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山陰中納言御廟
磯良神社の南東方向に総持寺霊園があり、霊園内に総持寺開基・
山陰中納言御廟があります。
藤原山蔭(ふじわら の やまかげ:824~888)は、藤原鎌足(614~669)の6代目の孫に
当り、第56代・清和天皇(在位:858~876)から第57代・陽成天皇(在位:876~884)、
第58代・光孝天皇(在位:884~887)と3代の天皇に仕え、
仁和2年(886)に従三位・中納言に叙せられました。
山蔭が総持寺を創建した縁起は、寺が所蔵する縁起絵巻のほか、『今昔物語集』や
『源平盛衰記』等にも紹介されています。

山蔭の父・藤原高房(795~852)は、大宰府へ赴任するため、淀川を船で下っていた際、
漁師達が一匹の大亀を捕えていました。
高房は「今日は18日で観音様の縁日です」と言って、亀を買い取り、
川へ逃がしました。
その夜、継母の企みにより山蔭が川へ落とされましたが、高房が観音に祈ると
高房が助けた亀が山蔭を甲羅に乗せて現れました。

高房は感謝して観音像の造立を発願し、中国での香木購入を遣唐使へ依頼しました。
しかし、当時の唐は香木の国外搬出が禁止され、
遣唐使は「日本の藤原越前守高房に寄せる」と香木に刻んで海に流しました。

年は流れ、高房が亡くなった後、藤原山蔭が中納言となり、父のあとを継ぎ
大宰帥(だざいのそつ)に任じられ任地に赴きました。
或る日、浜辺で、中国より流れ着いた木を発見し、その木が父・高房が依頼した
香木であることを知り、驚きと歓喜に包まれ、高房の遺志を継ぐことを決心しました。
数年が経ち、任期を終えて香木を携えて京の都に帰ることになり、
山蔭の一行が茨木の辺り来た時、香木に根が生えたように動かなくなりました。
山蔭は途方にくれましたが、ここは有縁の地であると気付き
『ここに、伽藍を建立する』と決意すると香木は軽くなりました。
都に帰った山蔭は、仏師を探すために奈良の長谷寺に籠もり祈願すると、
ある夜、夢枕に『明日の朝、下山のとき最初に出会う者が名工である』との
お告げがありました。
翌朝下山すると、一人の童子にめぐり合い、山蔭はその童子を屋敷に連れ帰り
観音菩薩を彫るように依頼しました。
すると童子は『仏を彫るのに千日かかる。その間、誰もこの仏舎に立入らないこと、
そして、山蔭自身で私の食事を作ること』を申し出ました。
山蔭はこの申し出に従い、毎日違った料理を作り童子に差し出しました。
造仏を始めてより千日目の早朝、『長谷の観音様はどちらに』と声が聞こえると、
仏舎より『行基菩薩よ、今帰るところよ』との答えがあり童子は空に飛び立ちました。
山蔭が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事が供えられた千手観音菩薩立像が
亀の座に立った姿で祀られていました。
この仏像を本尊として総持寺は建立されたと絵巻は伝えています。
姫塚
総持寺霊園からJR東海道線を挟んだ東側に姫塚があります。
「女郎山」と称される丘の上に五輪塔が見えます。
「藤原山蔭の室・息女等の塚なり」との記録が残されています。
薬王寺
姫塚から南へ進むと薬王寺があります。
薬王寺-薬師堂
総持寺との関係は不明ですが、門の右側に薬師堂があります。
本尊は安阿弥(=仏師・快慶/生没年不詳)作で
像高は二尺五寸(約75.75cm)との記録があります。
東門
薬王寺から西へ進むと総持寺の東門がありますが、南へ進み、
仁王門の方から境内へ入ります。
仁王門
総持寺は山号を「補陀洛山」と号する高野山真言宗の寺院で、西国三十三所観音霊場
第22番、神仏霊場・第63番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場・第6番、
摂津国八十八所巡礼・第47番、摂津三十三ヶ所観音霊場・第27番などの札所です。

総持寺では仁王門ではなく「山門」と呼ばれています。
現在の山門は元禄年間(1688~1704)に建立され、
茨木市の有形文化財に指定されています。
三間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門で、北摂地方では箕面の勝尾寺
池田市の久安寺と総持寺の三箇寺にのみ楼門形式の門が残され、

総持寺には二つの定紋が掲げられています。
一つは開基・藤原山蔭家の家紋「桔梗」で、
もう一つは仙台藩・伊達家の家紋「竹に雀」です。
伊達家初代の伊達朝宗(だて ともむね:1129~1199)は、
藤原山蔭の子孫と伝わります。
江戸時代、仙台藩・伊達家は始祖・藤原山蔭の菩提寺である総持寺に帰依し、
仙台藩第3代藩主で、伊達家第19代当主の伊達綱宗(だて つなむね:1640~1711)
は、開山堂に祀られる藤原山蔭像を寄進されました。
その後も藤原山蔭廟所や堂宇の修繕などに寄進され、
伊達家から家紋を寺の定紋として賜りました。
仁王門-阿形像
金剛力士像の阿形像は像高227.5cm、吽形像と共にヒノキ材とみられる寄木造で、
目には玉眼を用い、表面には彩色が施されていた痕跡が残されています。
仁王門-吽形像
吽形像の像高は226.7cm、両像の頭部の大きめのプロポーションや、
肩を怒らせ四角張った上半身、分厚い下半身の表現は、
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作例の特色です。
Sakura's Cafe
門を入った右側に寺カフェのSakura's Cafeがあります。
令和元年(2019)12月にオープンし、「ポタラ」と称されています。
本堂
正面に本堂があります。
山蔭の三回忌である寛平2年(890)に七男七女が協力し、五重塔、多宝塔、金堂、講堂、
食堂、鐘楼、僧坊、宝蔵、浴室、四面回廊、大門、脇門等、
総持寺の伽藍が完成しました。
第66代・一条天皇(在位:986~1011)、第68代・後一条天皇(在位:1016~1036)、
第72代・白河天皇(在位:1073~1087)、第74代・鳥羽天皇(在位:1107~1123)の
勅願寺として栄えましたが次第に衰え、
元亀2年(1571)の白井河原の合戦で、織田信長(1534~1582)の焼き討ちにあいました。
この時、本尊の観音像は下半身が焼け、炭化しながらも焼け残ったことから
「火伏観音」・「厄除観音」として信仰を集めました。
その後、天正6年(1578)、同10年(1582)の火災や、文禄3年(1594)の地震で被害を受け、
古くから伝わっていた記録類はほとんど失われました。

現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼(1593~1615)にが再建され、
茨木市の有形文化財に指定されています。
本尊の木造千手観音立像は像高75.4 cmですが秘仏とされ、
善女竜王像と雨宝童子像を脇侍としています。
天燈鬼-吽形
本堂前の左右には一対の天燈鬼(てんとうき)像が祀られています。
興福寺では、阿形の天燈鬼と吽形で燈籠を頭に載せた龍燈鬼(りゅうとうき)が
対をなしていますが、こちらでは吽形も天燈鬼です。
天燈鬼-阿形
普段は四天王に踏みつけられている邪鬼ですが、
仏教の世界を照らす役目が与えられ、総持寺では献灯が募られています。
水天社
本堂の右前に水天社があります。
金堂
本堂の左側に慶安2年(1649)に四天王寺の大工により建立された
金堂(薬師堂)があり、茨木市の文化財に指定されています。
内陣須弥壇の宮殿型厨子内に鎌倉~南北朝時代の作とされる像高55.5cmの
薬師如来像が安置されています。
脇侍には、江戸時代の作とされる日光・月光の菩薩像が安置され、厨子の左右には、
江戸時代作の十二神将が薬師三尊を守護しています。
瓦窯跡
水天社の右側に室町時代のものとみられる瓦窯跡(がようあと)があり、
茨木市の文化財に指定されています。
平成5年~6年(1993~4)にかけて行われた納経所の建築に伴う事前調査で
瓦窯跡や室町時代の鋳造遺構などが発見され、
実際に発見された場所より西北西に約15m移されて保存・展示されています。
大師堂
瓦窯跡の右側に大師堂があります。
大師堂は御影堂とも呼ばれ、真言宗の宗祖・弘法大師が祀られています。
寛政10年(1798)頃に描かれた『摂津名所図会』には、
境内の西側に記されていましたが、
明治7年(1874)の境内絵図には描かれていませんでした。
現在の大師堂は、昭和47年(1972)に再建され、
堂内中央に正保4年(1647)に寄進された弘法大師御影像が安置されています。
正面右側に弥勒菩薩坐像、左側に愛染明王坐像・不動明王立像が安置されています。
鐘楼
参道を横断して西側へ進むと鐘楼があります。
江戸時代中期に建立されたとみられ、茨木市の文化財に指定されています。
現在の梵鐘は、高野山開創1200年を記念して新造されました。
かっての梵鐘は永享6年(1434)の銘があり、片桐且元(かたぎり かつもと:
1556~1615)陣中の鐘と伝わり、現在は納経所に保管されています。
庭園
西側には庭園が造営されています。
かって、庭園の西側にはかって、不動堂がありました。
不動堂は天保14年(1843)に建立された経堂を、大正時代以降に不動堂へ
改修されましたが、平成30年(2018)6月の大阪北部地震で被災し、
倒壊の恐れがあるため解体されました。
本尊の不動明王像、脇侍として矜羯羅童子(こんがらどうじ)像と
制多迦童子(せいたかどうじ)像の不動三尊像は大師堂へ遷されました。
地蔵菩薩
放生池の中に閻魔堂があり、その南側に地蔵菩薩が祀られています。
亀
放生池には、総持寺の創建縁起に因んでか多数の亀が生息しています。
閻魔堂
閻魔堂の右背後には大亀のような石組みが見られます。
開山堂
南側には開山堂(包丁式殿)があります。
平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で被災し、平成18年(2006)に再建されました。
開山堂-懸崖造り
懸崖造りで、堂内には正保2年(1645)に仙台藩第3代藩主・
伊達綱宗(だて つなむね:1640~1711)から寄進された
藤原山蔭像が安置されています
藤原山蔭(四条中納言)は総持寺本尊造立の際、仏師に千日間、毎日違う料理を供し、
「中納言の千日料理」と呼ばれました。
また、第58代・光孝天皇の勅命を受け、庖丁式(料理作法)の新式を定めたことが
山陰流(四条流)包丁式の起源とされ、山蔭は包丁道の祖とされています。
総持寺では毎年4月18日に、開山堂で包丁式が行われています。
五社稲荷大明神
放生池の西側の丘には五社稲荷大明神が祀られています。
荒神社
境内の南西側に荒神社があります。
荒神社は、昭和60年(1985)に解体修理が行われ、その際に発見された墨書きから
寛永20年(1643)に造営されたことが判明され、
茨木市の文化財に指定されています。
仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神として祀られています。
仏教では、荒神は如来の姿で表され、「如来荒神」と呼ばれています。
総持寺に伝来する「如来荒神画像」は収蔵庫で保管されています。
宝蔵
右側の宝蔵は約2.5m四方、高さ約4mで、寛永20年(1643)に造営され、
茨木市の文化財に指定されています。
大阪府下では四天王寺の宝蔵以外に校倉造が見られず、
全国的にも例の少ない建物です。
断面が五角形の校木が正面と側面で交互に組まれ、また入口が左に偏っています。
承応元年(1651)の境内絵図では「御朱印蔵」として描かれ、
「旧御朱印蔵 経蔵」の扁額が掲げられています。
江戸時代には寺の領地を保障した徳川将軍の御朱印状を収蔵していました。
新設エリア
その右側には新しく設けられたエリアがあります。
新設エリア-鳥獣戯画
円筒には鳥獣戯画が描かれ、回転できるようになっています。
収蔵庫
右側には収蔵庫があります。
鎮守社
境内の西北側に鎮守社があります。
江戸時代初期に建立されたと考えられ、茨木市の文化財に指定されています。
元、箕面市にあった素戔嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の本殿でしたが、
総持寺に移築されました。
大黒天・弁財天・青面金剛(庚申・こうしん)が祀られています。
包丁塚
右側に包丁塚があります。
山蔭の命日に当たる4月18日には、室町時代から続くとされる山陰流包丁式が行われ、
包丁塚には包丁が奉納されます。
観音堂
更に右側には観音堂があり、普悲観音(ふひかんのん)が祀られています。
観音堂-普悲観音
普悲観音とは、観音様の平等普遍の大慈悲心を特に強調した名前で、
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第6番札所の本尊となっています。

茨木神社へ向かいます。
続く
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仁王門
総持寺は県道509号線に面して南向きに大門(仁王門)が建ち、
その横に駐車場があります。
現在の大門は寛永12年(1635)に再建された切妻、こけら葺、三間一戸の八脚門で、
滋賀県の文化財に指定されています。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は京仏師・高野左京作と伝わります。
中門
参道を進むと中門があります。
総持寺は医王山・楞厳院(りょうごんいん)と号する真言宗・豊山派(ぶざんは)の寺院で、
西国四十九薬師霊場の第31番札所となっています。
大日堂
中門をくぐった左側に大日堂があります。
大日堂-堂内
堂内には左から地蔵菩薩、地蔵菩薩の背後に不動明王、千手観音、大日如来、
薬師如来、弘法大師の石像が安置されています。
鐘楼
大日堂の向かいには鐘楼があります。
客殿
門の正面に客殿があります。
画像はありませんが、客殿の北側には小堀遠州が作庭したと伝わる池泉回遊式庭園があり、
滋賀県の名称に指定されいますが、拝観には予約が必要です。
また、総持寺の西隣に小堀遠州の生誕地があります。
庫裡
客殿の左側に庫裡があり、納経所にもなっています。
修行大師像
客殿の前に修行大師像が祀られています。
松梅木
修行大師像の右側に松梅木(しょうばいぎ)が植栽されています。
梅を宿として、松が生え、「商売気」として商売繁盛に結びつくのかもしれません。
本堂
松梅木の右側に本堂があります。
総持寺は天平13年(741)に第45代・聖武天皇が仏教による国家鎮護のため各地に
国分寺を創建しましたが、その際試し寺として勅命により
行基が開基したのが始まりとされています。
その後、衰退しましたが永享2年(1430)に実済によって中興されました。
第102代・後花園天皇の勅願寺となって惣持院の寺号を賜わり、
室町幕府6代将軍・足利義教から寺領600石を安堵され、七堂伽藍を建立しました。
以後、地元の京極家や浅井家の加護を受け、寺は大いに栄えました。
しかし、元亀元年(1570)の姉川の戦いで織田信長の兵火を受け、堂宇は悉く焼失しました。
その後、長浜城主となった羽柴秀吉から寺領120石の寄進によって復興され、
江戸時代になると彦根藩主の伊井家から庇護を受けるようになりました。
彦根藩の第4代藩主および第7代藩主の井伊直興(いい なおおき)は、須弥壇と厨子を寄進し、
菅山寺から薬師如来像を勧請し本尊としました。
この薬師如来は、天正11年(1583)に賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで負傷した
永沢四朗衛門が仏の加護に感謝して菅山寺に奉納したもので、頭の部分は平安時代に、
体の部分は江戸時代に修復されています。
また、堂内に安置されている平安時代後期で像高100.1cmの聖観音立像は、
国の重要文化財に指定されています。
本堂の参拝は予約と500円を納める必要があります。
護摩堂
本堂の向かい側には護摩堂があります。

長浜八幡宮に続く

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