鳥居
橋姫神社からあがた通りを南へ約5分歩いた突き当りの左側に縣神社があります。
縣神社が創建された年代は不明ですが、神社の公式HPでは神代から
当地の守護神であったとされています。
永承7年(1052)に藤原頼通は、父・道長の別荘「宇治殿」を寺院に改め「平等院」とし、
縣神社は鎮守社となりました。
その後の変遷は不明ですが、明治維新までは三井寺・円満院の管理下にあり、
明治の神仏分離令により独立しました。
県井
鳥居をくぐった左側に縣井があります。
平安時代から和歌にも詠まれ有名だったようですが、宇治七名水には含まれませんでした。
神木
参道脇の椋の木は御神木とされ、樹齢約500年、樹高26m、幹回り4.4mで、
宇治市名木百選に選定されています。
かっては「縣の森」と呼ばれ、このような樹木で神社が覆われていたのかもしれませんが、
現在では付近は住宅や商店となっています。
本殿
本殿
祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、別名が
吾田津姫(あがたつひめ)であることから、
吾田を縣の字に置き換え、社名としたとする説もあります。

神話によれば、木花開耶姫命は笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内の伝説地)で
邇邇芸能命(ににぎのみこと)と出逢い、その夜の内にしとねを共にして
互いの情愛が結ばれました。
一夜の契りで姫は妊娠したので、邇邇芸能命は本当に自分の子か疑いを持ちました。
邇邇芸能命は「本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と産室に火を放ちました。
しかし、火事の害にもかかわらず、姫は無事に出産し、その宴会で稲から
天甜酒(あまのたむざけ)を造って家来たちに振舞ったと伝わっています。
その伝承から、木花開耶姫命は酒造の神とも言われ、
結婚守護の神であり、安産の神とされています。
梵天
境内の左側に梵天奉納所があります。
毎年、6月5日から6日未明にかけて行なわれる
「あがた祭り」は「暗闇の奇祭」とも呼ばれています。
大祭の6月5日、夜半を過ぎると暗闇の中で梵天の渡御が行われます。
この梵天渡御を象徴するものは縣神社の女祭神である木花開耶姫と
宇治神社の稚郎子命(わきいらつこのみこと)の男神が、
年に一度の愛の契りを、暗闇の中で執り結ぶというものです。
この行事の起こりは江戸時代、文化文政期(1804~1830年)とされ、
幕末になるにつれて盛んになったと伝わります。
江戸時代、庶民は自由に旅をしたり、夜更けに町を歩くことなどは禁じられていました。
唯一この掟から開放されたのが「お伊勢参り」や「祭礼」などの行事でした。
特にこの「あがた祭り」は、当時の庶民にとって大きな開放感の絶頂を
味わえた行事だったと思われます。
祭りの当夜は多くの参詣者が訪れ、町全体が開放的となり、抑圧されていた庶民も、
この夜ばかりとナンパに励み、フリーセックス状態になったと伝えられています。

梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→縣神社(神移し)→宇治神社へ渡御→
縣神社(還幸祭)のルートで行われていました。
平成15年(2003)に還幸祭が行われなかったことで御輿の担ぎ手である
「縣祭奉賛会」と縣神社の関係がこじれ、翌平成14年(2004)から
神社側が独自に梵天渡御を行うなど分裂状態となりました。

これには以前よりあった宇治神社と縣神社の対立が関係していて、
昭和43年(1968)には裁判にまで発展しました。
その後、和解と対立が繰り返されているのですが、関係改善には至っていないようです。

現在のあがた祭りは、境内を練り歩き鳥居をくぐって表に出た梵天は、旧大幣殿前で
ブン回しや差し上げなど勇壮に走り回り、再び境内に帰って還幸祭を終えるのは
夜中の1時ごろと簡略化されているようです。
大幣殿
鳥居右側の大幣殿(たいへいでん)では、6月8日に「大幣神事」が執り行われます。
900年前からと伝わる古代日本の貴族的、民族的色の濃い神事です。
大幣
大幣殿にはこの神事で、「疫病」を祓い宇治川に流す「大幣」が納められています。

平等院へ向かいます。
続く

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