地福寺前の七本松通を北上した西側の一番町に立本寺があります。
現在の山門は明和8年(1771)に建立された大型の高麗門で、
市の文化財に指定されています。
立本寺は山号を具足山と号する日蓮宗京都八本山の一本山です。
日蓮聖人の孫弟子である日像上人は、日蓮聖人の遺命を受け
京都での布教活動を行いました。
暦応4年(1341)に初の道場として四条櫛笥(くしげ=下京区四条大宮付近)に
妙顕寺を創建しました。
日像上人により創建された妙顕寺・妙覚寺・立本寺は「三具足山」と称されました。
しかし、宗派間の対立で延暦寺の僧兵により
嘉慶元年(1387)に妙顕寺は破却されました。
明徳4年(1393)に日実上人によりその地で再建され、「本寺を立てる」という
意味を込め「立本寺」に改められました。
一方で月明は五条大宮に妙顕寺を再興しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で立本寺は、他の日蓮宗の寺院とともに焼失して
堺へ避難し、天文11年(1542)の第105代・後奈良天皇による「法華宗帰洛の綸旨」
が下され、京都に戻ることが許されました。
天文13年(1544)に新町三条で再建されましたが、文禄3年(1594)に
豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)に移転しました。
広大な寺域を得ましたが、宝永5年(1708)の宝永の大火で焼失し、
その直後に現在地で再建されました。
山門をくぐると鐘楼がありますが、梵鐘は吊るされていません。
おそらく戦時供出され、その後再鋳されなかったのでは?と思われます。
鐘楼は寛永年間(1661~1673)に建立され、宝永の大火でも焼失を免れて
現在地に移築されたもので、市の文化財に指定されています。
妙見堂には妙見菩薩が祀られています。
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
1月、5月、9月の鬼子母神祭の際に妙見堂も開帳されます。
刹堂(鬼子母神堂)は享保4年(1719)に再建されましたが、天明3年(1778)に焼失し、
文化8年(1811)に再建され、市の文化財に指定されています。
堂内に安置されている「子安鬼子母神像」は平安時代の作ですが秘仏とされています。
鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、
これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
その後、釈迦に諭され仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
立本寺では毎月8日に鬼子母神祭が行われ、子安鬼子母神像が開帳されます。
祖師堂は元禄年間(1688~1703)に建立され、宝永の大火でも焼失を免れて
現在地に移築されたもので、市の文化財に指定されています。
堂内に安置されていた日蓮上人坐像は、「冑(かぶと)の御影」と呼ばれ、
戦国時代の武将・松永久秀の家臣・佐々木広次が信仰したとされています。
佐々木広次は出陣の際、「生還すれば一寺を建立する」と祈願し、
像に冑を被せて地中に埋めたと伝わります。
広次は無事に凱旋し、祖師堂を建立しましたが、
現在は「宿坊 四神閣」として運営され、冑の御影は本堂で安置されています。
本堂は寛保3年(1743)に再建されたもので、市の文化財に指定されています。
画像はありませんが、扁額「立本寺」は寛永の三筆の一人と称される
本阿弥光悦の筆によるものです。
本尊は「十界曼荼羅」で、日像上人が鎌倉由比ヶ浜で修行中に
感得したものとされています。
中央の須弥壇には釈迦如来像、多宝如来像、両脇に普賢菩薩像、弥勒菩薩像、
その周囲に四天王像が安置されています。
黒門を入ると客殿、その奥に方丈がありますが、通常は非公開です。
客殿は享保13年(1728)の建立とされていますが、第108代・後水尾天皇から
御所にあった桂宮の書院を下賜されたとの説もあります。
大玄関
庫裏
立本寺前の七本松通を北上し、一条通を左折した先にある大将軍八神社へ向かいます。
続く
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