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法華山一乗寺
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鶴林寺から北上して法華山一乗寺へ向かうと「直 法華山道」と刻字された石標が立っていました。
しばらく進むと道路脇に門のような建物があり、傍らには地蔵菩薩でしょうか?
石像も祀られています。
「西国26番 法華山」とまで読み取れる石標も立っていますが、
寺からは約550mも離れています。
かっては、ここに法華山一乗寺への山道を登る参道があったと思われます。
寺の入口の前を通り過ぎて東側にある駐車場に入りました。
バイクも有料で「環境整備協力費」との名目で130円を納めました。
駐車場の奥に粟嶋堂があります。
粟嶋堂は、元は法華山一乗寺の塔頭・隣聖院の境内にあったのですが、
県道の工事により昭和30年に現在地に移転・新築されました。
堂内には歓喜天、十一面観世音菩薩、不動明王、粟嶋天尊、毘沙門天、吉祥天、
弁財天の七躯の仏像が安置されています。
粟嶋堂の両側と右側後方とに3つの建物があり、其々に水子供養の
地蔵尊が多数奉納されています。
粟嶋堂の左後方には、約150年前から受け継がれる秘仏・甲子天尊を祀る祠があります。
左側には薬師如来や阿弥陀如来の石仏が祀られ、人形塚などがあります。
西へ進むと境内への入口があり、正面に正和5年(1316)の年号が刻まれ、
兵庫県の文化財に指定されている石造笠塔婆が立っています。
総高は2.9mあり、塔婆の位置が本堂から一町の距離にあることが示されています。
受付で入山料500円を納めて境内に入ると、正面に石段が待ち構えています。
石段を上った所に常行堂(阿弥陀堂)があります。
聖武天皇の勅願により創建されたと伝わりますが、
室町時代の嘉吉元年(1441)に発生した嘉吉の乱で焼失しました。
播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(あかまつ みつすけ)は、
室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺したのですが、
幕府方討伐軍に領国の播磨で敗れて討たれました。
常行堂は天文2年(1533)に再建されましたが、その後再び焼失しました。
現在の建物は明治元年(1868年)に着工され、同10年に上棟しました。
平成4年(1992)に屋根の葺き替え工事と内外陣が荘厳され、
不断念仏・止観道場として使用されています。
常行堂から石段を上ると、左側に承安元年(1171)に建立された三重塔があり、
国宝に指定されています。
初層から三層に向かって小さくなるように造られていて、
三層の幅は初層の半分にまで減少しているそうです。
塔の総高は約21.8mですが、相輪の高さが約7mあり、総高の3分の1を占めています。
昭和16年~18年(1941~1943)に行われた解体修理の際、
この相輪の根元に据えられている伏鉢(ふくはち)から承安元年(1171年)の銘が発見され、
建てられた年代が判明しました。
本尊として五智如来像が安置されています。
三重塔の向かいには法輪堂と呼ばれる経堂があります。
堂内には輪蔵が設けられていて、誰でもこれを回せばこの輪蔵に納められた経典を
読誦したのと同じ効果があるとされています。
宝暦12年(1762)に建立され、転輪蔵を創始した傅大士(ふだいし)と
その二子像が安置されています。
平成10年(1998)に屋根の葺き替え工事が行われました。
壁の白さから塗り替えも行われたように思えます。
法輪堂前の石段の先にようやく本堂が見えてきます。
三重塔はこの石段の途中から撮影しました。
石段を上った正面に本堂があり、本堂を廻り込むように右側へ進むと鐘楼があります。
江戸時代の寛永5年(1628)に本多忠政により再建されたもので、
兵庫県の文化財に指定されています。
本堂には「大悲閣」と記された扁額が掲げられています。
平安時代の永延2年(988)、花山法皇が御幸された際に金堂を大悲閣と命名され、
西国第26番札所と定められました。
法華山一乗寺は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である
法道仙人によって開基されたと伝わります。
紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に
八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、
そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したとされています。
しかし、創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されています。
笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の
三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と考えられています。
現在は古法華自然公園として整備されています。
仙人が孝徳天皇の病気を直したことから、天皇の勅によって本堂が建立されました。
白雉元年(650)に行幸があり、落慶法要を修せられ、
一乗寺の勅額を賜って鎮護国家の道場となりました。
平安時代末期の承安元年(1171)には、現存する三重塔が建立されていますので、
その年までには現在地において伽藍が整備されていたと考えられています。
正確な移転時期や何故移転したかは不明です。
本堂は北側から上がり、東側の回廊を廻って南側から入ります。
東側の回廊からは鐘楼と同時期に鋳造されたと考えられている梵鐘が見えます。
梵鐘には「諸行無常 是正滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」との鐘銘があるそうですが、
「是正滅法」のみ読み取ることができます。
初代の本堂は、飛鳥時代の白雉元年(650)に孝徳天皇の勅願によって創建されました。
二代目は、鎌倉時代から室町時代へ移行する建武の新政の建武2年(1335)、
後醍醐天皇の勅願によって再建され、大講堂と呼ばれました。
三代目は、戦国時代の大永3年(1523)、兵火による焼失後、
永禄5年(1562)に赤松義裕により再建されました。
四代目の現在の本堂は寛永年(1628)に姫路藩主・本多忠政により再建されました。
本堂は平成10年(1998)の台風で大きな被害を受け、
平成11年~20年に災害復旧工事に続いて本堂の半解体修理が行われました。
本堂の内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊・聖観音立像(重要文化財)、
左右の間には不動明王と毘沙門天像が安置されていますが、いずれも秘仏です。
厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像が安置されています。
法華山一乗寺は、西国第26番札所の他に播磨西国三十三箇所33番、
神仏霊場巡拝の道 第77番の札所になっています。
本堂には不気味な面が掲げられています。
本堂前を西に進んだ正面に行者堂があります。
平安時代に仁明天皇(にんみょうてんのう)の御願により創建されました。
現在の建物は江戸時代の寛文年間(1661~1673)に再建され、
平成11年(1999)に解体修理が行われました。
堂内には役行者と前鬼後鬼の木像が安置されています。
行者堂前の山側には手前に妙見堂、奥に弁天堂があります。
共に室町時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
妙見堂は三社殿のように見えます。
本堂の北側にある山の中腹に護法堂があります。
鎌倉時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
仏法守護の毘沙門天が祀られています。
護法堂から下り、その山裾を北へ約200m登った所に開山堂があります。
開山堂には法道仙人が祀られ、現在の建物は江戸時代の寛文7年(1667)に建立され、
平成10年(1998)に解体修理が行われました。
開山堂はフェンスで囲まれ、平成29年(2017)に訪れた時は施錠されていました、
本日は開錠されていましたので更に上へと登ります。
「賽の河原」と呼ばれ、大きな岩の陰に小石が積まれています。
下りは本堂横では無く、東側の斜面を下って行くと、
参道脇に三十三所の各本尊が祀られています。
更に下ると放生池があり、池の中に弁財天社があります。
池の南側に鳥居が建っています。
鳥居をくぐり、参道を進みます。
進んだ先に見子大神を祀る社殿がありますが、詳細は不明です。
池の先には太子堂がありますが、建物は新しく造り替えられていました。
一乗寺の駐車場を出て東へ進んだ車道脇に東門があります。
伽耶院へ向かいます。
続く