タグ:聖徳太子

寺号標
自宅から無動寺へバイクで向かいましたが、125ccのため、名神高速が利用できず、
約2時間を要しました。
神戸市北区にあって、山号を「若王山」と号する高野山真言宗の寺院で、
近畿三十六不動尊霊場・第10番、摂津三十三ヶ所観音霊場・第9番などの札所です。
創建されたのは第33代・推古天皇の御代(在位:593~628)で、
開基は聖徳太子(574~622)とされています。
敏達天皇14年(585)に大臣・蘇我馬子(?~626)が第30代・敏達天皇(びだつてんのう/
在位:572~585)に奏上して仏法を信奉する許可を求め、天皇がこれを許可した頃
から疫病が流行し、物部守屋(?~587)は異国の神を信仰したため疫病が起きたと
奏上し、これの禁止を求めました。
守屋は自ら寺に赴き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませるなど
強硬な手段に打ってでました。
これに対し、太子は守屋を倒そうとして鞍作止利(くらつくり の とり:生没年不詳)
に命じて大日如来像や諸尊の像を彫らせて戦勝を祈願しました。
太子や馬子などが軍勢を率いて守屋の館を攻撃し、勝利したので太子が七堂伽藍を
建立して福寺(普救寺)と名付け、それが無動寺の始まりとされています。
手水舎
参道を進むと手水舎があり、「蓮華浄水」と記されています。
本堂
本堂
無動寺は、創建後幾度かの盛衰の変遷があり、
記録等も散逸して変遷の詳細は不明となりました。
当地出身の眞源阿闍梨(1689~1758)が帰省の折、無動寺の荒廃を見て
復興の悲願を発願し、20数年勧進して宝暦2年(1753)3月に再興されました。
眞源阿闍梨は高野山成蓮院にも住していた高僧であったことから
高野山真言宗へ改宗されたと思われます。
本像は像高2.785mの大日如来坐像で、左側に像高1.2mの釈迦如来坐像、
右側に像高1.2mの阿弥陀如来坐像が安置されています。
手前に像高1.5mの十一面観世音菩薩立像と像高84cmの不動明王坐像が
安置されています。
何れも平安時代作で国の重要文化財に指定され、大日如来は神戸十三佛霊場、
十一面観音は摂津三十三ヶ所観音霊場、不動明王は近畿三十六不動尊霊場の
札所本尊でもあります。

その他、兵庫県の文化財に指定されいる平安時代作で像高1.2mの阿弥陀如来坐像や
無指定ながらも平安時代作の地蔵菩薩立像、青不動明王立像、三体の弘法大師坐像、
弁財夫座像、大黒天立像、毘沙門天立像、地蔵菩薩座像、聖徳太子二才像
(いずれも江戸時代作)など、多数の仏像が安置されています。
納経は本堂で行われ、別に本堂への参拝には300円が必要です。
不動堂
本堂前に厄除不動明王を祀る不動堂があります。
護摩堂でもあるようです。
鐘楼
左へ進むと鐘楼があります。
一願大師像
庫裏根への門の北側に一願大師像が祀られています。
庫裡
庫裡
鳥居
境内の西側に鳥居が建っています。
若王子神社
鳥居をくぐり、登った先に若王子神社があります。
永仁5年(1297)に橘長綱によって創建され、応永5年(1408)に橘光綱により
再建され、国の重要文化財に指定されています。
かっては無動寺の鎮守社で「若王子権現」と呼ばれていましたが、
明治の神仏分離令により独立し、「若王子神社」と称されています。

大龍寺へ向かいます。
続く
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仁王門
荘厳寺の北へバイクで20分足らず、西脇市から丹波市へ入った所に
石龕寺(せきがんじ)があります。
山号を「岩屋山」と号する高野山真言宗の寺院で、第31代・用明天皇2年(587)に
聖徳太子(574~622)により創建されたと伝わります。
用明天皇2年(587)に用明天皇が崩御され、皇位を巡り
崇仏派の蘇我馬子(そが の うまこ?~626)と排仏派の物部守屋(?~587)との
争いになり、太子は馬子の軍に加わって戦いました。
戦いに挑み、太子は自ら毘沙門天像を刻んで兜の真甲に頂き、合戦に勝利すると
毘沙門天像は空高く飛んで、当地に降り立ったとされています。
太子は毘沙門天を探して諸国を巡り、この地の山の頂に瑞雲がたなびいているのを
見つけて山へ入ると、探していた毘沙門天が石龕の中にありました。
太子はその石龕の横に一宇を建て、毘沙門天を安置したのが
石龕寺の始まりとされています。

仁王門は鎌倉時代(1185~1333)に再建されました。
石龕寺は鎌倉時代から室町時代に隆盛を極めて多くの坊を有し、
南北朝時代から室町時代には石龕寺の修験者達が熊野本宮への先達を務めました。
仁王門-阿形
仁王像は仁治3年(1242)に仏師・肥後別当定慶(ひごべっとうじょうけい:
1184?~?)により造立され、国の重要文化財に指定されています。
肥後別当定慶は、運慶(?~1224)の次男・康運(こううん)が改名したとの見方が
有力で、興福寺東金堂の維摩居士像(国宝)などを造立した定慶(生没年不詳)とは
別人であることから区別するために「肥後別当定慶」と呼ばれています。
阿形
仁王門-吽形
吽形
町石
門の手前には町石が残されています。
町石は、「町石卒塔婆(そろうば)」とも呼ばれ、寺社への道しるべとして
一丁(約110m)毎に立てられ、石龕寺の町石は全て五輪卒塔婆です。
岩屋道、寺坂道の参道に立てられ、現在では25基が残されています。
江戸時代中期に本堂が現在地へ移されたのに伴い、岩屋道の町石が全て
並べ替えられたことにより、これが二丁目になり、ここから約600m下った所にある
八丁目の町石には応永6年(1399)に造立されたとの銘が残されています。
これだけの数の町石が残されているのは珍しく、高野山の町石と共に有名で、
兵庫県の文化財に指定されています。
仁王門からの参道
仁王門からの参道
石龕寺は紅葉の寺としても有名で、参拝したのは11月の初めでしたが、
中旬から下旬にかけて、境内は深紅に染まるそうです。
毎年11月第3日曜日には「足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り」が催され、
護摩供養、武者行列などが行われています。
本堂
本堂(毘沙門堂)
かって、ここから約20分登った山上に奥の院があり、本堂が建立されていましたが、
宝暦13年(1763)に焼失し、安永7年(1788)に現在地で再建されました。
南北朝時代(1337~1392)に足利尊氏(1305~1358)が
弟の直義(ただよし:1307~1352)と争い(観応の擾乱)に敗れ、
尊氏が三男の義詮(よしあきら:1330~1367)や仁木頼章(にき よりあき:
1299~1359)及びその弟・義長(1300?~1376)を従え、播磨へ逃れる時に
当山へ立ち寄りました。
この時、僧が足利氏に名物の丹波栗を献上した際、
義詮はその一つの栗に爪痕を付け、
「都をば 出て落ち栗の 芽もあらば 世に勝ち栗と ならぬものかは」
と歌を添え、「もしこの栗が芽を出せば、都へ出て天下を取ったものと思ってくれ」
と言ってその栗を植えて去りました。
その通りとなったことから「爪あと栗」、「ててうち栗」と呼ばれて
伝えられています。

その後、織田信長(1534~1582)の命を受けた明智光秀(1516~1582)による
丹波平定の兵火で全山焼失し、山門を残すのみとなりました。
本堂は奥の院で再建されましたが、宝暦13年(1763)に焼失し、
現在地で再建されました。
薬師堂
左側に薬師堂があります。
焼尾神社
更に左へ進むと焼尾神社があります。
仁治2年(1241)に創祀され、石龕寺の鎮守として弁財天が祀られていましたが、
明治の神仏分離令により市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られるようになりました。
三社
北側の社殿、中央は五霊神社で、右側は八幡大神・太神社・八坂大神の相殿、
左側は天満宮・愛宕神社・稲荷大明神などの相殿です。
水掛不動明王
本堂から右側へ進むと水掛不動明王が祀られています。
水子地蔵
水子地蔵が祀られている本堂への石段下まで下ります。
奥の院橋
奥の院橋があり、それを渡って登ると奥の院への参道入口があります。
奥の院への参道入口
奥の院へは片道約20分を要しますので、参拝は断念しました。
石龕寺の「龕」とは、仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味し、
奥の院にある石窟が石龕寺の寺号の由来となりました。
平成6年(1994)に奥の院の整備が行われました。

伊尼神社(いちじんじゃ)へ向かいます。
続く
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寺号標
神呪寺(かんのうじ)から北西方向へ、バイクで30分余りの距離に
鏑射寺(かぶらいじ)があります。
所在地は神戸市北区道場町ですが、カテゴリーは兵庫県北摂地域に含めます。
鏑射寺は山号を「獨鈷山(とっこさん)」と号する真言宗系単立の寺院で、
西国愛染十七霊場・第3番、摂津三十三ヶ所観音霊場・第10番などの札所です。

標高327mの鏑射山の山頂付近にあって、古くからこの山は神体山とされ、
「神秀倉」、「甘楽山」、「五智の峰」などと呼ばれ、崇められていました。
聖徳太子(574~622)の生母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:
?~622)誕生の地とされ、その縁で聖徳太子がこの地を気に入り、
第30代・敏達天皇(びだつてんのう)10年(581)に伽藍を建立して、
仏教弘通(ぐつう)の道場とされました。
その際、鏑矢が奉納されて「鏑射寺」と名付けられ、平安時代(794~1185)には
空海(774~835)が独鈷で境内に井戸を掘り、山号となったと思われます。
南北朝時代(1337~1392)の戦火と江戸時代(1603~1868)の山火事で焼失し、
文久2年(1862)に勇阿上人によって再興されました。
客殿-1
参道を進んだ正面に客殿(慶湧殿)があります。
客殿-2
客殿の高さまで登るとその右側に納経所があります。
常楽庵
客殿から参道を挟んだ左側に常楽庵があります。
鐘楼
その先に鐘楼があります。
本堂
参道の正面に本堂があります。
明治6年(1873)に三田の不逞(ふてい)士族が天誅組を名乗って寺社を襲撃し、
当寺も襲われて焼失しました。
その後、焼け残った本尊と太子堂は他の場所に移されて当寺は廃寺となりました。
昭和30年(1955)秋に第124代・昭和天皇(在位:1926~1989)の皇后・
香淳皇后(こうじゅんこうごう:1903~2000)の兄である
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう:1901~1959)が当地へ入られ、
鏑射寺の再建と国家国民の安寧を祈られました。
現在の本堂は平成4年(1992)に再建され、堂内には本尊の大日如来の他、
十一面観音菩薩・愛染明王・毘沙門天などの諸仏が祀られています。
大師堂
本堂の左側に弘法大師を祀る大師堂があります。
昭和34年(1959)に中村公隆( なかむらこうりゅう:1927~ )大阿闍梨が
鏑射寺へ入られて復興が始まり、境内の建物はそれ以降に新たに建立されました。
石塔
大師堂の左側には往古の石塔などが集められています。
庭園-1
大師堂の前には池泉回遊式庭園があります。
庭園-大賀ハス
池には「大賀ハス」が植栽されています。
昭和26年(1951)に植物学者の大賀一郎博士(1883~1965)が、
千葉市の検見川厚生農場内の落合遺跡で、今から2,000年以上前の古代のハスの実を
発見し、これを発芽、開花させました。
このハスは「大賀ハス」と名付けられて千葉県の天然記念物に指定され、
現在では日本各地に移植されています。
三重塔
本堂から右側へ進むと三重塔があります。
昭和48年(1973)5月に建立され、虚空蔵菩薩が祀られています。
三重塔-鳥居
三重塔の右側に鳥居が建っています。
三重塔-石の祠
鳥居をくぐり5分ほど登ると標高327mの鏑射山の山頂です。
古代には祭祀が行われていたと想像され、
現在では石の祠があり、鏑射大権現が祀られています。
護摩堂
三重塔から右へ進むと護摩堂があります。
中村公隆大阿闍梨が、雑木と雑草で荒れ地となっていた当地へ入られ、
開墾・整地して昭和45年(1970)に護摩堂が最初に建立されました。
本尊は不動明王で、左に弘法大師、右に聖観世音菩薩像が安置されています。
石段
南へ進むと東への石段があります。
樽
登り口に大きな樽があり、扉が付けられていますが、樽を締めている
編まれた竹が下がり、扉を開けることはできませんでした。
弁天堂
石段を登った所に弁天堂があります。
平成6年(1994)に建立され、弁財天が祀られています。

三田市の欣勝寺(きんしょうじ)へ向かいます。
続く
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展望
伊和志津神社から南西方向へ、バイクで5分足らずの距離に宝塚神社があります。
背後に標高489mの岩倉山があり、これを磐座、或いは修験道の道場として
明治以前までは「山王権現」と称されていました。
境内からは遠く生駒山や金剛山、大阪北方面のビル群などが望め、
日の出が拝める景勝の地です。
本殿
本殿
明治の神仏分離令により「日吉神社」と改められ、昭和41年(1966)に
素盞嗚神社を合祀して「宝塚神社」へ改称されました。
主祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)で、素戔嗚命(すさのおのみこと)、
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)、菅原道真、道祖神が
配祀神として祀られています。
愛宕社
火之迦具土神を祀る愛宕社と天照大御神を祀る大神社。
八幡社
右から誉田別命(ほんだわけのみこと=第15代・応神天皇)を祀る八幡社、
八衢之神(やちまたのかみ=猿田彦神)を祀る賽神社(さいのかみしゃ)、
住吉神社・伊勢神宮・春日神社の三社。
子授けの石
賽神社と三社との間に「夫婦和合・子授けの石」があります。
正保3年(1646)、元賽神社があった、現在の小林三丁目の三叉路に
男児出生御礼で、男根の形をした石が寄進されました。
その左側のハート形にくり抜かれた「女石」とで夫婦和合の象徴とされています。
恵比須神社
恵比須神社
古来から素盞嗚神社の末社として創祀され、素盞嗚神社が当社に合祀されたのに伴い、
当地に遷座されました。
現在の社殿は、清荒神清澄寺で三宝荒神が祀られていた天保年間(1830~1844)に
建てられた社殿で、社殿の建て替えの際に譲渡され、移築されました。
「宝塚えびす」として信仰を集め、1月の10日を本祭としてその前後合わせて三日間に
えびす大祭が行われています。
祭神は蛭子大神で、大祭当日に高さ二尺八寸(85cm)の御神像が特別開帳されます。
恵比須神社-恵比須像
社殿には小さな恵比須像が多数奉納されています。
天満神社
菅原道真(845~903)を祀る天満神社。
鳥居
鳥居をくぐり平林寺(へいりんじ)へ向かいます。
鐘楼
少し下ると鐘楼があります。
平林寺-本堂
本堂
平林寺は山号を「武庫山」と号する真言宗系単立の寺院で、
飛鳥時代(592~710)、第31代・用明天皇(在位:585~587)の命により、
聖徳太子(574~622)が創建したと伝えられています。
平安時代(794~1185)に神呪寺(かんのうじ)で出家した、
如一尼(にょいつに:生没年不詳)によって再興されました。
第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう/在位:823~833)の
第四妃・真名井御前は、天長5年(828)にひそかに宮中を抜け、
真名井御前に仕えていた如一尼と共に頂法寺で修業を行い、神呪寺で出家しました。

如一尼によって再興された平林寺は、
三十余坊の塔頭が建ち並ぶ大寺院となりましたが、
天正7年(1579)、有岡城(伊丹城)に籠城した荒木村重(1535~1586)を
織田信長(1534~1582)の軍が攻撃した際、その兵火に巻き込まれて焼失し、
江戸時代(1603~1868)に再興されました。
本尊として安置されている釈迦如来坐像は室町時代(1336~1573)の作で、
宝塚市の文化財に指定されています。
平林寺-不動明王像
不動明王像

平林寺-観音堂への石段
石段の上に観音堂があります。
平林寺-観音堂
観音堂
平林寺-妙見堂
左側には日蓮宗の題目碑が建っていることから、妙見菩薩を祀る妙見堂と思われます。
平林寺-露盤
本堂への石段脇に石造露盤(ろばん)があります。
露盤は、雨露の侵入を防ぐ為に塔などの屋根の頂に置かれたもので、
多くは鉄や銅などの金属製ですが、石造は全国的にも17基しかない貴重なもので、
市の文化財に指定されています。
鎌倉時代中期の文永年間(1264~1275)の作と推定され、
上面中央に円形の宝珠を受ける宝珠受けがあります。
平林寺-修行大師像
修行大師像
平林寺-阪急今津線
石段の正面には阪急の今津線が参道を横切っています。
平林寺-薬師堂
薬師堂
薬師如来が祀られています。
石造露盤は、かっての薬師堂で使用されていたそうです。

神呪寺へ向かいます。
神呪寺の所在地は兵庫県西宮市ですが、カテゴリーは兵庫県北摂地域に含めます。
続く
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寺号標石
正明寺は蒲生郡日野町大字松尾556にあり、山号を法輪山と号する黄檗宗の寺院です。
推古天皇の御代(554~624)に聖徳太子によって創建されたと伝わります。
平安時代には延暦寺の地方大寺として栄え、
93の支院と300余りの僧坊を有する大寺院となりました。
しかし、永禄11年(1568)9月7日、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、
征戦沿道の敵対勢力を排除しました。
正明寺は悉く灰燼に帰し、寺領は没収され、93あった支院も1院を残して散逸しました。
本尊の十一面千手観世音菩薩、脇侍の不動明王、毘沙門天の三尊は、
兵火の中を持ち出され、難を逃れました。
その後、江戸時代になって永源寺の僧・一絲文守(いっしぶんしゅ)和尚の尽力により、
後水尾上皇の勅建寺として再興されました。
無縁塔
石畳の参道を進むと山門があり、その手前に石仏や墓石が
ピラミッド状に積まれた無縁塔があります。
地蔵堂
無縁塔の北側には地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
堂内には地蔵菩薩の石像が安置されています。
徳本名号碑
山門の左側には「南無阿弥陀仏」と刻字された「徳本名号碑」が建っています。
徳本=もろもろの功徳の根本である名号。
山門
山門は屋根の両端に鯱を配し、中央に宝珠が載せられた黄檗宗の門となっています。
寛文4年(1664)1月、臨済宗黄檗派の僧・龍溪性潜(りゅうけいしょうせん)禅師が
正明寺に入寺し、禅堂、経堂等を整え専用道場の寺格を整えました。
本堂
門をくぐると正面に本堂があり、左右には屋根付の廊下の中に建物が配置されています。
現在の本堂は正保2年(1645)に、後水尾上皇から京都御所の清涼殿
下賜されて移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
正面の柱間5間、側面4間の桃山様式の建物で、正面に唐破風造の向拝が付けられています。
本尊
パンフレットに掲載されている本尊。
堂内には後水尾上皇宸筆の扁額「正明寺」が掲げられ、厨子内には
本尊の千手観音立像と脇侍として左に毘沙門天、右に不動明王像が安置されています。
臨鏡亭
本堂の右側には臨鏡亭が付随していますが、現在では使われていないように見えます。
本堂前庭-右
臨鏡亭前から山門への光景です。
賓頭盧尊者
本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
本堂前庭-左
本堂の左側から山門への光景です。
方丈玄関
本堂の左側には方丈の玄関がありますが、方丈は公開されていないようです。
方丈から南側に庫裡が棟続きとなっています。
斎堂
庫裡に続き斎堂(さいどう)があります。
斎堂とは食堂の事で、南側に棟続きで台所があります。
斎堂の前には手水舎があります。
かいばん
斎堂前に吊るされている開梆(かいぱん)は木魚の原型とされ、鯉に似た姿で
玉をくわえていますが、これは玉ではなくあぶく(煩悩)です。
眼を閉じることのない魚は、不眠不休を象徴し、
あぶくを吐くことで煩悩から解放されるとのことです。
禅堂
斎堂の向かい側には禅堂があります。
斎堂と禅堂及び浴場は境内の三黙道場と云われ、内部は非公開となっています。
大日如来像
パンフレットに掲載されている大日如来像
禅堂の堂内には鎌倉時代作で県の文化財に指定されている
大日如来坐像が安置されています。
放生池
禅堂の北側には放生池があり、中島には弁財天が祀られていると思われる祠があります。
経堂
禅堂から東側の石段を登った所に、県の文化財に指定されている経堂があります。
黄檗宗の僧・鐵眼道光(てつげん どうこう)から後水尾上皇に献上された
鉄眼一切経が正明寺に施入されたことにより経堂が建立され、元禄9年(1696)に竣工しました。
寛文9年(1669)、鉄眼禅師が一切経の開版を志し、黄檗宗の大本山・萬福寺を開いた
隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として宝蔵院を創建しました。
天和元年(1681)に完成した、全6,956巻の一切経には6万枚の版木が使われました。
その版木が日本の原稿用紙形式の起源とされています。
文字には明朝体が使われ、書体としての明朝体はこれから発したものです。
正明寺に納められているのは初刷で朝廷に献上された「初刷禁裏献上本」で、
県の文化財に指定されています。
開山堂-1
開山堂-2
経堂の北側に開山堂があり、龍溪性潜(りゅうけいしょうせん)禅師像が安置されています。
宝篋印塔
付近には宝篋印塔が建っています。
鐘楼-表
禅堂の南側に鐘楼がありますが、表からだと何の建物か判りません。
鐘楼-裏
裏側に回ってみました。

龍王寺へ向かいます。
続く

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