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無動寺(神戸市)
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正明寺は蒲生郡日野町大字松尾556にあり、山号を法輪山と号する黄檗宗の寺院です。
推古天皇の御代(554~624)に聖徳太子によって創建されたと伝わります。
平安時代には延暦寺の地方大寺として栄え、
93の支院と300余りの僧坊を有する大寺院となりました。
しかし、永禄11年(1568)9月7日、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、
征戦沿道の敵対勢力を排除しました。
正明寺は悉く灰燼に帰し、寺領は没収され、93あった支院も1院を残して散逸しました。
本尊の十一面千手観世音菩薩、脇侍の不動明王、毘沙門天の三尊は、
兵火の中を持ち出され、難を逃れました。
その後、江戸時代になって永源寺の僧・一絲文守(いっしぶんしゅ)和尚の尽力により、
後水尾上皇の勅建寺として再興されました。
石畳の参道を進むと山門があり、その手前に石仏や墓石が
ピラミッド状に積まれた無縁塔があります。
無縁塔の北側には地蔵堂があります。
堂内には地蔵菩薩の石像が安置されています。
山門の左側には「南無阿弥陀仏」と刻字された「徳本名号碑」が建っています。
徳本=もろもろの功徳の根本である名号。
山門は屋根の両端に鯱を配し、中央に宝珠が載せられた黄檗宗の門となっています。
寛文4年(1664)1月、臨済宗黄檗派の僧・龍溪性潜(りゅうけいしょうせん)禅師が
正明寺に入寺し、禅堂、経堂等を整え専用道場の寺格を整えました。
門をくぐると正面に本堂があり、左右には屋根付の廊下の中に建物が配置されています。
現在の本堂は正保2年(1645)に、後水尾上皇から京都御所の清涼殿を
下賜されて移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
正面の柱間5間、側面4間の桃山様式の建物で、正面に唐破風造の向拝が付けられています。
パンフレットに掲載されている本尊。
堂内には後水尾上皇宸筆の扁額「正明寺」が掲げられ、厨子内には
本尊の千手観音立像と脇侍として左に毘沙門天、右に不動明王像が安置されています。
本堂の右側には臨鏡亭が付随していますが、現在では使われていないように見えます。
臨鏡亭前から山門への光景です。
本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
本堂の左側から山門への光景です。
本堂の左側には方丈の玄関がありますが、方丈は公開されていないようです。
方丈から南側に庫裡が棟続きとなっています。
庫裡に続き斎堂(さいどう)があります。
斎堂とは食堂の事で、南側に棟続きで台所があります。
斎堂の前には手水舎があります。
斎堂前に吊るされている開梆(かいぱん)は木魚の原型とされ、鯉に似た姿で
玉をくわえていますが、これは玉ではなくあぶく(煩悩)です。
眼を閉じることのない魚は、不眠不休を象徴し、
あぶくを吐くことで煩悩から解放されるとのことです。
斎堂の向かい側には禅堂があります。
斎堂と禅堂及び浴場は境内の三黙道場と云われ、内部は非公開となっています。
パンフレットに掲載されている大日如来像
禅堂の堂内には鎌倉時代作で県の文化財に指定されている
大日如来坐像が安置されています。
禅堂の北側には放生池があり、中島には弁財天が祀られていると思われる祠があります。
禅堂から東側の石段を登った所に、県の文化財に指定されている経堂があります。
黄檗宗の僧・鐵眼道光(てつげん どうこう)から後水尾上皇に献上された
鉄眼一切経が正明寺に施入されたことにより経堂が建立され、元禄9年(1696)に竣工しました。
寛文9年(1669)、鉄眼禅師が一切経の開版を志し、黄檗宗の大本山・萬福寺を開いた
隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として宝蔵院を創建しました。
天和元年(1681)に完成した、全6,956巻の一切経には6万枚の版木が使われました。
その版木が日本の原稿用紙形式の起源とされています。
文字には明朝体が使われ、書体としての明朝体はこれから発したものです。
正明寺に納められているのは初刷で朝廷に献上された「初刷禁裏献上本」で、
県の文化財に指定されています。
経堂の北側に開山堂があり、龍溪性潜(りゅうけいしょうせん)禅師像が安置されています。
付近には宝篋印塔が建っています。
禅堂の南側に鐘楼がありますが、表からだと何の建物か判りません。
裏側に回ってみました。
龍王寺へ向かいます。
続く