冠木門
平岡八幡宮から国道162号線を市内方面へ進み、JRバス「三宝寺」バス停付近で
左折して北へと進んだ突き当りに三寶寺があります。
三寶寺は山号を金映山、院号を妙護国院と号する日蓮宗の寺院で、
洛陽十二支妙見めぐりの戌(西北西)の札所です。
楊梅の木
冠木門(かぶきもん)をくぐると右側に古木が茂っていますが、
府民の木に指定されている樹齢700年の楊梅(やまもも)の木と思われます。
楊梅の木-祠
木の前には小さな祠が祀られています。
大黒天像
参道の正面に大黒天の石仏が祀られています。
三寶寺では大黒天の縁日である甲子の日に甲子祭が執り行われています。
甲子(きのえね)の日とは、干支の60通りの組合せの一番最初で、
物事を始めるのに適した吉日とされています。
特に、1月の大黒尊天初講会では大黒堂から三面大黒福寿尊天が本堂に遷され、
日蓮大聖人直授の秘妙五段加持を修し、一年の福徳と商売繁盛・金融円滑・
家運隆昌等が祈念されます。
また、秘法『大黒天行水事』は、一年に六度ある甲子祭でも行われず、
この日限りのものです。
本堂
現在の本堂は、昭和4年(1929)に行われた第124代・昭和天皇即位式の
建物の一棟が下賜、移築されました。
三寶寺は寛永5年(1628)に第108代・後水尾天皇の内旨を受け、
右大臣・今出川経季(いまでがわ つねすえ:1594~1652)と
中納言・冷泉為尚(れいぜい ためひさ:1604~1662)が
中正院日護上人を開山に迎え創建されました。
「金映山妙護国院三寳寺」の号は後水尾天皇より賜ったと伝わります。
寺は大いに栄え、十二ヶ寺の塔頭を擁するまでに至りましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で一時荒廃しました。

本堂では元旦に新年祝祷会、3月に春季彼岸会法要、4月及び10月にペット法要祭、
5月(?)に千団子鬼子母神祭、7月に土用の丑祈祷会、8月に盂蘭盆法要、
9月に秋季彼岸会、12月に厄落としの大根焚きが行われています。
土用の丑祈祷会では「ほうろく灸祈祷」が行われています。
呪文を書いた「ほうろく」を頭の上に乗せ「もぐさ」を置いて火をつけ、
木剣で九字を切り悪鬼邪霊を払う祈祷が行われます。
茶室
茶室・松宝庵では大黒尊天初講会で茶道・宗徧流による接待が行われます。
茶道・宗徧流の流祖・山田宗徧(やまだ そうへん:1627~1708)は、
18歳の正保元年(1644)に千宗旦(せん の そうたん)に弟子入りし、
承保元年(1652)には皆伝を受けました。
三寶寺に茶室を建てると、宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られ、
宗旦が一時入った大徳寺195世・翠巌宗珉(すいがん そうみん)からは
「四方庵」の茶号を贈られました。
明暦元年(1655)に三河国吉田藩の小笠原家に仕え、元禄10年(1697)には
江戸へ下り、宗徧流茶道を興しました。
赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件では、赤穂浪士の大高忠雄が
宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、
討ち入り日を決定しました。
滝行場
滝行場では、不定期に水行祈祷会が行われているようです。
浄行堂
浄行堂には、浄行菩薩の石像が祀られています。
浄行菩薩は『法華経』に説かれている菩薩で、水徳を持つ菩薩とされ、
水で穢れを清めるように、煩悩を洗い流すとされています。
また、水子供養の「水かけ地蔵」としても信仰されています。
石段-東
境内の東側に石段の参道があります。
千躯佛釈迦堂
参道の中段に昭和59年(1984)に再建された千躯佛釈迦堂があります。
釈迦如来像
堂内中央に日護上人作と伝わる釈迦如来坐像と、
その両側に像高約10cmの釈迦如来立像千躯が安置されています。
鐘楼
石段を登った所に鐘楼があります。
梵鐘は「忍辱(にんにく)の鐘」と呼ばれています。
永享9年(1437)に本山の本法寺を開いた日親上人の作で、
当山三世・日逞(にってい)上人の代に本山から譲り受けた名鐘とされています。
日親上人は足利将軍家を日蓮宗への改宗を試みましたが失敗し、
永享12年(1440)に投獄され、本法寺は破却となりました。
拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、
「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれました。
嘉吉元年(1441)に赦免され、本法寺を再建するも、
寛正元年(1460)に肥前で布教したため、再び本法寺が破却されました。
翌年赦免され、本法寺は再々建されましたが、忍辱には「苦しみに耐え忍び、
心を動かさない」との意味があり、
日親上人の生き様が梵鐘の名称となったように思われます。
三十番神堂
鐘楼から参道は北へと向きを変えます。

左側に三十番神堂があり、三十番神が祀られています。
三十番神は、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことで、
最澄が比叡山で祀ったのが始まりとされ、京都で日蓮宗を布教しようとした
日像上人が取り入れたため、日蓮宗の寺院で重視されるようになりました。
大黒堂-1
更に参道の石段は続き、中段の左側に平成7年(1995)に
再建された大黒堂があります。
大黒堂-2
大黒堂に安置されている三面大黒福寿尊天は最澄作で、日蓮聖人が
比叡山遊学の際に開眼入魂した三面六臂の秘仏とされています。
1月の大黒尊天初講会以外は60年に一度の甲子の年に開帳されます。
最上稲荷殿-1
参道の右側には最上稲荷殿があります。
最上稲荷殿-2
岡山市にある日蓮宗の最上稲荷山 妙教寺から勧請され、最上位経王大菩薩
(稲荷大明神)が祀られていると思われます。
最上位経とは法華経を意味しています。
三寶寺では三面大黒福寿尊天の眷属とされ、商売繁盛・五穀豊穣を成就し、
屋敷を守る法華経の守護神としています。
石段-北
更に石段を登ります。
子宝犬
子宝犬は平成6年(1994)に奉納されました。
十二支の方位盤を台座とし、磁石とは逆に刻まれていることから、
その前に立てばその方向へ向かうように作られています。
縁結びの塔
縁結びの塔は豊臣秀頼・国松丸・淀殿の供養塔で、
いつの頃からかこの塔を撫でると良縁が得られると伝えられています。
国松丸は秀頼の正室・千姫の子ではなく側室の子で、
生後すぐに秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先である若狭京極家へ預けられました。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が起こると、
国松丸は常高院と共に大坂城へ入りました。
しかし、翌年の大坂夏の陣では城から落ち延びましたが、徳川方に捕えられ、
市中車引き回しの後、六条河原で斬首に処せられました。
また、道明寺の戦い八尾・若江の戦い天王寺・岡山の戦いで相次いで敗退し、
大坂城も、堀が埋められ、守備能力を失っていました。
城内からも徳川方に寝返りする者が現れ、
城に火が放たれると秀頼と淀殿は自害しました。
妙見堂
最上部に昭和47年(1972)に再建された妙見堂があります。
堂内には日護上人作と伝わる北辰妙見大菩薩像が安置されています。
洛陽十二支妙見めぐりの戌(西北西)の札所であることから、
特に戌歳生まれの人の守護神として、また戌が安産に通じるところから
安産祈願所として、更には願いが叶うとして「満願妙見宮」とも呼ばれています。
妙見堂では毎月1日に月並祭が行われる他、2月に節分祈祷会、
11月には妙見宮大祭が行われています。
庫裏
石段を下り境内西側の庫裏へと向かいましたが、その手前に植栽されている
山桜は市の保存樹に指定されています。
江戸時代に公家邸宅内から移植されたと伝わり、
「御車返(みくるまがえし)」の品種名があります。
京都御所内にも同種の桜があり、かつて「牛車を返して」ご覧になったことが
名前の由来となっています。

福王子神社へ向かいます。
続く

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