西園寺から南へ進み、その先の四つ角を西へ進んだ所に上御霊神社の南門があります。
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
上御霊神社は、正式には「御靈神社」で、神仏霊場の第100番札所です。
平安京に遷都された延暦13年(794)の5月に、早良親王(崇道天皇)の御霊を
この地に祀ったのが上御霊神社の始まりとされています。
また、この地にあった出雲氏の氏寺・上出雲寺(かみいずもでら)の鎮守社を
第50代・桓武天皇の御願により王城守護の鎮守社としたのが、
始まりとする説もあります。
桓武天皇が建設途中だった長岡京から遷都するには訳がありました。
延暦4年(785)、長岡京造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、
その事件に天皇の弟の早良(さわら)親王が関与したとされ、
乙訓寺に監禁されましたが、無実を訴えて絶食しました。
後に流罪処分となり、淡路国へ配流される途中に
河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が病死する一方で、洪水が発生するなど、
災難が相次ぎました。
桓武天皇はそれらは早良親王の祟りであるとして、幾度か鎮魂の儀式が執り行い、
更に平安京へと遷都し、崇道天皇の神霊を祀ったのが
上御霊神社の始りとされています。は延暦19年(800)に「崇道天皇」と追号され、
延暦24年(805)には親王の遺骸が淡路島から
奈良市八島町の崇道天皇陵へ移葬されました。
その後、第54代・任明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)、
第56代・清和天皇(在位:858~876)により不運の死を遂げた
5人の神霊が祭神として追祀されました。
貞観5年(863)には宮中・神泉苑において、以上の六座の神座を設け悪疫退散の
御霊会を勅修されました。
御霊会は民衆の参加が許され、歌舞音曲や踊りなどが行われ、
後に各地の寺社で同様の行事が開催されるようになりました。
京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、上御霊神社の祭礼がその発祥とされています。
その後、第54代・任明天皇により下御霊神社が創建され、下御霊神社を
「下出雲寺御霊堂」、上御霊神社は「上出雲寺御霊堂」と称されました。
門を入ると左側(西側)に平成27年(2015)に修復された御車舎があります。
収蔵されている御所車(御牛車)は、慶長年間(1596~1645)に
第107代・後陽成天皇から寄進されたものです。
毎年5月1日の神幸祭(社頭之儀)、5月18日の還幸祭(渡御之儀)で、
御所車は三基の神輿を先導します。
室町時代の文正2年1月18日(1467年2月22日)、家督相続により明け渡しを
求められた畠山政長は自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社に陣を敷きました。
当時、御霊の森は現在の2倍の面積があり、竹林に囲まれ、西には細川が流れ、
南には相国寺の堀がありました。
大軍を率いて出兵して政長を攻撃(御霊合戦)、戦いは夕刻まで続き、
夜半に政長は社に火をかけ、自害を装って逃走しました。
畠山家の家督争いに端を発して、足利義視(あしかが よしみ)・
発展しました。
この騒乱は文明9年(1477)までの約11年間に渡り全国的に拡大・継続し、
主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
正面には拝殿があります。
御霊神は至徳元年/元中元年(1384)に正一位の神階を授けられました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後は足利氏によって再建され、
天正年間(1573~1592)の社殿修造に際しては内侍所仮殿が下賜されました。
祭神は当初の早良親王(崇道天皇)に、伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文室宮田麻呂)・観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)が
併祭され、「六所御霊」と呼ばれました。
後に伊予親王・観察使に代わって井上大皇后(井上内親王)・他戸親王が祀られ、
新たに火雷神と吉備聖霊(吉備大臣)が併祭され、
「八所御霊」と呼ばれるようになりました。
現在の祭神
●崇道天皇:上述
●藤原吉子(ふじわら の よしこ:?~807):第50代・桓武天皇の夫人で
伊予親王(783?~807)を生みました。
伊予親王は、大同2年(807)に異母兄の第51代・平城天皇(へいぜいてんのう/
在位:806~809)に対する謀反の疑いをかけられ、母の藤原吉子と共に
川原寺の一室に幽閉され、飲食を止められました。
同年、伊予親王と藤原吉子は服毒自殺しましたが、後に親王は無実とされました。
弘仁14年(823)、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされ、
「藤原大夫人」と尊称されました。
●橘逸勢(たちばな の はやなり:782?~842):書に秀で空海・嵯峨天皇と共に
「三筆」と称され、延暦23年(804)には最澄・空海らと共に
遣唐使として唐へ渡りました。
大同元年(806)に帰国後は、琴と書の第一人者となり、承和7年(840)に但馬権守に
任ぜらましたが、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていました。
しかし、承和9年(842)、嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し謀反を
企てているとの疑いで、伴健岑(とも の こわみね)とともに捕縛されました。
逸勢は流罪となり、伊豆への護送途中で病死しましたが、
死後に無実であったことが判明し、無罪となりました。
●文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ:生没年不詳):承和10年(843)には
散位従五位上の官位でしたが、従者から謀反を図っているとの告発があり、
伊豆へ流罪となり、配所で没したとされています。
死後に無罪であったことが判明しました。
●井上大皇后(いのえのおおひきさき:717~775)と
●他戸親王(おさべしんのう:761~775):井上大皇后は第45代・聖武天皇の
第1皇女で、後に第49代・光仁天皇の皇后となりました。
天平宝字5年(761)、45歳で他戸親王を出産したとの記述がありますが、
当時としては極めてまれな高齢出産となるため、異説もあります。
光仁天皇が宝亀元年(770)に即位すると、宝亀2年(771)に他戸親王は
皇太子となりましたが、宝亀3年(772)に皇后が天皇を呪詛(じゅそ=呪う)したとして
皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。
更には宝亀4年(773)に薨去した光仁天皇の同母姉・難波内親王も皇后と皇太子の
呪詛による殺害とされ、二人は庶人に落とされて幽閉されました。
宝亀6年(775)4月27日、幽閉先で二人は同日に没し、その後は天変地異が相次ぎました。
●火雷神:延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こったことから、道真を火雷神とする説も
ありますが、上御霊神社では火雷神は六所御霊の荒魂とされています。
●吉備聖霊:上御霊神社では吉備真備(きび の まきび:695~775)とされています。
遣唐留学生として唐へ渡りました。
18年間唐で学び、天平7年(735)に帰国後は第45代・聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、
橘諸兄(たちばな の もろえ:684~757)政権の担い手として出世しました。
しかし、天平12年(740)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと、
乱を起こしました。(藤原広嗣の乱)
この乱は失敗に終わりましたが、第46代・孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に
藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝3年(751)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752)に再度入唐し、
翌年の天平勝宝5年(753)に、鑑真と共に帰国しました。
帰国後も真備は中央政界での活躍は許されませんでしたが、天平宝字8年(764)に
造東大寺長官に任ぜられ帰京しました。
更に同年9月に孝謙太上天皇と太上天皇が寵愛する僧・道鏡と藤原仲麻呂が対立し、
軍事力で政権を奪取しようと兵を集めました。(藤原仲麻呂の乱)
しかし、密告され、藤原仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出しました。
吉備真備は仲麻呂の誅伐を命じられ、これを果たしました。
第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/在位:733~765)は、廃位されて
淡路国への流罪となり、代わって孝謙太上天皇が第48代・称徳天皇(在位:764~770)
として重祚(ちょうそ)しました。
吉備真備は優れた軍略により乱鎮圧の功を挙げたことにより、
従二位・右大臣へと昇進しました。
真備は、共に唐へ渡った阿倍仲麻呂が、船の難破により唐へ戻され、
日本へ帰れなかったことから、真備が唐から持ち帰った陰陽道の聖典
『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』を仲麻呂の子孫に伝えたとされています。
阿倍仲麻呂一族の子孫とされる安倍晴明は、『金烏玉兎集』を
陰陽道の秘伝書として用いたと伝わります。
また、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとして、
真備は日本の陰陽道の祖とされています。
本殿の右側に「清明心の像」が建立されています。
中国・宋代の学者・司馬 光(しば こう)が幼少の頃、数人の子供達と満水の
大甕の周辺で遊んでいたところ、一人が甕に登り、
誤って水中に落ちてしまいました。
司馬 光は傍らにあった大石で甕を割って子供を助けたという故事を
像にしたもので、国際児童年(1979)にあたり、生命の尊重と子供達の健やかな
成長を祈って建立されました。
その北側に神輿庫があり、三基の神輿が収納されています
文禄4年(1595)に第107代・後陽成天皇及び元和5年(1619)に第108代・後水尾天皇から
寄進され、もう一基は明治10年(1877)に元貴船社から奉納されました。
天皇から寄進された神輿は、後陽成天皇前の第106代・正親町天皇と後水尾天皇前の
第107代・後陽成天皇が使用されていた鳳輦(ほうれん)を神輿に造り替えたもので、
元貴船社から奉納された神輿は江戸時代の中期に造られました。
その東側に建つ石灯籠。
厳島神社の西側に長宮三十社があります。
春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、
厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、
吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、
大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、上賀茂神社、下鴨神社の
相殿となります。
西側には花御所八幡宮があります。
花の御所は、室町幕府・三代将軍・足利義満が造営したとされ、
その敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、
北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町の場所で、
「室町第」とも呼ばれていました。
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を
配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれました。
その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請されたのが花御所八幡宮で、
応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火で文明8年(1476)に焼失したため、
当地へ遷座されたと思われます。
拝殿からの参道の北側に広辞苑編者で有名な新村出(しんむら いずる:
1876~1967)の歌碑があります。
「上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振(ちはやぶる)神のみめぐみ深くして
八十(やそ)ぢに満つる 幸を得にけり」
新村出は上御霊神社氏子・小山中溝町に住み、八十歳の誕生日に上御霊神社へ
参拝して献詠しました。
右側には「応仁の乱勃発地」の碑が建っています。
鳥居前を北へ進んだ左側(西側)に「緒方光琳宅跡」の碑が建っています。
緒方光琳(1658~1716)は江戸時代の画家、工芸家で、京都の呉服商「雁金屋」の
次男として生まれました。
少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しみ、
呉服商に生まれたことから、当時の先端のデザインなどにも触れ、
明快で装飾的な作品を残しました。
その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、
工芸、意匠などに大きな影響を与えました。
雁金屋は徳川家など当代一流の人物を顧客としていましたが、延宝6年(1678)に
第108代・後水尾天皇の皇后である東福門院(徳川和子=とくがわ まさこ)が
崩御されてからは経営が悪化しました。
光琳が30歳の貞享4年(1687)の時に父・宗謙が他界し、相続した莫大な財産は
遊興三昧の日々を送って湯水のように使い果たしました。
この頃に「光琳」と改名し、画業に傾注して収入源としたとされています。
北へ進んだ先の鞍馬口通を西へ進み、緒方光琳の墓がある妙顕寺(みょうけんじ)へ
向かいます。
続く
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