財に指定されています。
表門から玄関への通路と境内前庭を区切り、玄関東南隅から南へ36m延び、
南面築地塀へと続いています。
玄関
宮御殿の東側にある玄関は大正12年(1923)に建立されたもので、
国の登録有形文化財に指定されています。
桁行15m、梁間5,3m、入母屋造桟瓦葺で、東面に唐破風造銅板葺の
大きな車寄せがあります。
南から応接室、玄関、内玄関、納戸を並べ、背面に廊下で本堂と繋がれています。
本堂は第123代・大正天皇の妃・貞明皇后の御殿であったものを、
昭和18年(1943)に東京の青山御所から移築されました。
本尊の釈迦如来像や地蔵菩薩、観音像が安置されています。
書院は「宮御殿」とも呼ばれ、第119代・光格天皇の皇女・普明浄院宮(1820~1830)が
入寺の際、宮中から移築されました。
普明浄院宮は幕末に門主を務めた24代の内親王の最後となりました。

本堂前庭の枯山水式庭園は、江戸時代中期の元禄10年(1697)に
第109代・明正天皇の「河原の御殿」から形見として樹木や石が
下賜されて作庭されました。
大聖寺庭園は京都市の名勝に指定されています。
冷泉家住宅
今出川通まで戻り、東へ進むと通りに面して同志社大学の一画に
冷泉家住宅が残されています。
大正6年(1917)に今出川通が拡張され、敷地は縮小されましたが、現在の建物は
寛政2年(1790)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

冷泉家(れいぜいけ)は、冷泉為相(れいぜい ためすけ:1263~1328)を祖とし、
平安京の冷泉小路が家名の由来となりました。
為相の祖父は藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか:1162~1241)で、定家は
父・俊成(としなり:1114~1204)と共に和歌の家としての地位を確立しました。
第3代当主・冷泉為尹(れいぜい ためまさ:1361~1417)子の代から
上冷泉家と下冷泉家に分かれ、戦国時代には上冷泉家は地方に下向していました。
豊臣秀吉が現在の京都御苑周辺に公家町を形成しましたが、その成立後に
上冷泉家が都へ戻ることを許されたため、公家町内に屋敷を構える事が出来ず、
現在地に徳川家康から敷地を贈られ、屋敷を構えました。
明治維新で多くの公家が東京へ移住し、京都御苑内にあった下冷泉家や
他の公家屋敷は取り壊されましたが、上冷泉家は京都で住み続けたため、残されました。
上冷泉家第24代当主・冷泉為任(れいぜい ためとう:1914~1986)により
昭和56年(1981)に冷泉家時雨亭文庫が設立され、冷泉家住宅や昔ながらの
年中行事などの保持が行われています。
通常は非公開ですが、「非公開文化財特別拝観」の一環として、
毎年秋に4日間に限って公開されています。

相国寺へ向かいます。
続く
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山門
寺之内通を百百ノ辻から西へ進むと、北側に宝鏡寺があります。
山号を西山(せいざん)と号する臨済宗系の単立の尼門跡寺院で、
神仏霊場の第97番札所です。
現在の山門は江戸時代末期の弘化4年(1847)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。

宝鏡寺は、景愛寺の第六世であった北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう/在位:
1331~1333)の皇女・華林宮恵厳(かりんのみやえごん:?-1386)禅尼が、
景愛寺の支院であった建福尼寺に、御所で安置されていた聖観世音菩薩像を遷し、
本尊としたのが始まりとされています。
北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごん てんのう/在位:1338~1374)から
「宝鏡寺」の寺号を賜り、開山としています。
この聖観世音菩薩像は、室町時代の応安年間(1368~1375)に伊勢の二見浦で漁網に
掛かり、引き揚げられたものでした。
丸鏡(宝鏡)を手に持つ珍しい姿をし、宝鏡が光り輝いたことに驚いた人々によって、
朝廷へと献上されたと伝わります。
また、「百々御所」とも呼ばれ、かって、この地に住んでいた豪族の百々(どど)氏に
由来しています。

景愛寺は建治3年(1277)に無学祖元(1226~1286)に師事した無外如大
(むがいにょだい:1223~1298)禅尼により上京区西五辻東町で創建された
臨済宗の寺院で、足利氏の庇護を受けて南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位に
おかれ、多くの末寺を擁して栄えました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で寺は焼失し、足利氏の衰退もあって
寺は廃絶し、法灯は宝鏡寺で受け継がれています。
人形塚
門を入った右側に昭和34年(1959)に建立された人形塚があり、
年に1回、秋に人形供養が行われています。
碑には大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家である
吉川観方氏によって描かれた御所人形が彫り込まれています。
台座には武者小路実篤の詩文が刻まれています。
「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ
 汝が成仏の誠なれ」
宝鏡寺では皇女が入寺されていたことから御所から度々人形が贈られました。
昭和32年(1957)の秋から、第121代・孝明天皇(在位:1831~1867)ご遺愛の
人形をはじめ、皇族ゆかりの由緒ある人形が数多く保存され、
一般公開されるようになり、「人形寺」と呼ばれています。
現在では春と秋に人形展がが催され、特に3月1日の春の人形展の
オープニングイベントでは、島原太夫と和楽器等の演奏が奉納されます。
本堂
本堂は天明8年(1788)の大火で焼失後、文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
勅使門
勅使門でしょうか?
大玄関
大玄関も文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
阿弥陀堂
阿弥陀堂でしょうか?
だとしたら文政13年(1830)の再建で、京都市の文化財に指定されています。
門前には駒札がありますが、境内には無く、判別が困難です。

横には「拝観謝絶」の立札と「小川御所之跡」と刻まれた石碑が建立されています。
一説では応永33年(1426)頃、宝鏡寺は天龍寺付近にあり、応仁2年(1468)に
応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火で焼失し、現在地へ移転しました。
現在地には足利将軍家の邸宅の1つ「小川殿」があり、その南側で再建されました。
元は管領・細川勝元が所有していた邸宅の1つでしたが、第8代将軍・足利義政(在職:
1449~1474)が利用し、将軍職を息子で9歳の義尚(よしひさ/在職:1474~1489)へ
譲った後の文明6年(1474)に居宅としました。
文明8年(1476)に室町御所が焼失し、義政の正室・日野富子、義尚及び
室町御所へ避難中であった第103代・後土御門天皇が小川殿へ移り住むようになり、
「小川御所」と呼ばれるようになりました。
将軍職を義尚へ移譲後も義政が実権を握り続けたため、義尚と富子と対立するようになり
義政は富子から逃れるように東山山荘へ移り住みました。

長享3年(1489)、第9代将軍・足利義尚が近江出兵の際、25歳で病死しました。
義尚には継嗣が無く、義尚の甥・足利義視(あしかが よしみ)の
子・義材(よしき)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になった
ともいわれる)、延徳2年(1490)に10代将軍に就任しました。
一方で、日野富子は堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた
義尚と義材の従兄・清晃(せいこう=後の11代将軍・足利義澄)に
小川御所を譲りました。
将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は、義材を軽視するものと
激怒して、小川御所を破却してしまいました。
その後、小川御所の跡地は宝鏡寺に併合されました。
宝鏡寺には現在も日野富子の木像が安置されています。
慈受院-寺号標
宝鏡寺を出て、寺之内通を西へ進み、その先の堀川通を少し進んだ東側に
慈受院があります。
慈受院(じじゅいん)は山号を「廣德山」と号する臨済宗系の単立の尼門跡寺院ですが、
通常は非公開です。
正長元年(1428)に室町幕府第四代将軍・義持の正室・日野栄子(1390~1431)が、
義持と子の第五代将軍・義量(よしかず/在職:1423~1425)の
菩提を弔うため、現在の京都御苑内で創建されました。
義量(1407~1425)は、応永30年(1423)に将軍職を譲られたのですが、
2年後の応永32年(1425)に19歳で病死しました。
また、義持も応永35年(1428)に43歳で死去し、栄子は出家して寺を建立し、
栄子の戒名から「慈受院」と称されました。
栄子の死後、慈受院は義持の娘・寿山瑞永(1410~1489)へ継がれ、
総持院と兼帯されました。
総持院も応永34年(1427)に日野栄子により創建され、明和元年(1764)に
第117代・後桜町天皇より「薄雲御所」の号を賜りました。
「薄雲」は『源氏物語』第19帖「薄雲」に由来し、巻名は光源氏が藤壺の死を悼んで
詠んだ和歌に因んでいます。
「入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる」
現在語訳:夕日がさしている峰にたなびく薄雲は、悲嘆にくれる私の喪服袖に
似せているのであろう
慈受院-山門
慈受院は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した後は移転を繰り返し、
宝永3年(1706)に曇華院(どんげいん)を再興した第111代・後西天皇の第9皇女・
聖安女王(1668~1712)が寺に入り、幕末まで曇華院の兼帯となりました。
明治6年(1873)に曇華院は総持院へ併合され、慈受院は廃寺となりました。
大正8年(1919)に現在地で総持院を併合して慈受院が再興され、釈迦如来を本尊として
他に阿弥陀如来像などが安置されています。
慈受院-井筒
井筒に「百々町」と刻まれているのは、併合前に現在地の東、「百百ノ辻」付近に
総持院があったことを示しています。
寺格から総持院とはならず、慈受院として再興されたと思われます。
慈受院-毘沙門堂
西側に毘沙門堂とその右側に稲荷社と思われる社殿があります。
慈受院-毘沙門天の碑
毘沙門堂の前に「日本三体随一 毘沙門天三」の碑が建っています。
第100代/北朝第6代・後小松天皇の念持仏でしたが足利氏に下賜されたものです。
慈受院-大日堂
毘沙門堂の左側には地蔵尊と大日如来が祀られています。

堀川通を横断して妙蓮寺へ向かいます。
続く
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南門
西園寺から南へ進み、その先の四つ角を西へ進んだ所に上御霊神社の南門があります。
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
上御霊神社は、正式には「御靈神社」で、神仏霊場の第100番札所です。
平安京に遷都された延暦13年(794)の5月に、早良親王(崇道天皇)の御霊を
この地に祀ったのが上御霊神社の始まりとされています。
また、この地にあった出雲氏の氏寺・上出雲寺(かみいずもでら)の鎮守社を
第50代・桓武天皇の御願により王城守護の鎮守社としたのが、
始まりとする説もあります。

桓武天皇が建設途中だった長岡京から遷都するには訳がありました。
延暦4年(785)、長岡京造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、
その事件に天皇の弟の早良(さわら)親王が関与したとされ、
乙訓寺に監禁されましたが、無実を訴えて絶食しました。
後に流罪処分となり、淡路国へ配流される途中に
河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。
その後、疫病が流行して母の高野新笠(にいがさ)と妃の藤原旅子
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が病死する一方で、洪水が発生するなど、
災難が相次ぎました。
桓武天皇はそれらは早良親王の祟りであるとして、幾度か鎮魂の儀式が執り行い、
更に平安京へと遷都し、崇道天皇の神霊を祀ったのが
上御霊神社の始りとされています。は延暦19年(800)に「崇道天皇」と追号され、
延暦24年(805)には親王の遺骸が淡路島から
奈良市八島町の崇道天皇陵へ移葬されました。
その後、第54代・任明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)、
第56代・清和天皇(在位:858~876)により不運の死を遂げた
5人の神霊が祭神として追祀されました。
貞観5年(863)には宮中・神泉苑において、以上の六座の神座を設け悪疫退散の
御霊会を勅修されました。
御霊会は民衆の参加が許され、歌舞音曲や踊りなどが行われ、
後に各地の寺社で同様の行事が開催されるようになりました。
京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、上御霊神社の祭礼がその発祥とされています。

その後、第54代・任明天皇により下御霊神社が創建され、下御霊神社を
「下出雲寺御霊堂」、上御霊神社は「上出雲寺御霊堂」と称されました。
御車舎
門を入ると左側(西側)に平成27年(2015)に修復された御車舎があります。
収蔵されている御所車(御牛車)は、慶長年間(1596~1645)に
第107代・後陽成天皇から寄進されたものです。
毎年5月1日の神幸祭(社頭之儀)、5月18日の還幸祭(渡御之儀)で、
御所車は三基の神輿を先導します。
御霊合戦旧跡
その右側には「応仁の乱発端 御霊合戦旧跡」の碑が建っています。
文字は細川勝元の末裔で細川護熙(ほそかわ もりひろ)元総理の
揮毫によるものです。

室町時代の文正2年1月18日(1467年2月22日)、家督相続により明け渡しを
求められた畠山政長は自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社に陣を敷きました。
当時、御霊の森は現在の2倍の面積があり、竹林に囲まれ、西には細川が流れ、
南には相国寺の堀がありました。
一方、千本地蔵院に陣取っていた畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、
大軍を率いて出兵して政長を攻撃(御霊合戦)、戦いは夕刻まで続き、
夜半に政長は社に火をかけ、自害を装って逃走しました。
畠山家の家督争いに端を発して、足利義視(あしかが よしみ)・
細川勝元の勢力(東軍)と、足利義尚山名宗全(西軍)の勢力の争いへと
発展しました。
この騒乱は文明9年(1477)までの約11年間に渡り全国的に拡大・継続し、
主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
絵馬舎
参道を進むと左側に絵馬舎があります。
江戸時代中期の宝暦年中(1751~1764)に内裏・賢所権殿が下賜され、改築されました。
皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山等著名絵師の作品が掲げられています。
拝殿
正面には拝殿があります。
御霊神は至徳元年/元中元年(1384)に正一位の神階を授けられました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後は足利氏によって再建され、
天正年間(1573~1592)の社殿修造に際しては内侍所仮殿が下賜されました。
本殿
現在の本殿は昭和45年970)に再建されましたが、享保18年(1733)に寄進された
内裏・賢所御殿の遺構を復原したものです。
本殿-2
祭神は当初の早良親王(崇道天皇)に、伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文室宮田麻呂)・観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)が
併祭され、「六所御霊」と呼ばれました。
後に伊予親王・観察使に代わって井上大皇后(井上内親王)・他戸親王が祀られ、
新たに火雷神と吉備聖霊(吉備大臣)が併祭され、
「八所御霊」と呼ばれるようになりました。
現在の祭神
●崇道天皇:上述

●藤原吉子(ふじわら の よしこ:?~807):第50代・桓武天皇の夫人で
伊予親王(783?~807)を生みました。
伊予親王は、大同2年(807)に異母兄の第51代・平城天皇(へいぜいてんのう/
在位:806~809)に対する謀反の疑いをかけられ、母の藤原吉子と共に
川原寺の一室に幽閉され、飲食を止められました。
同年、伊予親王と藤原吉子は服毒自殺しましたが、後に親王は無実とされました。
弘仁14年(823)、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされ、
「藤原大夫人」と尊称されました。

橘逸勢(たちばな の はやなり:782?~842):書に秀で空海・嵯峨天皇と共に
「三筆」と称され、延暦23年(804)には最澄・空海らと共に
遣唐使として唐へ渡りました。
大同元年(806)に帰国後は、琴と書の第一人者となり、承和7年(840)に但馬権守に
任ぜらましたが、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていました。
しかし、承和9年(842)、嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し謀反を
企てているとの疑いで、伴健岑(とも の こわみね)とともに捕縛されました。
逸勢は流罪となり、伊豆への護送途中で病死しましたが、
死後に無実であったことが判明し、無罪となりました。

文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ:生没年不詳):承和10年(843)には
散位従五位上の官位でしたが、従者から謀反を図っているとの告発があり、
伊豆へ流罪となり、配所で没したとされています。
死後に無罪であったことが判明しました。

井上大皇后(いのえのおおひきさき:717~775)と
他戸親王(おさべしんのう:761~775):井上大皇后は第45代・聖武天皇の
第1皇女で、後に第49代・光仁天皇の皇后となりました。
天平宝字5年(761)、45歳で他戸親王を出産したとの記述がありますが、
当時としては極めてまれな高齢出産となるため、異説もあります。
光仁天皇が宝亀元年(770)に即位すると、宝亀2年(771)に他戸親王は
皇太子となりましたが、宝亀3年(772)に皇后が天皇を呪詛(じゅそ=呪う)したとして
皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。
更には宝亀4年(773)に薨去した光仁天皇の同母姉・難波内親王も皇后と皇太子の
呪詛による殺害とされ、二人は庶人に落とされて幽閉されました。
宝亀6年(775)4月27日、幽閉先で二人は同日に没し、その後は天変地異が相次ぎました。

●火雷神:延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こったことから、道真を火雷神とする説も
ありますが、上御霊神社では火雷神は六所御霊の荒魂とされています。

●吉備聖霊:上御霊神社では吉備真備(きび の まきび:695~775)とされています。
吉備真備は、養老元年(717)に阿倍仲麻呂玄昉(げんぼう)らと共に
遣唐留学生として唐へ渡りました。
18年間唐で学び、天平7年(735)に帰国後は第45代・聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、
橘諸兄(たちばな の もろえ:684~757)政権の担い手として出世しました。
しかし、天平12年(740)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと、
乱を起こしました。(藤原広嗣の乱
この乱は失敗に終わりましたが、第46代・孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に
藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝3年(751)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752)に再度入唐し、
翌年の天平勝宝5年(753)に、鑑真と共に帰国しました。
帰国後も真備は中央政界での活躍は許されませんでしたが、天平宝字8年(764)に
造東大寺長官に任ぜられ帰京しました。
更に同年9月に孝謙太上天皇と太上天皇が寵愛する僧・道鏡と藤原仲麻呂が対立し、
軍事力で政権を奪取しようと兵を集めました。(藤原仲麻呂の乱
しかし、密告され、藤原仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出しました。
吉備真備は仲麻呂の誅伐を命じられ、これを果たしました。
第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/在位:733~765)は、廃位されて
淡路国への流罪となり、代わって孝謙太上天皇が第48代・称徳天皇(在位:764~770)
として重祚(ちょうそ)しました。
吉備真備は優れた軍略により乱鎮圧の功を挙げたことにより、
従二位・右大臣へと昇進しました。

真備は、共に唐へ渡った阿倍仲麻呂が、船の難破により唐へ戻され、
日本へ帰れなかったことから、真備が唐から持ち帰った陰陽道の聖典
金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』を仲麻呂の子孫に伝えたとされています。
阿倍仲麻呂一族の子孫とされる安倍晴明は、『金烏玉兎集』を
陰陽道の秘伝書として用いたと伝わります。
また、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとして、
真備は日本の陰陽道の祖とされています。
清明心の像
本殿の右側に「清明心の像」が建立されています。
中国・宋代の学者・司馬 光(しば こう)が幼少の頃、数人の子供達と満水の
大甕の周辺で遊んでいたところ、一人が甕に登り、
誤って水中に落ちてしまいました。
司馬 光は傍らにあった大石で甕を割って子供を助けたという故事を
像にしたもので、国際児童年(1979)にあたり、生命の尊重と子供達の健やかな
成長を祈って建立されました。
稲荷社-1
境内の南東側に福寿稲荷神社があります。
稲荷社-2
稲荷神が祀られています。
神輿庫
その北側に神輿庫があり、三基の神輿が収納されています
文禄4年(1595)に第107代・後陽成天皇及び元和5年(1619)に第108代・後水尾天皇から
寄進され、もう一基は明治10年(1877)に元貴船社から奉納されました。
天皇から寄進された神輿は、後陽成天皇前の第106代・正親町天皇と後水尾天皇前の
第107代・後陽成天皇が使用されていた鳳輦(ほうれん)を神輿に造り替えたもので、
元貴船社から奉納された神輿は江戸時代の中期に造られました。
神明神社-1
本殿の裏に当たる所に神明神社があります。
神明神社-2
天照大御神が祀られています。
厳島神社
境内の北東側に厳島神社があり、宗像三女神が祀られています。
石灯籠
その東側に建つ石灯籠。
長宮三十社
厳島神社の西側に長宮三十社があります。
春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、
厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、
吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、
大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、上賀茂神社、下鴨神社の
相殿となります。
末社の相殿
その西側に末社の相殿があります。
花御所八幡宮
西側には花御所八幡宮があります。
花の御所は、室町幕府・三代将軍・足利義満が造営したとされ、
その敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、
北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町の場所で、
「室町第」とも呼ばれていました。
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を
配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれました。
その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請されたのが花御所八幡宮で、
応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火で文明8年(1476)に焼失したため、
当地へ遷座されたと思われます。
新村出歌碑
拝殿からの参道の北側に広辞苑編者で有名な新村出(しんむら いずる:
1876~1967)の歌碑があります。
「上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振(ちはやぶる)神のみめぐみ深くして
 八十(やそ)ぢに満つる 幸を得にけり」
新村出は上御霊神社氏子・小山中溝町に住み、八十歳の誕生日に上御霊神社へ
参拝して献詠しました。
芭蕉句碑
参道を西へ進むと松尾芭蕉の句碑があります。
「半日は神を友にや年忘」
元禄3年(1690)に松尾芭蕉は向井去来(むかい きょらい)や門人と参詣し、
「年忘歌仙」を奉納しました。
西門
更に参道を西へ進むと西門があります。
寛政年間(1789~1801)に再建された楼門です。
随身-阿形
門には随身の装束をした2神像が安置されています。
阿形像
随身-吽形
吽形像
鳥居
鳥居
花御所八幡宮の碑
鳥居脇の左側に「花御所八幡宮」の碑が建っています。
応仁の乱勃発地
右側には「応仁の乱勃発地」の碑が建っています。
緒方光琳宅跡
鳥居前を北へ進んだ左側(西側)に「緒方光琳宅跡」の碑が建っています。
緒方光琳(1658~1716)は江戸時代の画家、工芸家で、京都の呉服商「雁金屋」の
次男として生まれました。
少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しみ、
呉服商に生まれたことから、当時の先端のデザインなどにも触れ、
明快で装飾的な作品を残しました。
その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、
工芸、意匠などに大きな影響を与えました。
雁金屋は徳川家など当代一流の人物を顧客としていましたが、延宝6年(1678)に
第108代・後水尾天皇の皇后である東福門院(徳川和子=とくがわ まさこ)が
崩御されてからは経営が悪化しました。
光琳が30歳の貞享4年(1687)の時に父・宗謙が他界し、相続した莫大な財産は
遊興三昧の日々を送って湯水のように使い果たしました。
この頃に「光琳」と改名し、画業に傾注して収入源としたとされています。

北へ進んだ先の鞍馬口通を西へ進み、緒方光琳の墓がある妙顕寺(みょうけんじ)へ
向かいます。
続く
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