社号標-1
鹿王院から三条通りまで戻り、三条通りを東へ進んだ北側に車折神社があります。
車折神社の旧社格は村社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。
また、神仏霊場の第91番札所となっています
社号標は富岡鉄斎の筆によるもので、鉄斎は明治21年(1888)に宮司に就き、
復興に尽力しました。
社号標-2
参道を進むと、更に円柱の社号標が建ち、「桔梗紋」と「丸に一つ引き」が
合わさった社紋が付けられています。
水神社
社号標の先、左側に水神社があり、罔象女神(みつはのめのかみ)が
祀られています。
昔は大堰川(おおいがわ=桂川)が神社近くまで流れていたため、
氾濫を鎮めるために龍神に祈願していたことに由来しています。
愛宕神社
水神社の右側に愛宕神社があります。
表参道
表参道を進みます。
清少納言神社
左側に清少納言社があり、祭神と同族とされる清少納言が祀られています。
清少納言の父は三十六歌仙の一人・清原元輔(きよはら の もとすけ)で、
車折神社では祭神の清原頼業(きよはら の よりなり)と同族とされていますが、
ウィキペディアでは別氏族と解説されています。
祖霊社
清少納言社の裏側(西側)に祖霊社があります。
葵忠社
祖霊社の葵忠社(きちゅうしゃ)があり、福田理兵衛(ふくだ りへい:1814~1872)
が祀られています。
福田家は嵯峨で材木商を営み、天龍寺の御用達だった関係で
長州藩から依頼され、天龍寺が長州藩の宿舎となりました。
元治元年(1864)の禁門の変の際、理兵衛親子は長州藩と共に戦い、
敗れて長州へと逃れました。
幕府軍であった薩摩藩兵により福田家は没収され、屋敷には火が放たれました。
この時失った財産は、概算で一万五千両とされています。
明治維新後に一家揃って京都への転居が許可されましたが、
理兵衛は叶わず明治5年(1872)に亡くなりました。
明治31年(1898)に親族が福田家の旧宅地を譲り受け、敷地内に祠殿を造営して
理兵衛を祀り、命日の4月13日には祭が行われました。
昭和10年(1935)に旧宅地に隣接する車折神社の境内に祠殿が遷され、
理兵衛を偲ぶため『嵯峨の遺光』が発行されました。
題字「一片葵忠」が清浦奎吾(きようら けいご)伯爵から贈られたことから
「葵忠社」と称されるようになりました。
芸能神社
清少納言社の向かい側(東側)に芸能神社があり、
天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られています。
昭和32年(1957)に末社・地主社から分祀、創建されました。
昭和61年(1986)まで付近に大映京都撮影所、現在でも松竹撮影所や
東映太秦映画村があり、多くの芸能人が訪れることから創建されたと思われます。
玉垣
芸能や芸術、技芸の上達を祈願し、朱塗りの玉垣が多数奉納されています。
その中には著名人の名も見られます。
嵯峨面
拝殿には嵯峨面が祀られています。
江戸時代の末期に厄除けや魔除けのお守りとして嵯峨の社寺で
授与されていましたが、いつしか姿をを消し、近年復活されています。
芸能道具家社
芸能神社の右前に芸能道具家社があり、茶筅や毛筆などが奉納され、
芸能上達などの祈願が行われています。
本殿前の鳥居
参道の正面に鳥居が建っていますが、直進はできません。
三船祭
右に曲がると三船祭で使われる「龍頭(りゅうとう)」と
「鷁首(げきす)」が展示されています。
三船祭は昭和3年(1928)の昭和御大典を祈念して始められ、
毎年5月の第三日曜日に大堰川で催されています。
当日は、平安時代に貴族が管弦の遊びなどをするのに用いた
龍頭鷁首の船が再現されます。
「鷁」とは鵜に似た想像上の鳥の名です。
手水舎
参道は北へ曲がって進み、参道を進むと右側に手水舎があります。
車前石-1
手水舎の手前に「車前石(くるまざきいし)」が祀られています。
車前石-2
鎌倉時代に第88代・後嵯峨天皇阿が嵐山への行幸の際、牛車の轅
(ながえ=牛車なのどの前方に長く突き出ている2本の棒)が折れ、動かなくなりました。
天皇は神威を畏れ、門前右側の石を「車折石」と呼んで、
「正一位車折大明神」の神号を贈られたと伝わります。
火焚串
拝殿前に火焚串(護摩木)が置かれています。
参拝者が願い事を記して奉納された火焚串は、8月18日~11月23日まで
受付が行われ、11月23日の午後1時から営まれる火焚祭で、
願い事の成就を祈念して「かまど祓」の神事が執り行われます。
背後にある建物は春光舎で、建物では各種儀式が執り行われます。
この建物は、昭和天皇の即位を祝う御大典で使用されたものが、
御所から移築されました。
拝殿
拝殿は昭和63年(1988)に建立されました。
石
拝殿前には願いが叶い、海や川などで拾い、お礼の言葉が記された
多数のが奉納されています。
拝殿-天井画
拝殿には、京都出身の日本画家・山口玲煕
(やまぐち れいき:1894~1979)による天井画が描かれています。
本殿
本殿は宝暦2年(1752)に造営され、平成26年(2014)に全面改修工事が行われました。
かって、この地は明経道を家学とした清原家の領地でした。
清原家を中興した清原頼業(きよはら よりなり)が文治5年(1189)に亡くなり、
この地に葬られ、廟が建てられました。
その後、頼業の法名「宝寿院殿」に因み寺号を「宝寿院」と号する寺が建立されました。

第88代・後嵯峨天皇(在位:1242~1246)が大堰川への行幸の際、
社前で牛車の轅(ながえ)が折れたことにより、天皇から「車折大明神」の神号を賜り、
「車折神社」と称されるようになりました。
また、廟の周囲には多くの桜が植えられたことから「桜の宮」とも呼ばれました。
祭神は清原頼業(1122~1189)で、朝廷組織の最高機関である外記(げき)の職に
就きましたが、早くから藤原頼長や九条兼実などにその実務と学識を認められ、
平安時代末期の動乱期の朝廷に政策を上奏しました。
家学である明経道の復興に尽力し、清原家中興の祖とされています。
学業の神として信仰されるとともに、頼業が約束を違えなかったことに因み、
債権の回収が滞りなく進み、経営の安定化に御加護があるとされています。
更に恋愛や結婚など、様々な約束事が履行される御利益があるとされています。
八百万神社
本殿の裏側に八百万神社(やおよろずじんじゃ)があり、八百万の神々が祀られ、
人脈拡大の御利益があるとされています。
清めの社
参道に戻り、北へ進むと清めの社があります。
社務所
社務所
車折神社では、手水舎で身を清めた後、まず、清めの社に参拝して
悪い運気や因縁を浄化して心身を清めます。
次に社務所受付で「祈念神石」を授かり、本殿で「祈念神石」を両手で挟んで
願い事を心の中で念じるとされています。
天満天神社
清めの社の向かい側奥に天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)があり、
天満大神が祀られています。
「天満」は菅原道真の死後、道真の怨霊が雷神となり、天に満ちたことに由来し、
仏教の大自在天と習合して、道真の神号は
「天満(そらみつ)大自在天神」と称されました。
神明神社
天満天神社の手前に神明神社があり、伊勢両宮が祀られています。
滄海神社-1
参道へ戻り北に進むと滄海神社(そうかいじんじゃ=弁天神社)があり、
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
滄海神社-供え水-バケツ
参拝するには参道の本殿横辺りにある、緑色の手桶で水を汲み、
弁天社にお供えするようです。
滄海神社-供え水入れ
「滄海」とは大海原の意味があり、水の神・海の神と象徴されています。
天龍寺の末寺の守護神として室町時代の文明5年(1473)に創建されましたが、
末寺は廃寺となり、守護神が現在地に遷座されました。
明治の神仏分離令により祭神が現在の市杵嶋姫命に改められました。
地主神社-1
滄海神社の先で参道は斜めに左へと曲がっていますが、その角に地主神社があり、
第52代・嵯峨天皇が祀られています。
地主神社-2
かって、この付近に天皇が行幸された際に休まれた寺がありました。
その縁により、寺は天皇を祀るようになりましたが、廃寺となり、
当社境内に遷されました。
その後、昭和36年(1961)に地主神社として復興されました。
嵐電-車折神社駅
更に北へ進むと鳥居の先に京福電鉄・嵐山本線の「車折神社」駅があります。
明治43年(1910)に開業した嵐山電車軌道に社地を無償提供して駅が誘致され、
当初は「車折神社裏」駅と称されていました。
嵐電
嵐山電車軌道は大正7年(1918)に京都電燈に吸収合併され、大正11年(1922)に
「車折神社裏」駅から「車折」駅に改称されました。
昭和17年(1942)に現在の京福電気鉄道に譲渡され、平成19年(2007)に
「車折」駅から「車折神社」駅に改称されました。
裏参道-鳥居
「車折神社」駅からの参道は「裏参道」と呼ばれています。
駐車場へ戻ります。
駐車場からの鳥居
芸能神社の南側に駐車場からの鳥居が建ち、その脇に「舞」の石碑が建っています。
舞の碑
「関西舞踊界の発展に関わる各流の活躍を祝う」と記されています。
富岡鉄斎筆塚
駐車場と表参道との間にも参道があり、参道の東側に富岡鉄斎の筆塚があり、
鉄斎が使用した筆20本が納められています。
富岡鉄斎は天保7年(1836)に、三条新町東で法衣商・十一屋伝兵衛を営む
富岡維叙(これのぶ)の次男として誕生しました。
耳が少し不自由でしたが、幼少の頃から勉学に励み、富岡家の家学である
石門心学や、国学、勤王思想などを学びました。
更に、漢学、陽明学、詩文などを学ぶと、安政2年(1855)には女流歌人・
大田垣蓮月尼に預けられ、人格形成に大きな影響を受けました。
翌年に南画や大和絵を学び、文久2年(1862)には画業で生計を立て始めました。
明治維新後の30歳から10年余り、石上神宮(いそのかみじんぐう)や
大鳥大社などの神官を務めました。
明治8年(1875)には山梨県甲府市から長野県飯田市へと旅し、
富士山へも登頂しました。
明治14年(1881)に兄・伝兵衛が亡くなり、京都へ転居して
明治21年(1888)に車折神社の神官を務めました。
明治26年(1893)から明治37年(1904)まで京都市美術学校の教員となりましたが、
明治42年(1909)に病を患い、大正13年(1924)に亡くなりました。
享年89。
小唄・堀派の祖霊舎-1
筆塚の南側に小唄・堀派の祖霊社があります。
堀派は大正2年(1913)に堀小多満(ほり こたま:1876~1941)により、
東京都で創立された、日本初の小唄流派です。
小唄・堀派の祖霊舎-2
大正12年(1923)の関東大震災後は大阪に移り、道頓堀に稽古場を設けました。
その後、中国地方、九州地方、北陸、四国その他各地にも進出しましたが、
昭和16年(1941)に死去されました。
その後は家元を置かず、堀派会として組織を改め継承されています。
大国主神社
参道の西側に大国主神社があり、大国主命が祀られています。
昭和32年(1957)に勧請されました。
辰巳稲荷神社
大国主神社の北側に辰巳稲荷神社があり、宇迦之御魂神
( うかのみたまのかみ )が祀られています。
社名は本社から辰巳(南東)の方角に位置することに由来しています。

広隆寺へ向かいます。
続く

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