地主神社
本殿の後方東側に地主神社があり、天神地祇(てんじんちぎ)と相殿に
敦実親王・斎世親王(ときよ しんのう)・
源英明朝臣(みなもと の ふさあきら/つねよし あそん)が祀られています。
『続(しょく)日本後紀』に「承和3年(836)2月1日に遣唐使のために天神地祇を祀る」
と記され、北野天満宮の創建以前からこの地に祀られており、
社殿は新しく見えますが境内最古の社となります。
その後、北野天満宮が創建されたため、北野天満宮の本殿は地主神社に配慮して、
楼門からの参道の西側へ外して建立されました。

相殿祭神の敦実親王(893~967)は、第59代・宇多天皇の第八皇子で、
第60代・醍醐天皇の同母弟です。
和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じた才人であり、特に音曲に優れ
源家音曲の祖とされています。
天暦4年(950)に出家して法名を「覚真」と称し、仁和寺に住して
康保4年(967)に75歳で薨去されました。

斎世親王(886~927)は、第59代・宇多天皇の第三皇子です。
菅原道真が醍醐天皇から斎世親王に譲位させようとしたという嫌疑で
太宰府に左遷されました。
斎世親王は連座して出家し、仁和寺に入って「真寂」と称し、修行の道を歩みました。

源英明朝臣(?~940)は斎世親王の子で、幼年時代は上記の理由から不遇でした。
醍醐天皇の信任を受け、延喜23年(923)に右近衛中将、延長5年(927)に
蔵人頭と要職を歴任しました。
延長8年(930)に醍醐天皇から第61代・朱雀天皇への譲位に伴って蔵人頭を辞し、
承平元年(931)に宇多上皇が崩御されてからは再び不遇となりました。
老松社
地主神社の西側に老松社があり、天満大自在天神の眷属第一の神である
老松大明神が祀られています。
老松大明神は菅原道真の家臣(牛飼)だった島田忠興(しまだ の ただおき)を
神格化した神で、生前に、天拝山に登る道真の笏(しゃく)を持ち
お供したとされています。
雲龍梅
老松社の左前に植栽されている梅の木は「雲龍梅」と称され、
平成14年(2002)1月22日の菅原道真没後1100年を記念した「菅公千百年大祭」で、
全国天満宮梅風会により記念植樹されました。
枝がねじれ、龍が天に舞昇るように見えることからこの名が付き、
盆梅や庭木などで親しまれています。
十二社-1
老松社の西側に末社十二社を祀る社殿があります。
手前から寛算社(祭神:寛算入寺)、大門社(祭神:大門内供奉)、
橘逸勢社(祭神:橘逸勢)、藤太夫社(祭神:藤太夫吉子)、
文太夫社(祭神:文屋宮田麿)、淳仁天皇社(祭神:淳仁天皇)、
太宰少貳社(祭神:藤原広嗣)、老松社(祭神:島田忠臣翁)、
白太夫社(祭神:度会春彦翁)、
櫻葉社(祭神:伊予親王)、吉備大臣社(祭神:吉備真備公)、
崇道天皇社(祭神:崇道天皇)と並んでいます。

寛算入寺(かんざんにゅうじ)は筑紫安楽寺の住僧で道真を慕っていた僧だそうで、
歯痛平癒の神として祀られています。

大門内供奉(だいもんないぐぶ)は、天拝山の麓にある武蔵寺の住僧で、
身に覚えのないことを詰問され、非業の死を遂げました。
怨霊となりましたが、菅原道真が天拝山に登られた時に味方となったとされています。
災難除け、難問解決の神として祀られています。

橘逸勢(たちばな の はやなり)は、延暦23年(804)に最澄・空海らと共に
遣唐使として唐に渡り、琴と書を学んで大同元年(806)に帰国し、
それらの第一人者となりました。
しかし、承和9年(842)に起こった承和の変で伊豆への流罪が下され、
護送中に病死しました。
死後、赦免はされましたが、無実の罪で亡くなった逸勢は
怨霊になったとされています。
また、死因が病死であったことから病気平癒の神として祀られています。

藤太夫吉子(とうだゆう きっし)は、櫻葉社の祭神・伊予親王の母で、
親王と共に川原寺の一室に幽閉され、服毒自殺されましたが、
大願成就の神とされています。

文太夫社の祭神・文屋宮田麿(ぶんや の みやたまろ)は、承和7年(840)に
筑前守に任ぜられましたが、翌年までには官職を解かれています。
この間、新羅から朝廷への献上品が届けられましたが、
朝廷からは返却するように命じられました。
しかし、文屋宮田麿がこれを没収したことが朝廷に発覚し、大宰府官人により改めて
新羅に返却されました。
このような経緯が解任の原因になったと思われますが、承和10年(843)には
謀反を図っているとの告発があり、左衛門府に禁獄された後、
伊豆国へ配流されました。
その後の詳細は不明ですが、後に文屋宮田麿は無実であったとされています。
延命長寿の神として祀られています。

第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう:在位758~764年)は、
幼名を「大炊王(おおいおう)」と称し、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の
強い推挙により立太子しました。
天平宝字2年(758)に孝謙天皇から譲位を受け践祚(せんそ)し、
孝謙天皇は太上天皇となりました。
その後、天皇は孝謙上皇と対立するようになり、
政治の実権は上皇が握るようになりました。
天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂は政権を取り戻すために挙兵しましたが密告され、
上皇の軍による追撃を受けて戦死しました。(藤原仲麻呂の乱
淳仁天皇は廃位されて淡路国への流罪となり、代わって孝謙上皇が称徳天皇として
重祚(ちょうそ)しました。
やがて、淳仁天皇は33歳で崩御され、その後に干ばつや大風が起こり、
世間は騒然となりました。
淳仁天皇社は心願成就の神とされています。
十二社殿
太宰少貳社(だざいのしょうにしゃ)の祭神・藤原広嗣(ぶじわらのひろつぐ)は、
朝廷内で反藤原氏勢力が台頭し、天平10年(738)に太宰少貳に左遷されました。
天平12年(740)に広嗣は、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である
右衛士督・吉備真備(きび の まきび)と僧正・玄昉(げんぼう)に起因するとして
反乱を起こしましたが捕えられ、処刑されました。
唐津に広嗣の怨霊を鎮めるために鏡神社に二ノ宮が創建され、大同6年(806)には
奈良の新薬師寺の鎮守社として鏡神社が勧請されて南都鏡神社が創建されました。

老松社と白太夫社は北野天満宮-その1に既述の通りです。

櫻葉社は、右近の馬場の千本桜の女神とされる桜葉大明神が祀られています。
また、伊予親王と同体とされ、親王は異母兄の第51代・平城天皇への
謀反の疑いをかけられ、川原寺の一室に幽閉されて飲食を止められましたが
その後、母と主に毒を仰いで自害しました。(伊予親王の変
親王の薨去後に凶事が相次ぎ、親王は無実とされ、弘仁14年(823)に母と共に
復号・復位され、承和6年(839)には一品が追贈されました。
親王は管絃に長じていたことから音楽・声楽・謡曲上達の守護神とされ、
喉の病気平癒にも御利益があるとされています。

吉備大臣社(きびのおおかみしゃ)の祭神・吉備真備が家内安全の神として
敵対した藤原広嗣と同じように祀られています。
吉備真備は、霊亀2年(716)に第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に
阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、18年間唐にて経書と史書のほか、天文学・音楽・
兵学などの諸学問を幅広く学びました。
遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと
言われるほどの知識人でした。
帰国後はその実績が高く評価されて昇進し、天平10年(738)に
橘諸兄(たちばな の もろえ)が右大臣に任ぜられて政権を握ると、
真備と同時に帰国した玄昉と共に重用されました。
しかし、これが藤原広嗣の乱を引き起こすことになりました。
天平勝宝元年(749)に第46代・孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が権勢を強め、
真備は翌年に格下の地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝4年(752)に再び遣唐使に任命されて渡海し、翌年に鑑真を乗船させて
帰国の途に就き、屋久島に漂着するも、無事に帰朝することができました。
帰朝後も中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754)に
大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられました。
この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、
近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に
赴任させたと見られています。
真備は大宰府の実質的な責任者として天平勝宝8年(756)に筑前国に
怡土城(いとじょう / いとのき)を築き、新羅からの攻撃に備えました。
更に天平宝字3年(759)には新羅征討計画が立案されましたが、孝謙上皇と仲麻呂との
不和により実行されずに終わりました。
天平宝字8年(764)に造東大寺長官に任ぜられ帰京しましたが、同年に起こった
藤原仲麻呂の乱で優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げました。
その功により昇進しましたが、宝亀6年(775)に81歳で薨去されました。

崇道天皇(すどうてんのう)社には、五穀豊穣の神として崇道天皇が祀られています。
早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の実弟で、皇太子でしたが、
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺され、
それに関与したとみなされました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁されたのですが、
流罪処分となり淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で
亡くなりました。
その後、桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてのみこ=後の第51代・平城天皇
(へいぜいてんのう))が皇太子に立てられましたが発病し、
更に桓武天皇の后も病死しました。
その後も桓武天皇と早良親王の生母・高野新笠(たかの の にいがさ)の病死など
疫病が流行し、洪水の発生などの災難が続きました。
これは早良親王の祟りだとして桓武天皇は、延暦13年(794)に平安京へ都を遷し、
延暦19年(800)には親王に崇道天皇の追称を贈り霊を鎮めようとしました。
牛舎-鳥居
十二社から西へ進むと「牛舎」があります。
牛舎-牛像
撫でると一つだけ願いが叶うという「一願成就のお牛さん」が祀られています。
絵馬
牛舎の奥に絵馬掛所があります。
天狗山の鳥居
更にその奥、境内の北西角に昔、天狗が住んでいたとの伝承がある天狗山があり、
その前には鳥居が建っています。
絵馬掛け所の石
鳥居前には石が祀られていますが、詳細は不明です。
八社
牛社の南側に末社八社を祀る社殿があります。
右から福部社(祭神:十川能福)、高千穂社(祭神:瓊瓊杵命・天児屋根命)、
安麻神社(祭神:菅原道真公のご息女)、御霊社(祭神:菅公の眷属神の御霊)、
早取社(祭神:日本武尊)、今雄社(祭神:小槻宿祢今雄)、
貴布禰社(祭神:高龗神)、荒神社(祭神:火産神・興津彦神・興津媛神)と
並んでいます。

福部社は北野天満宮-その1に記述の通りです。

高千穂社の祭神・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大御神の
神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、
高天原から日向の高千穂峰へ天降りました。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)は瓊瓊杵尊に随伴し、
中臣連の祖となったとされています。

早取社の祭神・日本武尊(やまとたけるのみこと)は、
大津市にある建部大社の祭神です。

今雄社の祭神・小槻宿祢今雄(おつきのすくね の いまお)は、当初「小槻山君」と
名乗っていましたが、後に阿保姓を賜り「阿保今雄」と改名しました。
小槻宿祢を名乗るようになったのは、今雄の子以降とされています。
小槻山氏は近江国栗太郡(現滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族で、
仁寿元年(851)に今雄は雄琴・苗鹿(のうか)の地を拝領し、所領としました。
雄琴の地名は、今雄の邸宅から琴の音がよく聞こえたためと伝わります。
算道を習得し、太政官の史の官職を得て、平安京左京四条三坊へ移住しました。
雄琴神社では祭神として祀られています。

荒神社の祭神・火産神(ほむすびのかみ)は火を司る神で、興津彦神と興津媛神は
竈(かまど)の神です。
井戸
八社の南側に井戸があります。
「御神用水」と称され、現在でも神事にはここで汲み上げられた
水が用いられるそうです。
手向山の楓樹
井戸の付近に「手向山の楓樹」が植栽されています。
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、その史実により
正徳6年(1716)に手向山八幡宮から楓の苗木が奉納されました。
四社-2
井戸の南側の末社四社には、夷社(祭神:事代主命)、松童社(祭神:神太郎丸)、
八幡社(祭神:誉田別尊)、若松社(祭神:若松章基)が祀られています。

松童社の祭神・神太郎丸(みわ の たろうまる)は、近江国の比良宮の
神主・神良種(みわのよしたね)の子で、天慶5年(942)に多治比文子が
「われを右近の馬場に祀れ」との菅原道真の託宣を受けると、その5年後に
太郎丸も同様の託宣を受けました。

若松社の祭神は若松章基(わかまつ の あきもと)とされていますが、詳細は不明で、
老松社の祭神と同様に天満大自在天神の眷属の一人かもしれません。
七社殿
末社四社の南側に七社を祀る社殿があります。
手前から 那伊鎌社(祭神:建御名方命)、一拳社(祭神:一言主神)、
周枳社(祭神:天稲倉宇気持命・豊宇気能媛)、宰相殿社(祭神:菅原輔正卿)、
和泉殿社(祭神:菅原定義卿)、三位殿社(祭神:菅原在良卿)、
大判事社(祭神:秋篠安人卿)が祀られています。

那伊鎌社(ないかましゃ)の祭神・建御名方命(たけみなかたのみこと)は、
大国主神の御子神で、諏訪大社の祭神です。
天照大御神から派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神
(ふつぬしのかみ)は大国主神に国譲りを迫った際、大国主神は事代主神と
建御名方命の二人の御子神が答えると告げました。
事代主神は承諾しましたが、建御名方命は武甕槌神に力競べを申し出ました。
武甕槌神の力に恐れをなした建御名方命は逃亡しましたが、諏訪で追い詰められ
国譲りと諏訪の地から離れない事を約束して命を助けられました。

一拳社(ひとこぶししゃ)の祭神・一言主神は、奈良県御所市にある葛城一言主神社
祭神で、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされています。

周枳社(すきしゃ)の祭神は、天稲倉宇気持命(あめのいなくらうけもちのみこと)と
豊宇気能媛(とようけのひめのみこと)ですが、天稲倉宇気持命は穀物の神と
思われますが詳細は不明です。
京丹後市大宮町周枳に大宮売神社(おおみやめじんじゃ)があり、古くは「周枳社」
とも「周枳宮」とも呼ばれていました。
しかし、大宮売神社の祭神は大宮賣神(おおみやめのかみ)と若宮賣神です。
豊宇気能媛は、『丹後國風土記』によれば、現在の峰山町の比治山
(ひじさん=磯砂山:いさなごさん)の山頂にある池に舞い降りた八人の天女の
一人とされています。
八人の天女は池で水浴をしていたのですが、その内の一人の羽衣が老夫婦に隠され、
天へ帰れなくなってしまい、老夫婦の娘にされて一緒に暮らすようになりました。
天女は一杯飲めば万病に効く酒を造り、また機織りも教え、
老夫婦はたちまち裕福になりました。
10年後、なぜか老夫婦は天女を追い出しました。
天女は比治の里を彷徨った末、船木(現在の京丹後市弥栄町船木)の里に至り、
そこに鎮まりました。
以来、この地は「奈具」と呼ばれ、村人たちによって天女は
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られたと伝わります。
また、宮津市江尻にある籠神社(このじんじゃ)奥宮の真名井神社
彦火明命(ひこほあかりのみこと)が創祀し、その御子神である天香具山命
(あめのかぐやまのみこと)が磐境(いわさか)を起こし、
「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神を主祭神として
神祀りを行っていたとされています。
その後、第21代・雄略天皇21年(477)に豊受大神は伊勢へと遷されました。

宰相殿社の祭神・菅原輔正(すがわら の すけまさ:925~1010)は、
道真の五男・菅原淳茂(すがわら の あつしげ:878~926)の孫で、
菅原氏としては道真以来約100年ぶりに議政官の座に就きました。
寛弘6年(1010)に85歳で薨去され、寿永3年(1184)には正二位を追贈されました。

和泉殿社の祭神・菅原定義(1002~1065)の父は道真の曾孫にあたる
菅原資忠(すがわら の すけただ:936~989)の子・
菅原孝標(すがわら の たかすえ:972~?)で、道真から6代目に当たります。
『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ:1008~1059)は
同母姉妹ですが、本名は伝わってはいません。
定義は、式部少輔、民部少輔、弾正少弼(しょうすけ)、少内記、大内記、
大学頭、文章博士(もんじょうはかせ)を歴任し、
康平7年(1065)に64歳で亡くなりました。
死後、寿永3年(1184)に従三位、乾元元年(1302)に正二位、元徳2年(1330)に
従一位を贈られています。

三位殿社の祭神・菅原在良(1041~1121)は菅原定義の子で、式部少輔・大内記を
兼任した後、文章博士、式部大輔を歴任し、天永2年(1111)に侍読に任ぜられ
第74代・鳥羽天皇に仕えました。
死後、元徳2年(1330)に従三位を贈られました。

大判事社の祭神・秋篠安人(あきしの の やすひと:752~821)は、菅原道真の
祖祖父である菅原古人(すがわら の ふるひと:?~785?)の兄弟で、
古人が本拠地(大和国添下郡菅原)の地名から菅原姓へ、安人の一族はその居住地
(大和国添下郡秋篠)から「秋篠」姓を賜りました。
安人は延暦24年(805)に道真に続いて参議に任ぜられ公卿に列し、右大弁・近衛少将を
兼ね、翌年には左大弁・左衛士督に昇進しましたが、大同2年(807)に起こった
伊予親王の変に関与したとして失脚しました。
大同5年(810)に発生した薬子の変後に復権、参議に還任されて、
左大弁・左兵衛督を兼任し、弘仁12年(821)に70歳で亡くなりました。
源平咲き分け梅
七社殿前の源平咲き分け梅は、平成20年(2008)の全国天満宮梅風会第50回記念植樹で
植えられました。
一本の木に白と薄紅色の二色の花が咲き、源氏の旗が白、平氏の旗が赤だったことから
「源平咲き分け梅」と呼ばれています。
神明社と文子社
参道を南へ進むと、左側に廻廊の西門があり、
西門前の参道の正面には神明社と文子社が北向きに建っています。
左側の文子社は、北野天満宮-その1「文子天満宮」で既述した通りで、
右側の神明社には伊勢神宮・内宮の祭神・天照大御神と
外宮の祭神・豊受大神が祀られています。
かっては御池通寺之内下る神明町で祀られていましたが、文化11年(1814)に
現在地に遷されました。
御土居碑
文子社から西へ進むと「史跡 御土居の紅葉」の碑が建っています。
その先に御土居への入口の門がありますが、施錠されています。
神庫
碑から南側に神庫と紅梅殿に挟まれたやや細い参道があります。
豊国神社
その参道を南へ進むと豊国神社(とよくにじんじゃ)・一夜松神社・
野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)の相殿社があります。

豊国神社の祭神は豊臣秀吉で、秀吉は北野天満宮を厚く崇敬し、
境内地で北野大茶湯を催され、一時衰退していた天満宮を復興しました。
そして、天満宮本殿の造営を遺命とされ、その遺志を継いだ秀頼により
現在の社殿が建立されました。

一夜松神社には一夜千松の霊が祀られています。
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祀るべき地には
一夜にして千本の松を生じさせる」という道真のお告げにより、
この一帯に生えた松に宿る神霊とされています。

野見宿祢神社はかっては一之保神社(いちのほ じんじゃ)で祀られていましたが、
明治元年(1868)に遷座されました。
野見宿祢は菅原氏の遠祖であり、第11代・垂仁天皇に仕えていました。
天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)をとり、
これに勝利して蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を
与えられました。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、
それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、
土師臣(はじのおみ)の姓を与えられました。
以後、土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなりました。
石材を加工する際に使われる道具の「ノミ」と野見は関連があると
考えられています。
第50代・桓武天皇は道真の祖父である菅原古人の一族15名に、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への
改姓を認めました。
桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身で、その娘で天皇の生母である
高野新笠(たかの の にいがさ)は土師氏の里で幼少期の桓武天皇を
養育したと見られています。
一之保神社-1
南側の一之保神社(いちのほ じんじゃ)と奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)には
菅原道真と道真の奇御魂が祀られています。
一之保神社-2
大宰府に残された道真手作りの木造を西ノ京神人(じにん)が持ち帰り、
西の京(京都市中京区南西部天満宮の氏子区域)北町に建てた
小さな社に納め、これを「安楽寺(あんらくじ)天満宮」と称して
祀られていましたが、 明治6年(1873)7月21日に現在地に遷されました。
尚、西ノ京神人とは俗体をもって北野に奉仕する団体です。

「奇御魂」とは、駒札には「さまざまな不思議や奇跡をよびおこす
特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃、菅公のご神霊が、
東福寺の開祖・圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、
一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられました。
その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を
持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神』と
称え祭るようになった。」と記されています。
稲荷社
南側の稲荷神社には、伏見稲荷大社の主祭神と同様に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
・佐田彦大神・大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られていますが、
佐田彦大神は猿田彦神の別名とされ、こちらでは猿田彦神で表記されています。
かって、この付近での大火の際、この神社の手前で火の手が止まったと伝わり、
以来「火除け稲荷」と呼ばれ、信仰を集めています。
猿田彦社
稲荷神社に併設されるように猿田彦社があり、猿田彦神と大宮能売神が
祀られています。
大宮能売神は、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)の別名で、
邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して天降りしました。
邇邇芸命の一行が天降りする際に、天の八衢(やちまた=道がいくつもに
分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいて、
天宇受賣命はその神の名を聞きました。
その神の先導により邇邇芸命達は無事に葦原中国に着き、邇邇芸命は
天宇受賣命にその神の故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届けるように命じました。
その神の名は猿田彦神で、天宇受賣命は猿田彦神に仕え、
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
連歌所の井戸-1
猿田彦社からUターンして北へ戻った東側に連歌所の井戸があり、明治6年(1873)まで
井戸の西側に連歌所が建っていました。
連歌所の井戸-2
北野天満宮では、室町時代から江戸時代にかけては盛んに連歌会が行われ、
毎月18日には月次会が行われました。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、北野天満宮では
「聖廟法楽」と称され毎月25日に催されていました。
「聖廟法楽」の連歌の席には天神像がかけられ、
朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれていました。
連歌所は明治時代に廃されましたが、
現在は「京都連歌の会」として復興されています。
紅梅殿-2
井戸の北側に紅梅殿があります。
道真の邸宅・紅梅殿に因み、大正6年(1917)に調理所として本殿の西側に
建立されましたが、平成26年(2014)夏に現在地に移築されました。
紅梅殿-庭園-1
紅梅殿の庭
紅梅殿-庭園
庭の南側の広場では、2月25日の梅花祭で上七軒の芸舞妓による野点が行われます。
菅原道真の誕生日が6月25にで、命日が2月25日であることから
毎月25日は縁日とされています。
縁日には境内に多くの市が立って賑わいます。
御手洗川-1
広場の東側に御手洗川があり、祭事の際には水が流されるようです。
御手洗川-2
御手洗川に沿って南の下流側へ進みます。
宗像社
南の絵馬所前から西へ進んだ左側に宗像社があり、宗像三女神が祀られています。
かって、この社殿の西に池があり、その水底に祀られていた御神体が
現在地に遷座されました。
大杉社
宗像社の南側に大杉社があり、樹齢千年を超えると伝わる
杉の切り株が祀られています。
室町時代に作成された『社頭古絵図』には、二又の杉の巨木が描かれ、
聖歓喜天が宿る諸願成就の御神木として信仰されていました。

紅葉苑と梅花苑から一の鳥居へ向かいます。
続く

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