舞鶴クレインブリッジ
多禰寺から戻り、再び舞鶴クレインブリッジを渡ります。
舞鶴クレインブリッジは舞鶴平湾に架けられた全長735m、主塔の高さは92mになる
鋼製の白い斜張橋で、平成11年(1999)5月に開通しました。
2羽の鶴をイメージして設計されたもので、主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは
羽をイメージして造られ、英語で「鶴の橋」を意味する「クレインブリッジ」と名付けられました。
橋を渡った先で左折して、府道21号線のトンネルを抜けた先に舞鶴引揚祈念館があります。
赤れんが博物館との共通入館券400円を購入して、冷房の効いた館内へと入り、
しばらくの間は猛暑から解放されました。
赤紙
臨時召集令状
館内で最初に目に付いたのは陸軍省の臨時召集令状です。
「赤紙」と呼ばれ、当初は真っ赤でしたが、
物資不足による染料の節約で淡紅色となって行きました。
この紙を受け取った人の何割が日本に帰れたのかと思うと心が痛みます。
月~金曜日の午後12:30から放映されている「やすらぎの刻~道」では、
赤紙を破って山へ逃げた人物の放送がありました。
多数の捜索隊が編成され、執拗な捜索が行われましたが、
彼は猟師で山に精通していたため、逃げ切れたようです。
また、その弟は徴兵を逃れるため自殺しました。
猟師でもない自分がその立場だったら...と考えさせられた場面でもありました。
ジオラマ
館内には舞鶴引揚時のジオラマが展示されています。
終戦時、海外には軍人及び一般人を含めて660万人以上が在住していたと考えられています。
引揚事業を早期に終了させるために、厚生省はGHQの指令を受けて
引揚援護庁を設置しました。
厚生省は昭和20年(1945)11月24日に佐世保、博多、鹿児島、唐津、仙崎、宇品、
舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置するよう告示しました。
舞鶴には昭和20年(1945)10月7日に第一船の入港がありました。
舞鶴引揚援護局は昭和20年から昭和33年(1958)まで13年間に渡り、
昭和25年(1950)以降は国内唯一の引揚港として重要な役割を果たしました。
満州
満州へ渡った日本人の引揚は過酷すぎるもので、多くの人が亡くなり、
民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、
さらには沖縄戦を凌ぐものとなりました。
昭和7年(1932)3月1日に中華民国から独立宣言し、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくら ふぎ)を元首として満洲国の建国が開始されました。
満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)が組織され、昭和恐慌で疲弊する内地農民を
昭和11年(1936)まで、試験的に年平均3000人を大陸へ送り出しました。
昭和11年(1936)に2.26事件が発生し、政治に軍部の力が増してくると、
移住計画はさらに加速され、昭和20年(1945)までに155~200万人の
日本人が満州へ渡ったとされています。
昭和12年(1937)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、
満15~18歳の青少年、約8万人が海を渡りました。
昭和16年(1941)からは、統制経済政策により失業した都市勤労者からも
開拓団を編成され、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住しました。
大戦の末期には開拓団からの招集も増えるようになり、特に昭和20年(1945)7月の
「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されました。
旧ソ連は、日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を締結していたにも関わらず、
日本の敗戦色が濃くなった終戦間際の昭和20年(1945)8月8日に条約を一方的に破棄し、
満州や朝鮮半島などに侵攻を開始しました。
大半が老人、女性、子供となり、男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かいましたが、
規律の緩いソ連兵は、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返しました。
更に地元民からの襲撃や、収容所における伝染病感染を含む病死など、
難民生活で約8万人が死亡しました。
ソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、
ソ連から中華民国の占領下になってから行われました。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人とされていますが、内20万人が亡くなり、
その4割を開拓団員が占めました。
満州からの引揚は昭和21年(1946)5月から始まり、
夏には本格化して年内には大半の日本人が引揚ました。
収容所
館内にはシベリア抑留者の生活が再現されています。
旧ソ連は、昭和20年(1945)8月8日に満州や朝鮮半島などに侵攻を開始し、
8月14日に日本がポツダム宣言を受諾して武装解除したにも拘らず、
ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領しました。
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を
下していたのですが、8月23日にはこれを翻し、日本軍捕虜63万9635人の
ソ連内の捕虜収容所へ移送し、非人道的な強制労働を行わせる命令を下しました。
過酷な労働と乏しい食事で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割を超す
約7万人の死亡者を出したとされています。
ソ連兵は抑留者から腕時計を奪い、ネジを巻くことを知らず、それが止まるとそれを捨て、
別の人から腕時計を奪ったとシベリアから帰国した父から聞かされたことがあります。
そのようなソ連兵を侮辱した言葉で「ロスケ」と呼んだ、と聞かされたことは
覚えていますが、それ以外の詳細なことは記憶にありません。
多分、それ以外の事を聞かなかったし、父も話さなかったからだと思いますが、
父が亡くなった今、もっと聞いておけば良かったと後悔しています。
昭和22年(1947)から日ソが国交回復する昭和31年(1956)にかけて、
抑留者の日本への帰国事業が行われました。
抑留所の分布
旧ソ連内の抑留者収容されていた分布図
展示品
中段左側の朝食は「コウリャン」と呼ばれる穀物で作ったおにぎりとスープでした。
昼食の黒パンは固く酸味の強いパンで、収容所によっては一食に一切れしか与えられませんでした。
夕食は粟のおにぎりと水のようなスープで、栄養的にも空腹を満たすにも、全く不十分です。
その右側にあるのが黒パンで、見た目にも美味とは言えず、
実際には薄くスライッスされたものが支給されていたそうです。
舞鶴引揚記念館に収蔵されている資料の内、570点がユネスコの世界記憶遺産に登録されています。
アリシェルナヴォイ劇場
劇場の碑
企画展会場では、東京オリンピック2020で舞鶴市がウズベキスタンのホストタウンに
内定したことを記念して「ウズベキスタン抑留~抑留から交流へ~」展が開催されていました。
アリシェルナヴォイ劇場には「抑留された数百名の日本人が建設に参加し、
その完成に貢献した」と記されたプレートがはめこまれています。
民族衣装
民族衣装
復員桟橋
引揚祈念館から展望広場への遊歩道がありますが、暑いので止めました。
府道21号線を少し北上した先を左折して、西へ大きくカーブして進んだ先に
復員引揚桟橋が復元されています。
海中の杭
海には多くの杭が撃ち込まれ、その外側に大型船が停泊し、
大型船と桟橋の間を小型船が往復して復員者を運んだと思われます。
かっては、木造の小さな桟橋がいくつもあったようです。

赤れんが博物館へ向かいます。
続く

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