深泥池
大田神社から東へ進んだ所に深泥池(みどろがいけ)があります。
太古、京都盆地は巨大な湖でした。
徐々に水が引き、三方を山で囲まれたこの地で、唯一水が流れ出る所に
約1万年に賀茂川からの堆積物により塞がれて池になったと考えられています。
従って池に流入する河川は無く、昭和2年(1927)に松ケ崎浄水場が建設されてからは
その配水池より若干の漏水が流入しています。
南側にできた自然堤防は、飛鳥時代(592~710)半ばに人の手が加えられ、
自然堤防に人工堤防が増築されました。

深泥池が形成されたのは最終氷期(7万年前~1万年前)の末期と考えられ、
その時代からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しています。
窒素やリンなどの無機塩類がほとんど含まれない貧栄養性の湿原のため、
有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、
コケ類を始め多様な植物が生育する絶好の場となっています。
「深泥池生物群集」として国の天然記念物に指定されています。
深泥池-浮島
周囲1.5km、面積9haの池の中央部分には池全体の1/3を占める浮島がありますが、
冬になると沈んで冠水します。
やや高い部分は冠水しないので、アカマツ・ネジキ等の樹木が成育しています。

歴史的には菅原道真の編纂により、寛平4年(892)に完成した
類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)』に第53代・淳和天皇が
天長6年(829)の冬10月10日に「泥濘池」なる所に行幸して
鳥網(とりあみ、とあみ)を使って水鳥の猟を行ったという記述があり、
これが文献での初見とされています。
泥濘(ぬかるみ)とあるように、現在でも水深は深い所でも2m余りで、
池底には土砂や枯死した植物が厚く堆積しています。

平安時代中期の歌人・和泉式部は
「名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥の あるぞあやしき」
と詠み、公卿・藤原実資(ふじわら の さねすけ:957~1046)は、
日記『小右記』に「美度呂池」と記しています。
室町時代になると、「美曽路池(みぞろいけ)」や「美曽呂池」と
表記されるようになり、江戸時代には
「御菩薩池(みぞろいけ)」と記されています。
「美曽呂池」や「御泥池」の表記も見られますが、江戸時代には「御菩薩池」が
一般的な名称であったと考えられ、明治の神仏分離令で、
当地で祀られていた地蔵菩薩が上善寺へ遷されたことにより
「深泥池」と記されるようになりました。
「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の
二通りが存在し、統一はされていません。
市道
池の西側の市道「岩倉上賀茂線」を進みます。
かっては、この車道も池の一部であったと思われます。
この付近で、雨が降る深夜にタクシーが、雨に濡れた女性客を乗せたところ、
その女性客が姿を消し、後部座席のシートが濡れていたという
怪事件が発生したと伝わります。
深泥池は「底なし沼」などと噂され、心霊スポットともなっているようです。
大日如来堂
市道を北上した先で左折すると旧鞍馬街道に突き当たり、
その角に大日如来を祀る祠がありますが、詳細は不明です。
深泥池貴船神社-入口
その対面、旧鞍馬街道に面した西側に深泥池貴船神社があります。
江戸時代の寛文年間(1660~1670)に、当地の農民が貴船神社から分霊を勧請し、
祀られるようになりました。
当地から貴船神社までは徒歩で2時間弱の距離ですが、貴船川及び鞍馬川の洪水や
冬季の積雪などから本宮への参拝が困難となるため、勧請されたと思われます。
池大雅の碑
一の鳥居の脇に、江戸時代の文人画家 (南画家)で書家の池大雅(いけの たいが)
「生誕地 ゆかり之地」の碑が建っています。
池大雅は 享保8年5月4日(1723年6月6日)に深泥池の農家に生まれましたが、
父は京都銀座役人の手代を務めていました。
4歳の時に父を亡くし、7歳で本格的に唐様の書を学び始め、
それを萬福寺で披露したところ、その出来栄えに僧たちから
「神童」と絶賛されました。
15歳で扇屋を開き、扇子に絵を描いて生計を立てる一方、
柳沢淇園(やなぎさわ きえん:1703~1758)から文人画を学び、
独自の画風を確立しました。
深泥池に因み、「池大雅」と名乗ったと伝わります。
深泥池貴船神社-二の鳥居
石段を登った途中の北側に二の鳥居が建ち、その先は割り拝殿となっています。
深泥池貴船神社-本殿-1
本殿
祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、水や雨を司る神ですが、
当地では農耕をはじめ、住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されています。
深泥池貴船神社-弁財天社
本殿の背後に弁財天社があります。
深泥池貴船神社-石仏-1
山側には二躯の石像が祀られています。
深泥池貴船神社-石仏-2
どちらも役行者と思われますが、詳細は不明です。
秋葉神社
二の鳥居前まで戻り、山側への石段を登った所に秋葉神社が再建されています。
かつて、深泥池は七つ森七軒村といわれ、その一番森を「消し山」と称し、
火伏の神である秋葉神社が1200年前から祀られていました。
また、この地は上賀茂神社の社領であったため、神仏混交の社であった
秋葉神社は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、社家により破却されました。
その祟りか、翌年の春に大火が起こり、村民らは家財農具の一切を焼失しました。
失意した人々が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも
漬け物桶だけが焼け残っていました。
疲労と空腹に耐えていた人々が漬け物桶をあけると、中の漬物は火が通り、
良い匂いがしたので、村の長が漬物の茎を一本試食しました。
「酸い茎や」と言ったのが、すぐき発祥の歴史とされています。
秋葉神社は「すぐきの神」として平成4年(1992)に再建されました。
地蔵堂
街道を少し南へ進むと地蔵堂があります。
安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には深泥池が記され、
「御菩薩池(みそろかいけ)」と記されています。
池の畔に地蔵堂も描かれ、「六地蔵廻りの其一なり」と記されています。
往古、深泥池の水面に地蔵菩薩が顕れたと伝わり、江戸時代には既にこの地で
地蔵菩薩が祀られ、六地蔵巡りの霊地として栄えていたようです。

六地蔵巡りは、小野篁(おののたかむら:802~853)が嘉祥2年(849)、48歳の時に
重病に陥り、危篤状態となって冥土の世界を彷徨うようになりました。
その時、地蔵菩薩が顕れ、人間界に戻って人々を救済するよう託され、
現世に蘇ったと伝わります。
仁寿2年(852)に篁は、木幡山から桜の大樹を切り出し、六躯の地蔵菩薩像を刻んで
大善寺に安置しました。
保元2年(1156)に都で疫病が発生したため、後白河上皇の勅命により
平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口、六ヶ所に六角堂を建て一躯づつ、
地蔵菩薩像を安置しました。
最初に刻まれた一躯は、伏見街道から奈良街道の入口に当たる大善寺に残され、
都への疫病の侵入を防ぎ、街道を行き交う人々の安全が祈願されました。
その後、今から約800年前に、8月22日23日の両日にこれらの六地蔵を巡り、
1年の家内安全や無病息災、疫病退散が祈願されるようになりました。

当地は鞍馬口のの地蔵堂として、六地蔵巡りの霊地となっていましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、上賀茂神社は地蔵菩薩像を
上京区の上善寺へ遷しました。
「御菩薩池」という地名は実を失い、換わって「深泥池」という地名が
用いられるようになったとされています。
その後、当地で疫病が流行り、現在の2代目の地蔵菩薩像が安置されました。
地蔵堂-石仏
境内には石仏が祀られ「和尚」と記されていますが、詳細は不明です。
また、地蔵堂は深泥池貴船神社の境内地なのか、地蔵堂の背後の建物は
深泥池貴船神社の社務所です。
馬頭観音峠
再び街道を北上すると馬頭観音峠があります。
移動や荷運びの手段として馬が使われるようになりましたが、
そのような馬を供養するため街道や峠などで馬頭観音が祀られるようになりました。
この峠にも馬頭観音が祀られていましたが、近年、持ち去られたそうです。

圓通寺へ向かいます。
続く

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