上醍醐登り口
准胝堂(じゅんていどう)が焼失する前までは、西国霊場で最も難所と言われた
上醍醐まで登ります。
道標では約2.6km、60分と表示されています。
鳥居
ゲートを越えてすこし進んだ所に鳥居が建っています。
女人堂
鳥居の先に女人堂があります。
正式には「成身院(じょうしんいん)」で、かって女性はここから先に進む事が許されず、
ここより山上の諸仏を拝んだことから、「女人堂」と呼ばれるようになりました。
成身院は江戸時代初期に再建され、山上の准胝観音の分身が祀られています。
水掛露仏
本堂の前には江戸時代作の不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩の
水掛露仏が祀られています。
上醍醐へはここより入山料600円が必要で、三宝院・霊宝館・伽藍の
拝観券を見せると500円に割引されます。
登り口の最初
最初は谷川のせせらぎや小鳥のさえずりを聞きながら、
緩やかな坂道を登る快適なハイキングコースのようです。
花見御殿跡-1
約10分ほど登った所に、慶長3年(1598)に催した醍醐の花見で「花見御殿」が
建てられた跡が残されています。
女人堂からの参道にも、両側に桜の木が植えられ、
茶屋8棟が設けられたと説明されています。
花見御殿跡-2
現在は杉などの大樹が繁り、下界の桜などは望めない状況で、立ち入ることもできません。
参道と谷の分かれ
先に進むと参道は谷から離れ、急な石段の連続になり、
石段は山頂付近まで途絶えることなく続きます。
難所と言われる所以がだんだん判ってきます。
不動の滝
花見御殿跡から20分余り登った所に花見御殿跡から20分余り登った所に
不動の滝があります。
不動の滝からの石段
不動の滝からもやはり石段が続きます。
音羽大王-1
音羽大王-2
石段を登って行くと、音羽大王が祀られた社殿があります。
不明な石碑
更に登って行くと石碑がありましたが、文字が読めず詳細は不明です。
峠の石仏
女人堂から登り始めて40分余り、ようやく峠のような所にたどり着きました。
石仏が祀られています。
ここから緩やかに下っていきます。
上醍醐寺務所の門
少し下って行くと、上醍醐寺務所の門があります。
清瀧宮拝殿-1
門の横を通り過ぎ、懸造りとなっている清瀧宮拝殿を見上げるように進みます。
清瀧宮拝殿-2
突き当たりの左側の石段を上った所に、国宝の清瀧宮拝殿があります。
平安時代の寛治2年(1088)に建立されましたが、
現在の建物は室町時代の永享6年(1434)に再建されたものです。
清瀧宮本殿
拝殿の奥に本殿があるようですが、直接は見えないようです。
空海が唐・長安の青龍寺から持ち帰ったと伝わる
清瀧権現(せいりゅうごんげん)が祀られています。
清瀧権現は八大龍王の一尊の善女龍王で、真言の奥義を敬って出現したとされています。
当初、清瀧権現は高雄山麓に勧請されたため、山麓を流れる川は「清滝川」と改称されました。
その後、昌泰3年(900)頃に理源大師・聖宝が現在地に勧請し、
真言密教を守護する女神となりました。
承徳元年(1097)には勝覚が上醍醐から下醍醐に分祀しました。
閼伽井-1
拝殿から奥に進むと醍醐水の閼伽井(あかい)があります。
閼伽井-2
理源大師・聖宝は貞観16年(874)に上醍醐山上で地主・横尾明神の示現により、
醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を
安置したのが醍醐寺の始まりとされています。
石段
閼伽井横の石段を上ります。
准胝堂跡
今はただの空き地になっていますが、かってここに准胝堂がありました。
跡地の奥の方に五輪塔が見え、その奥には鎮守社らしき小さな祠も見えます。
燈籠
残された青銅製の燈籠がポツンと建っています。
准胝堂の創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、幾度かの火災により焼失、
近代でも昭和14年(1939)に焼失しました。
昭和43年(1968)に再建されましたが、平成20年(2008)に落雷により焼失し、
再建の準備中とのことです。
宝篋印塔
跡地の左側には宝篋印塔が建っています。
子育地蔵尊
宝篋印塔前方の山肌に子育地蔵尊とその周囲に石仏が祀られています。
山頂への道標
山頂へ向かいます。
薬師堂
国宝の薬師堂があります。
延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願により理源大師・聖宝によって創建されました。
現在の建物は保安2年(1121)に再建されたもので、堂内には薬師三尊像(国宝)、
閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上重要文化財)などが安置されていましたが、
現在は全て霊宝館に遷されました。
如意輪堂
薬師堂から更に登っていくと崖造の如意輪堂が眼前に迫ってきます。
『醍醐寺縁起』によると貞観18年(876)に理源大師・聖宝が上醍醐を開いた際、
准胝堂と共に最初に建てた建物とされています。
慶長10年(1605)に焼失し、翌年豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本尊は如意輪観音で、脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られています。
展望
如意輪堂の前は展望が開けています。
運が良ければ大阪湾まで望めるそうです。
五大堂
如意輪堂の奥にに五大堂があります。
五大堂は延喜13年(913)に醍醐天皇の御願堂として創建されました。
以後数度の災に遭い、近年では昭和7年(1932)に護摩の火が屋根に燃え移り
国宝だった建物は焼失しました。
現在の五大堂は昭和15年(1940)に再建されました。
五大堂-堂内
堂内には壁画が描かれ、本尊の五大明王は霊宝館に遷されました。
白山権現社
五大堂の左奥に白山権現社があります。
寛平9年(897)、理源大師・聖宝により、山上の守護として勧請されました。
現在の社殿は江戸時代に豊臣秀頼により再建されました。
開山堂-1
東側にある開山堂は御影堂(みえどう)とも祖師堂とも呼ばれ、
延喜11年(911)に理源大師・聖宝の高弟であり醍醐寺第一世の
観賢(かんげん)座主により創建され、自作の聖宝像が安置されていました。
開山堂-2
文応元年(1260)に焼失し、弘長元年(1261)に再建され、新たに聖宝像も造立されました。
現在の建物は慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
経蔵
開山堂の右側に経堂があります。
旧経堂が焼失したため新しくこの地に建立されたように思います。
上醍醐陵
開山堂の前から少し下った所に白河天皇の中宮・藤原 賢子
(ふじわら の けんし)の上醍醐陵があります。
承暦3年(1079)に善仁親王(後の堀河天皇)を出産しましたが、
応徳元年9月22日(1084年10月24日)に28歳で崩御されました。
経堂跡
開山堂からの下りは、薬師堂の南側のルートにしました。
経堂跡と思われる整地された場所があります。
昭和14年(1939)8月29日、山火事が飛び火して鎌倉時代の
建久6年(1195)に建立され国宝だった経堂は焼失しました。
堂内に保管されていた一切経などは持ち出されて焼失を免れました。
ここから下ると清瀧宮拝殿の下へと続いています。
南門
下山していくと醍醐寺の南門があります。
この門から入ると仁王門前へと続くのですが、
平成30年(2018)9月4日の台風により参道に被害を受け、門は閉じられていました。
黒門
南門から下って行くと黒門があります。
この門から入ると霊宝館のまえから三宝院へと続きます。
太田垣蓮月仮寓
黒門の向かいに(南側)に太田垣蓮月仮寓(かぐう=仮住まい)跡があり、
国の登録有形文化財に指定されています。
太田垣蓮月は京都に生まれ、俗名は誠(のぶ)といい、生後10日にして
京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古の養女となりました。
生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となり、この生母の結婚が縁で、
寛政10年(1798)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らしました。
養父の光古には5人の実子がいましたが、4人は誠が養女となる前に亡くなり、
唯一成人した末子も誠が亀山で奉公中に亡くなりました。
光古は新たに養子を迎え、文化4年(1807)頃に奉公を終えた誠と結婚し、
一男二女をもうけましたが、いずれも幼くして亡くなり、
さらに文化12年(1815)には養子に入った夫も亡くなりました。
光古は再び養子を迎え、文政2年(1819)に誠と再婚して一女をもうけましたが、
文政6年(1823)に夫は亡くなり、誠は剃髪して仏門に入り、蓮月と号しました。
養父の光古も出家し、共に知恩院内の庵で暮らしていたのですが、
2年後に子を亡くし、更にその2年後には養父も亡くなりました。
養父の死を期に、蓮月は岡崎村(現在の京都市左京区岡崎)に移り、
陶芸で生計をたてました。
自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、
京のお土産として人気を博すほど評判となりました。
安政2年(1855)には少年であった富岡鉄斎を預かって育て、
京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、
また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動を行いました。
また、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られ、
この仮寓跡もその引っ越し先の一軒でした。
晩年は西賀茂村神光院の茶所で暮らし、明治8年(1875)12月10日に85歳で亡くなりました。

京都十三仏霊場5番、京の六地蔵1番札所の大善寺へ向かいます。
続く

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