今津港を13:00過ぎに出発し、長命寺の麓に14:40頃に到着しました。
60km足らずの距離なのに、湖西道路が使えない悲しさで、途中休憩の時間を省き、
全体的な遅れを約1時間に短縮しました。
麓には長命寺港があります。
現在は長命寺山の東側は大中之湖干拓地が広がっていますが、
干拓以前の長命寺は島の中にあったそうです。
かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島・宝厳寺から船で長命寺に参詣したそうです。
また、安土の城下に物資が運ばれた水上交通の要衝でもありました。
港から道路を渡った所に日吉神社があります。
創建の詳細は不明ですが、滋賀県神社庁の記録によると、「平安時代の承和3年(836)、
長命寺の僧・頼智が長命寺再興の際、
山王十禅寺を祀ったと長命寺文書にあるのを創立とする。
その後文政3年(1820)本殿改築の事、棟礼に記される、
明治九年村社に列せられた。」と記されています。
延暦7年(788)、延暦寺を開いた最澄は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と
大物主神を地主神として延暦寺の守護神としました。
大山咋神は、もともと近江国日枝山(ひえのやま=比叡山)の神で、
大物主神は第38代・天智天皇が天智天皇7年(668)に大津京の鎮護のため
大和国三輪山から勧請しました。
延暦寺ではこの二神を「山王」と称し、天長2年(825)に天台宗の
第2代座主・円澄(えんちょう)が、延暦寺の西塔を開くと、東塔に対応する形で
地主神を祀るようになりました。
このようにして増えていった地主神の一尊が十禅寺(十禅師)だと思われます。
長命寺は頼智によって再興されてから、延暦寺西塔院領となりました。
現在の祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で別名を
山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)とも称し、
背後の長命寺山(333m)の地主神として祀られています。
日吉神社の右側に穀屋寺があり、推古天皇時代(592-628)に聖徳太子によって創建され、
本尊として聖徳太子が祀られています。
長命寺が推古天皇27年(619)に同じく聖徳太子によって創建されていますので、
同時期かそれ以降と思われます。
平成21年(2009)、穀屋寺から熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじつかいまんだら)2点と
長命寺参詣曼荼羅3点が見つかりました。
十界曼荼羅は縦約141cm、横約110~113cm、同じ絵柄で、上部に誕生から死までの
人間の姿が描かれ、中下部に地獄や餓鬼、菩薩や仏など
仏教の世界観を表す「十界」を表現しています。
中央上部には十界のうち「仏界」の阿弥陀、薬師、釈迦の三仏が描かれています。
戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは、
全国で確認された十界曼荼羅約60点の中で最古級とされています。
長命寺参詣曼荼羅は縦約154~約161cm、横約159~約180cmで、
長命寺の境内を上から眺めた視点で描かれています。
3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定されています。
長命寺は永正13年(1516)の兵火で焼失し、寺の再興のため、16世紀半ば頃から尼僧が
全国を歩きながら十界曼荼羅を用いて布教し、浄財を集め、穀屋寺は、
長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧の拠点となりました。
穀屋寺から奥へ進むと石段があり、標高約250mにある本堂まで808段の石段の参道が続き、
約20分の時間を要します。
平成29年(2017)10月8日参拝時にはこの石段を上りましたが、
今回は時間短縮のため冠木門下の駐車場までバイクで登ることにしました。
駐車場には休憩所があり、その前に重要文化財に指定され、平成25年(2013)に
屋根の葺替工事が行われた三重塔の説明書きがありました。
工事は既に完了し、修理現場の見学も終了しています。
駐車場から参道に入ると、すぐ前に冠木門が見えます。
門をくぐった右側に手水舎があります。
奥には石仏が祀られています。
書院は工事をされていたので、平成29年(2017)10月8日参拝時の画像を使用します。
本堂前まで登り右側へ進むと、本堂の裏側に当たる所に閼伽井堂があります。
天智天皇6年(667)に近江大津宮へ遷都した天智天皇は、
大津宮の鎮護と天下泰平を祈願するため長命寺に参拝しました。
その折、この古井戸で念仏を唱えたところ、水泡が浮かび出たことから
「念仏井戸」と呼ばれるようになりました。
閼伽井は今も清水を湛えています。
堂内上部には仏像が安置されています。
閼伽井堂の右側にある石段を上った所に、天正17年(1589)に着手し8年かけて
慶長2年(1597)に再建された三重塔が建っています。
永正13年(1516)の兵火で焼失する以前には、
鎌倉時代の元応2年(1320)に建立された塔がありました。
現在の塔は、高さ24.35mで、県内に現存する三重塔七基の内、
二番目の高さを誇り、国の重要文化財に指定されています。
昭和40年(1965)には解体修理が行われています。
初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と
四天王像(鎌倉時代)が安置され、共に近江八幡市の文化財に指定されています。
大日如来像は像底の銘から天正17年(1589)、七条仏師の作と判明しました。
三重塔の左前奥に慶長11年(1606)に再建された護摩堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
再建後間もなく、屋根の葺き替えで二重軒付に変更されましたが
、昭和49年(1974)の半解体修理で、一重軒付に復元されました。
桁行3間、梁間3間(4.863m)の宝形造り、檜皮葺、丹塗りの建物で、
堂内には本尊として不動明王像が安置されています。
三重塔の前から見る本堂。
現在の本堂は、寺の文書から室町時代の大永4年(1524)に再建されたと判明し、
国の重要文化財に指定されています。
長命寺は山号を姨綺耶山(いきやさん)と称する天台宗系単立の寺院です。
西国三十三観音霊場所・第31番、神仏霊場巡拝の道・第143番、聖徳太子霊跡・35番、
近江西国三十三所・第21番、近江七福神(毘沙門天)などの各札所になっています。
伝承によると、第12代景行天皇の時代(71~130)に、武内宿禰(たけしうちのすくね)が
この地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願し、
そのご利益があったのか300歳(360歳とも)の長寿を得られたと伝わります。
宿禰が祈願したとされる岩が本堂の裏にある
六処権現影向石(ろくしょごんげんようごうせき)で祈願石とも呼ばれています。
また、境内には修多羅(すだら)岩があり、武内宿禰の御神体とされています。
修多羅とは仏教用語で天地開闢(かいびゃく)、天下泰平、子孫繁栄を意味します。
推古天皇27年(619)、この地を訪れた聖徳太子が宿禰が祈願した際に彫った文字を
発見し、感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、
その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げました。
太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置し、宿禰の長寿にあやかり、
当寺を長命寺と名付けたと伝わります。
中世の長命寺は延暦寺・西塔の別院としての地位を保ち、近江守護・佐々木氏の
崇敬と庇護を受けて栄えていました。
しかし、永正13年(1516)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼しました。
書写山圓教寺の参道に祀られている千手観音像
本尊は、千手十一面聖観世音菩薩三尊一躯、つまり、千手観音、十一面観音、
聖観音(しょうかんのん)の3躯が長命寺の本尊とされています。
中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置され、
いずれも秘仏で、国の重要文化財に指定されています。
千手観音像は像高91.8cm、平安時代末期頃の作と推定されています。
十一面観音像は像高53.8cm、平安時代初期~中期の作と推定されています。
聖観音像は像高67.4cm、鎌倉時代の作と推定されています。
堂内、後の間には地蔵菩薩立像と薬師如来立像が安置されています。
本堂から三仏堂は渡廊下で結ばれています。
三仏堂は平安時代末期の元暦元年(1184)に佐々木秀義の菩提を弔うため、
その子・定綱によって建立されました。
永正13年(1516)に焼失後、室町時代の永禄8年(1565)に再建されたと推定され、
江戸時代の寛政5年(1793)に改造されています。
堂内には釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)が安置され、
県下でも数少ない持仏堂形式の貴重な遺構として、滋賀県の文化財に指定されています。
また、西国観音霊場の各本尊像が安置されています。
三仏堂の左横に主痘神が祀られていますが、疱瘡神(ほうそうがみ/疱瘡=天然痘)が
祀られているのでしょうか?
渡廊下は、更に護法権現社拝殿へと結ばれています。
護法権現社拝殿及び渡廊下も残されていた墨書きから三仏堂と同じ、
永禄8年(1565)の再建と見られ、県の文化財に指定されています。
護法権現社本殿は、聖徳太子が長命寺を創建した際に、武内宿禰の霊を勧請し、
仏法を守護する護法神として祀ったのが始まりとされています。
現在の社殿は江戸時代後期の再建と推定されています。
右横には天神詞(てんじんのやしろ)がありますが、詳細は不明です。
本堂前の南側は琵琶湖の展望が開けていますが、その一角に
意味が理解できないものが祀られています。
広場から西へ進むと経蔵と思われる土蔵がありますが、修理工事が行われていました。
更に西へ進むと鳥居が建ち、横に石段がありますが、その奥にも石段が見え、
鳥居をくぐって奥へ進みます。
石段の脇に太郎坊大権現の石標が建っています。
拝殿
太郎坊大権現社は長命寺の総鎮守社となっています。
社殿前の大きな岩は「飛来石」と呼ばれ、普門坊が愛宕山の岩を投げたとされています。
長命寺で修行した普門坊は、後に京都・愛宕山の愛宕権現を祀る白雲寺に住しました。
長命寺を懐かしみ愛宕山の岩を投げたのがこの岩と伝わります。
長命寺の寺伝では、第105代・後奈良天皇の時代(在位:1526年6月9日~1557年9月27日)に
長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じ、
「太郎坊」と称したと伝わります。
「太郎」という名前には、最も優れたものや最も秀でたものとの意味が込められているそうです。
社殿前からは近江富士と呼ばれる三上山を正面に望むことができます。
太郎坊大権現社の東側にある石段を上って進みます。
山側にに陀枳尼(だきに)天尊が祀られたお堂があります。
かっての、稲荷大明神が祀られた社殿がお堂の中に納められ、仏教の天尊に改められました。
陀枳尼堂の先の石段を下った所に如法行堂があり、堂内には「勝運・将軍地蔵尊」、
「智恵文殊菩薩」、「福徳・庚申(こうじん)尊」が安置されています。
如法行堂に隣接して建つ鐘楼は、上棟式の際に用いられた木槌の墨書きから
慶長13年(1608)に再建されたことが判明し、国の重要文化財に指定されています。
袴腰の柱の配置が下層は二間x二間(各面3.33m)ですが、上層は南北面、
東面は二間ですが西面のみ、撞木を吊る関係で三間(各面3.03m)にしたと考えられています。
梵鐘は鎌倉時代のものと見られ、県の文化財に指定されています。
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)へ向かいます。
続く
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