三角点
建勲神社の西側に標高111.89mの船岡山の三等三角点があります。
山頂
背後は旧サイレン塔です。
山頂からの展望
山頂の南側が開け、京都市内が一望できます。
双ヶ岡から西山連山が近くに見えるのに対し、東山連峰は遠く、
現在の京都の中心部から平安京の中心部が離れていることが見て取れます。
磐座-2
船岡山は岩盤でできており、山頂にはその一部が露出しています。
磐座-1
古代は磐座として崇敬され、山の形が船のように見えたことから
「船岡山」と呼ばれるようになり、昭和43年(1968)に国の史跡に指定されました。

また、付近一帯は生薬や染料に使う紫草の生育地だったことから
「紫野」と呼ばれたと伝わります。
紫野の文献での初見は『類聚国史』の延暦14年(794)の条に、
「桓武天皇が紫野において狩りをされた」と記され、天皇や貴族の狩猟場とも
なっていたようです。
また、和歌にも詠まれる景勝地であり、清少納言は『枕草子』234段に
「岡は船岡。片岡。鞆岡(ともおか)...」と、一番手に船岡を挙げています。

一方で、船岡山の北西から紙屋川にかけての地区は「蓮台野(れんだいの)」と
呼ばれ、化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)と共に京都の三大風葬地の一つでした。
現在の千本通りは、蓮台野へ死者を運ぶ道であり、
通りに沿って千本の卒塔婆が立てられていたことに由来します。
南の千本鞍馬口には「千本ゑんま堂(引接寺)」があり、ここで引導を渡され、
蓮台野へ運ばれたと思われます。
猿舎跡
左大文字
山頂の西側には猿舎跡があり、左大文字山が望めます。
船岡山東側では大文字山が望め、当日は鑑賞する人で山は混雑するようです。
堀跡
山頂から北側に下ると堀跡らしきものが残されています。
応仁・文明の乱(1467~1477)の際、山名宗全方は五辻通大宮東に本陣を敷き、
船岡山に城が築かれました。
山名宗全方が西に陣地を置いたことが、西陣の地名の由来となりました。
また、永正8年(1511)8月の船岡山合戦でも細川澄元、細川政賢(まさかた)が
城を築いています。
ラジオ塔
更に下ると旧ラジオ塔があります。
昭和10年(1935)にラジオ放送を聴くために建造されたもので、
ラジオ塔は、昭和5年から戦中にかけて、全国で300基以上が建造されました。
舞台
旧ラジオ塔から石段を登ると野外コンサート会場があります。
記念碑
野外コンサート会場から通路に出て、茂みの中に入ると記念碑が建っています。
昭和5年(1930)に西紫野の土地区割り整理事業が行われたことを
記念するものと思われます。
応仁永正戦跡
通路を下ると「応仁永正戦跡 舟岡山」の碑が建っています。
応仁・文明の乱(1467~1477)の際、西軍の大内正弘、山名教之(のりゆき)らが
船岡山を拠点とし、城を築きましたが、応仁2年(1468)に東軍の細川勝元により、
三方から攻め落とされました。
また、戦国時代の永正8年(1511)8月には、室町幕府将軍を巡り、
足利義尹(よしただ)を擁立する細川高国・大内義興(おおうち よしおき)と
前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元との間で争いが起きました。
細川澄元、細川政賢(まさかた)が船岡山に城を築き、丹波から長坂口を経て
攻めてきた足利義尹、細川高国、大内義興らの軍を迎え撃ちましたが、
政賢は戦死し、澄元は実家の阿波に逃亡しました。
公園
更に下ると船岡山公園の入口があります。
織田信長の死後、豊臣秀吉は船岡山に信長の菩提寺の建立を計画しましたが、
計画は頓挫し、船岡山は大徳寺に寄進されました。
昭和6年(1931)、都市計画により船岡山公園となりました。

東参道まで戻り、北進すれば大徳寺ですが、東へ進み常盤井跡から
玄武神社、小野篁・紫式部の墓を経て大徳寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村