社家町
一の鳥居を出て東へ進むと、明神川沿いに上賀茂神社の神官が住した
社家が並び、「社家町」と称され、京都市の「上賀茂伝統的建造物群保存地区」、
及び国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
室町時代に形成され、往時は200軒を数えたと伝わります。
現在では30数軒が残されていますが、上賀茂神社の神官は住んではいないようです。
藤木社
明神川が南へ流路を変える所に末社の藤木社(ふじのきのやしろ)があり、
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が祀られています。
瀬織津姫神は、人の穢れを早川の瀬で浄める神であり、
川神や滝神として治水の神でもあります。
藤木社は明神川の守護神として崇められています。
背後のクスノキは樹齢500年と推定され、京都市の保存樹に指定されています。
信号
更に東へ進むと「大田神社前」の信号があります。
社号標
信号を左折して直進した正面に大田神社があります。
福徳神社
その手前の左側に末社の福徳神社があり、福徳神が祀られています。
天慶8年(945)に、摂津国河辺郡(現尼崎~伊丹・川西市域付近)の民衆が
「志多羅神」と称される正体不明の神を石清水八幡宮に祀りました。
「シダラ」とは手拍子の意味で、志多羅神から「石清水八幡宮に祀れ」との
託宣を受け、民衆が志多羅神を祀る御輿をかつぎ出し、
歌い舞いながら西国街道を石清水八幡宮へ向かったとされています。
その神輿は6基を数え、民衆は1万人に及んだと伝わります。
京都でもその信仰が広まり、応徳2年(1085)には福徳神として流行し、
京の辻ごとに小祠が建てられました。
魯山人の碑
福徳神社があるこの辺りは「北大路町」で、神社の裏側に「北大路魯山人生誕地」
の碑が建っています。
魯山人は明治16年(1833)3月23日に上賀茂神社の社家・
北大路清操(きよあや/せいそう)の次男として生まれ、房次郎と名付けられました。
明治維新により、社家としての生活基盤は失われ、清操は房次郎が生まれる
4ヶ月前に自殺しました。
その後、母も失踪し、服部家の養子となり、明治22年(1889)には
福田家の養子となりました。
10歳で尋常小学校を卒業して、その春には住み込みで
丁稚奉公するようになりました。
その時出会ったのが竹内栖鳳により描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字で、
明治29年(1896)に奉公を辞め、養父の木版の手伝い始めました。
15歳の時には当時流行した「一字書き」書道コンクールで次々と受賞し、
その賞金で絵筆を買い、我流で絵を描き始めました。
20歳の時、母が東京で生存していることが判明し、東京へ行きましたが
母には会えなかったものの、東京へ転居しました。
明治37年(1904)の21歳の時に、日本美術展覧会に隷書「千文字」を出品し、
一等賞を受賞しました。
その後、書や篆刻(てんこく)、刻字看板を制作し、
併せて古美術と料理にも興味を持つようになりました。
大正5年(1916)に房次郎の兄が他界し、北大路姓を継ぎ
北大路魯卿(ろけい)と名乗り、そして北大路魯山人の号を使い始めました。
食器と美食に対する見識を深め、大正10年(1921)に会員制食堂「美食倶楽部」を
共同経営するようになり、自ら厨房に立ち料理を振舞いました。
大正14年(1925)、42歳の時に東京で会員制高級料亭「星岡茶寮」の顧問となり、
昭和2年(1927)には鎌倉で星岡窯(せいこうよう)を設立して
本格的な作陶活動を開始して星岡茶寮に納入しました。
しかし、魯山人の横暴さや出費の多さが問題となり、
昭和11年(1936)に魯山人は解雇されました。
昭和21年(1946)に銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を
開店し、在日欧米人からも好評を博しました。
昭和29年(1954)にはロックフェラー財団の招聘で欧米各地で
展覧会と講演会が開催されました。
昭和30年(1955)に織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されましたが
辞退し、昭和34年(1959)に76歳で横浜で亡くなりました。
墓地は西賀茂の小谷墓地にあります。
大田の沢
大田神社の方へ戻ります。
鳥居の手前、東側の沢池は「大田の沢」と呼ばれ、野生のカキツバタが群生し、
国の天然記念物に指定されています。
その歴史は古く、平安時代には藤原俊成からは
「神山や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」
と詠まれ、既に名勝となっていたように考えられています。
大田の沢は約2,000㎡で、約25,000株のカキツバタが自生し、
5月上旬から中旬が見頃となります。
蛇の枕
鳥居前に架かる石橋の右側下にある水面から上部をのぞかせた石は、
「蛇の枕」とも「雨石」とも呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝わります。
蛇は雨を降らせる生き物とされ、枕石を叩くと蛇が怒って雨を降らせるとの
伝承が残されています。
かっては農機具で叩いて雨乞いの神事が行われていたようですが、
現在では廃されています。
また、雨乞いの時、大田の池(大田の沢の別名)の水を入れ替えれば雨が降り、 
神供寺の池(かつて上賀茂神社の神宮寺にあった池)の水を入れ替えれば
雨が止むと伝えられていました。
参道
参道を進みます。
社務所
右側に社務所があります。
百大夫社
その先の左側に、手前の百大夫社と奥に鎮守社があります。
百大夫社には、海の民が航海の安全を願う神とされる
船玉神(ふなたまのかみ)が祀られています。

鎮守社には大国主神と少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られています。
大国主神は素戔嗚命の御子神であり、少彦名神と協力して国造りを完成させました。
白髭神社
右側には白髭神社があり、猿田彦命が祀られています。
大田神社-拝殿
参道正面の石段を登った所に拝殿があり、割り拝殿となっています。
毎月10日に奉納される里神楽の舞台にもなります。
里神楽は「大田神社巫女神楽」として京都市登録無形民俗文化財に指定され、
その音色により「チャンポン神楽」とも称されています。
大田神社が寿命長久の社であることから、高齢者によって囃し舞われ、
動きが少ないことが特徴とされる日本最古の形を残した神楽です。
大田神社-本殿
本殿及び拝殿は寛永5年(1628)に造り替えられました。
大田神社は現在では上賀茂神社の境外摂社ですが、創祀されたのは上賀茂神社よりも
古く、賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から
先住民によって祀られた考えられています。
五穀豊穣や長寿福徳が祈願され、
「恩多社(おんたしゃ)」とも呼ばれていたと伝わります。
その後、賀茂族の影響が及ぶようになり、賀茂社に含まれるようになりました。

現在の祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)で、
天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時に、
踊りを舞った神とされています。
日本最古の踊り子として「芸能の女神」と信仰を集めています。
天鈿女命はその後、邇邇芸命に随伴して天降りましたが、その際に猿田彦命が
先導し、一行は無事に日向の高千穂峰へ天降ることが出来ました。
邇邇芸命の命を受け、天鈿女命は猿田彦命を故郷の伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届け、猿田彦命に仕えて
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
大田の小径
神社の左側に「大田の小径」への案内板が立っています。
幼かった北大路魯山人が、この小径を散策し、咲き競うツツジを見て
「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したと伝えられています。

深泥池(みどろがいけ)へ向かいます。
続く

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