真如堂の総門から西へ進むと右側(北側)に第57代・陽成天皇(在位:876~884)の
神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)があります。
陽成天皇は、生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)11月に
9歳で父・清和天皇から譲位されました。
母方の伯父・藤原基経が摂政に就きましたが、「狂気の天皇」と称され、
政治には無関心で、天皇が元服してから基経は、摂政返上を願い出て
宮中にも出仕しませんでした。
宮中で殺人事件が発生したことから、基経に迫られ、元慶8年(884)2月4日、
17歳で退位しました。
石段の両側の狛犬は岡山県の備前焼で「逆立ち狛犬」と称されています。
備前焼の狛犬は江戸時代の文化(1804~1818)・文政年間(1818~1831)の頃より
造られ始めたようで、岡山県では多く見られますが、京都市内では当社を含め、
二カ所しか存在しないようです。
石段を登れば神社の境内ですが、ここからバイクを使用して大きく迂回します。
北へ進むと第68代・後一条天皇(在位:1016~1036)と
章子内親王(しょうし/あきこないしんのう:1027~1105)の
菩提樹院陵があります。
後一条天皇は第66代・一条天皇の第二皇子で、数え8歳で即位しました。
外戚の藤原道長が摂政となり、権勢を振るいました。
藤原道長の長女・藤原威子(ふじわら の いし/たけこ:1000~1036)を中宮とし、
他の妃は持ちませんでした。
内親王二人が誕生しましたが世継ぎの皇子には恵まれぬまま、
数え29歳で突然崩御されたため、
喪を秘して弟の敦良親王(あつながしんのう=後朱雀天皇)への譲位儀を行い、
その後に上皇としての葬儀が行われました。
章子内親王は後一条天皇の第一皇女で、幼くして両親が崩御され、12歳で皇太子の
親仁親王(ちかひとしんのう=第70代・後冷泉天皇)に入内しました。
しかし、治暦4年(1068)に後冷泉天皇が即位したその2日後に天皇が崩御されたため
落飾し、同6年(1074)に院号宣下を受けて「二条院」と称し、
長治2年(1105)に80歳で崩御されました。
その参道の手前を少し西へ進んだ所に鎌倉時代の石像が二躯並んで祀られています。
両側には「大日如来」と刻まれた石灯籠が建っていますが、
印相から像は阿弥陀如来のように思われます。
今出川通りを挟んだ東北方向の「子安観音」は像高2mで、
この二躯は像高1.5m前後だそうです。
像が祀られた建物の左側の道標は、高さ212cm、幅30cmで嘉永2年(1849)に建立され、
市の史跡に指定されています。
志賀越道の道標であり、これらの像は旅人の道中の安全を祈願して
建立されたように推察されます。
現在は今出川通りの南となり、人通りも少なくて、目立たない存在となっています。
北参道へ戻りますが、こちらから直接、吉田神社への参拝は出来ません。
標高105.12mの吉田山への登山道です。
歴史的には吉田山ではなく「神楽岡」と呼ばれ、神代の時代に八百万の神が
神楽を舞った聖地とされています。
現在は緑地保全地区に指定され、様々な散策路が存在しています。
左の登山道を登って行くと、山頂広場に着きます。
標高472mの大文字山(如意ヶ嶽)が望め、吉田神社の社伝では、天照大御神が
天岩戸に隠れた際に、諸神が神楽を奏した場所とされています。
その後、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)と
賀茂御祖神が神代の楽を奏し、「神楽岡」と称されるようになった伝えています。
南へ進むと「霊元法皇御幸址」の碑があります。
第112代・霊元天皇(在位:1663~1687)は、僅か8歳で即位し、貞享4年(1687)に
東山天皇へ譲位して、幕府が反対する院政を父の後水尾法皇に次いで行い、
正徳3年(1713)に落飾して最後の法皇となりました。
法皇となって、享保10年(1725)と享保15年(1730)、翌享保16年(1731)に当時は吉田神社の
神苑だった当地へ訪れ、その翌年の享保17年(1732)に87歳で崩御されました。
その東側に旧制・第三高等学校の寮歌・『逍遥の歌(しょうようのうた)』の
碑が建っています。
「紅もゆる岡の花」で始まる歌詞は、明治38年(1905)に創作され、
昭和32年(1957)に第三高等学校創立90周年を記念して、この碑が建てられました。
公園を横切り南へ進むと文久2年(1862)に創建された宗忠神社の鳥居が建っています。
こちらが創建当初の正参道で、慶応元年(1865)に第121代・孝明天皇から
勅願所と定められ、御所よりの勅使がこの道を通っていたことから、
当時を偲び「勅使門」と呼ばれています。
鳥居をくぐった右側に「ご神水(しんすい)井戸」があります。
神社が創建されて間もない頃、境内に井戸が掘られましたが、山上のことであり、
水が湧き出ることはありませんでした。
開教直後の黒住教の高弟・赤木忠春が、御神前に供えたご神水を井戸に注いで
一心に祈念すると水が湧き出たと伝わります。
西向きに拝殿があり、その奥の左に本殿、右に神明宮があります。
拝殿は昭和12年(1937)、本殿は明治45年(1912)に改築されました。
本殿には黒住教の教祖・黒住宗忠が祀られています。
黒住宗忠(1780~1850)は、安永9年(1780)11月26日の冬至の日に、備前国(岡山県)の
今村宮に仕える禰宜(ねぎ)の家に三男として生まれました。
備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行でしたが、
文化9年(1812)に流行病により両親を相次いで亡くしました。
翌年には自身も、当時は不治の病とされた肺結核に侵されました。
文化11年(1814)には重篤に陥り、11月11日の古来「一陽来復」と呼ばれる冬至の日に
昇る朝日を浴びる中で天照大御神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体
験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したとされています。
様々な託宣や病者の救済を行うと皇室や公家の中からも帰依されるようになりました。
嘉永3年(1850)2月25日に71歳で逝去され、安政3年(1856)3月8日に
「宗忠大明神」の神号が授けられました。
神明宮は、「上社(じょうしゃ)」とも称され、二条家から遷されたと伝わり、
天照大御神が祀られています。
天照大御神は、伊弉諾尊と伊弉弥尊の御子神で、弟の月読命と建速須佐之男命と共に
伊弉弥尊が生んだ諸神の中で最も貴い「三貴子」とされています。
女神であり、太陽神と巫女の性格を併せ持つ存在とされています。
本殿の左側に忠春社があり、赤木忠春が祀られています。
赤木忠春(1865~1816)は、美作国久米南条郡八出村(岡山県津山市)の出身で、
天保8年(1837)に両眼を失明したことを機に、黒住教へ入信しました。
嘉永4年(1851)から京都での布教活動を始め、関白・九条尚忠の娘の病気平癒を
行ったことから尚忠の帰依をうけ、後には公卿への影響を広げました。
また、尊王攘夷派の志士とも交流があり、尊王討幕運動の一拠点となりました。
文久2年(1862)に当地で宗忠神社の建立の許可を得ることに成功しましたが、
大元(岡山市の本部)から別派独立の嫌疑を受け、元治元年(1864)に破門され、
身の潔白を証明するために郷里で修行中に逝去されました。
没後に生前の功績を顕彰して祀られるようになったと思われます。
吉田神社へ向かいます。
続く
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