後花園天皇火葬塚
妙覚寺から北上して紫明通を左折し、堀川通を南下した東側に
第102代・後花園天皇(在位:1428~1464)の火葬塚があります。
応永26年(1419)に伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう:1372~1456)の
第一皇子として誕生し、8親等以上離れた続柄で、
本来は皇統を継ぐ立場ではありませんでした。
第101代・称光天皇が嗣子(しし)を残さず崩御したため皇位を継ぎ、
現在の天皇まで後花園天皇の皇統が引き継がれています。

天皇は学問に秀で、詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、
『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に11句が入集しています。
治世においては、永享10年(1438)に永享の乱、嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱など
各地で土一揆が起こりましたが、治罰綸旨を発給するなどの政治的役割を担い、
朝廷権威の高揚を図りました。
嘉吉3年(1443)に禁闕の変(きんけつのへん)が起こり、後南朝勢力が
後花園天皇の禁闕(皇居内裏)を夜襲して火を放ち、三種の神器のうち
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を奪い
比叡山へ逃走しました。
しかし、比叡山は室町幕府に付くことを決めたことから乱は早急に鎮圧され、
天叢雲剣は清水寺で発見されて朝廷へ戻されました。
八尺瓊勾玉は、長禄元年(1457)に嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う
赤松家遺臣らが、南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して
神璽を奪い返しました。
尊秀王(たかひでおう)の出身や生涯の詳細については不明ですが、
後亀山天皇の弟の孫とも、後亀山天皇の皇子の子とも伝わります。
南朝の再建を図った指導者で、地元民から
「自天王(じてんのう)」と呼ばれていました。
自天王は北山郷(奈良県上北山村)に、忠義王は河野谷村(神之谷)に
それぞれ御所を構えていたのですが、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、
二人は討ち取られました。
この惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、
自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃ちます。
塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった
中村貞友を見事射止めたと伝承されています。
郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、「御首載石」に載せられ冥福を祈り、
その後に金剛寺に葬られたと伝えられています。
しかし、翌長禄2年(1458)、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって
赤松家はお家再興の悲願を達成しました。

寛正5年(1464)に成仁親王(第103代・後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、
左大臣・足利義政を院執事として院政を敷き、
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱で、後花園上皇は兵火を避けて、
天皇と共に室町第(花の御所)へ移りました。
同年、上皇は出家し、文明2年(1470)に病を患い、53歳で崩御されました。
水火天満宮-西鳥居
南へ進むと扇町公園があり、その手前に水火天満宮(すいかてんまんぐう)があります。
第60代・醍醐天皇の勅願により、尊意に命じて延長元年(923)に
現在地より西の、尊意の別邸があった地に創建されました。
菅原道真が若かりし頃、第13世天台座主となった尊意(866~940)を仏教学の師と仰ぎ、
現在の八瀬天満宮社から八瀬坂を師のもとへ通ったと伝わります。
尊意が下山していた時はこの別邸で道真と会見した縁故深き土地でした。

醍醐天皇(在位:897~930)は、都の水害・火災を鎮めるため、
『水火の社天満自在天神宮』の神号を勅許し、尊意に命じて初めて
道真公の神霊を勧請した事により、「日本最初の天満宮」とされています。
文明4年(1472)9月10日には第103代・後土御門天皇(在位:1464~1500)の御幸があり、
神殿にて天神名号御震筆を賜りました。
この御幸により、水火天満宮の例祭は10月10日(旧暦:9月9日)に
行われるようになりました。
天明8年(1788)の大火で焼失し、古文書などが失われ、
昭和25年(1950)の堀川通の拡幅工事により現在地へ遷座されました。
水火天満宮-孝学堂跡の碑
堀川通に面した西鳥居の右脇に「孝学堂跡」の碑が建っています。
孝学堂は江戸時代に水火天満宮境内に開設された社会教育施設で、
民衆に孝道・孝行を説いたとされ、
明治時代まで続いていたと伝わりますが、資料が焼失し、詳細は不明です。
水火天満宮-龍王の池
鳥居をくぐった右側(南側)に龍王の池があります。
金玉龍王(きんぎょくりゅうおう)が、この池の水を飲み水にしたと伝えられています。
水火天満宮-社務所
左側(北側)に社務所があり、社務所前には手水舎、出世石、登天石が並んでいます。
水火天満宮-手水舎
手水舎
水火天満宮-出世石
出世石は近世に出世した信者から寄進されたもので、
立身出世や大願成就の信仰を集めています。
水火天満宮-登天石
登天石(とうてんせき)には、下記のような逸話が残されています。
延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
延暦寺の尊意のもとへ道真の霊が顕れました。
尊意は霊をザクロの実でもてなすと「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。
例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」と
霊から頼まれました。
尊意がこれを断ると、激怒した道真は、とっさにザクロをつかみ、
口に含んだかと思うと、種ごと吹き出しました。
種は炎となって燃え上がり、傍らの戸に引火したのですが、
尊意は印を結び、水を放って消し止めました。
道真の霊が鴨川へ去ると、川の水位が突然上昇し、町中にあふれ出ました。
霊を追って来た尊意の祈念により川の流れは二つに分かれ、一つの石が現れました。
石の上に立っていた道真の霊と尊意が問答を行い、道真の霊は雲の上に飛び去って、
それまで荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだと伝わります。
尊意はこの石を持ち帰り、供養して「登天石」と名付けました。
背後の細長い松は、「菅公 影向松」と称され、数代目になるそうです。
水火天満宮-石標
左側の石標は上部の「是」が欠けていますが、「是より洛中 荷馬口付のもの
乗べからず」と刻字され、同様のものが都への出入り口30カ所に立てられていました。
「荷を載せた馬は、馬の口取り(馬子)が乗ったまま洛中へ入ってはならず、
交通安全のため、降りて手綱を引いて歩くように」との意味になります。
室町時代には、内裏や寺社の修繕のために京の七口に関所が設けられ、
一定の通行税が徴収されていました。
それに反発し、関所の廃止を要求して度々一揆が起こるようになり、
関所の廃止と再び設置が繰り返され、豊臣政権下で全廃されました。
この石標は、元禄8年(1695)に木造で30カ所に立てられた標識の一つで、
享保2年(1717)に石標に作り替えられました。
水火天満宮-南鳥居
南鳥居
水火天満宮-金龍水
南鳥居の東側に金龍水が湧き出ています。
都名水の一つであり、枯れることも濁ることも無い清水で、
眼病に霊験ありとされています。
水火天満宮-稲荷社
境内の南東角に稲荷社があり、六玉稲荷大明神・玉光稲荷大明神・生島稲荷大明神が
祀られています。
六玉稲荷大明神は、東本願寺の枳毅邸(きこくてい)・渉成園で祀られていましたが、
明治維新の以前に遷座され、西陣の地廻守護神となりました。
水火天満宮-拝殿
北側に拝殿があります。
水火天満宮-本殿
その奥に本殿があり、菅原道真公が祀られています。
水火天満宮-秋葉社
境内の東側には、南から秋葉神社、白太夫社、弁財天社、玉子神社が並んでいます。
秋葉神社には火難除けの神とされる秋葉大神が祀られています。
水火天満宮-白太夫社
白太夫社には渡会春彦(わたらい の はるひこ)が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した豊受大神宮(外宮)の神官で、
道真誕生後は道真の守役として仕え、大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めています。
水火天満宮-弁天社
弁財天社には玉姫弁才天・金玉龍王・福寿稲荷大明神が祀られています。
玉姫弁才天は芸能・婦人病、金玉龍王は雨請、
福寿稲荷大明神は商売繁盛の神とされています。
水火天満宮-玉子神社
弁財天社には玉姫弁才天・金玉龍王・福寿稲荷大明神が祀られています。
玉姫弁才天は芸能・婦人病、金玉龍王は雨請、
福寿稲荷大明神は商売繁盛の神とされています。
大応寺-山門
水火天満宮の南鳥居を出て、東へ少し進んだ扇町公園の奥に大応寺があります。
山号を「金剛山」と号する臨済宗相国寺派の寺院ですが、非公開です。
かって、この地には身寄りのない子供や老人・貧しい人を収容する福祉施設・
「悲田院」があったと伝わります。
悲田院は第52代・嵯峨天皇の后・橘嘉智子により建立されましたが、
平安時代には消滅しました。
橘嘉智子(たちばな の かちこ:786~850)は仏教に深く帰依し、承和2年(835)に
唐から禅僧・義空を招いて開山とし、尼寺の檀林寺(だんりんじ)を創建したことから
「檀林皇后」と呼ばれました。
嘉祥3年(850)に65歳で崩御されましたが、死に臨み、自らの遺体を埋葬せず
路傍に放置せよと遺言し、帷子辻(かたびらがつじ)において
遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したとされています。
自分の体を餌として与え、鳥や獣の飢を救うためだったとも、この世のあらゆるものは
移り変わり、永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を、
自らの身をもって示し、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を
呼び起こすためだったとも伝わります。
大応寺-庫裡
庫裡
天正14年(1586)に妙満寺の虚応円耳(きいん えんに:1559~1619)が、
悲田院の跡地に大応寺を創建しました。
虚応円耳はその後、臨済宗に転じ、慶長8年(1603)に現在の堀川通の西側に
興聖寺を創建し、移り住みました。
大応寺は天明8年(1788)の大火で焼失し、文化5年(1808)以後に再建されました。
大応寺-織部稲荷社
門を入った左側(西側)に織部稲荷社があります。
古田織部(1544~1615)が、伏見稲荷から勧請したと伝わります。
古田家は美濃国の守護大名・土岐氏に仕えていましたが、土岐氏の没落により
織田信長に仕えるようになりました。
天正10年(1582)の本能寺の変で、信長が自刃して果てると、
豊臣秀吉に仕えるようになりました。
この頃、千利休と知り合い、弟子入りしたと推定されています。
「織部流」と称される将軍・大名の茶の湯の式法を制定し、豊臣秀吉や徳川家康の
茶頭を務め、徳川秀忠の茶の湯指南役にもなりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、恩賞により1万石の大名となりましたが、
慶長19年~20年(1614~1615)の大坂の陣で、徳川方の軍議の秘密を大坂城内に
知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後に切腹を命じられて果てました。

堀川通を南下して本法寺へ向かいます。
続く
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