白雲橋
国道162号線を北上すると清滝川に架かる白雲橋があります。
茶山栂尾の碑
その橋の手前右側(東側)に「茶山 栂尾(とがのお)」の碑が建っています。
表参道
橋を渡って少し進んだ先に高山寺の表参道があります。
新型コロナによる緊急事態宣言で、裏参道の先にある無料駐車場は
閉鎖されていますので、参道脇の路肩にバイクを駐車し、
表参道まで戻り、石段を登りました。
表参道-寺号碑
富岡鉄斎筆の「栂尾山 高山寺」の石碑が建っています。
「尾」には 山裾の、なだらかに延びた部分の意味があり、高雄は高尾とも記され、
槙尾(まきのお)と栂尾で三尾(さんび)と称され、北に位置するのが栂尾です。
表参道-仏足石の碑
「仏足石参道」の石碑も建っています。
世界遺産の碑
世界文化遺産の碑
高山寺境内は国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
表参道-入山受付
入山受付がありますが、紅葉の季節以外は境内は無料です。
かってこの付近に大門があったと伝わります。
表参道の石灯籠
参道の両脇には石灯籠が建ち、
その先には正方形の石が17枚連なって敷かれています。
表参道からの東屋
谷を越えて東側に東屋が見えます。
表参道-石水院への別れ
その先で参道は石水院へと分岐しますが、直進して金堂へと向かいます。
金堂への石段
金堂は楞伽山(りょうがせん)の中腹に築かれているため、石段が待ち受けています。
楞伽山はスリランカにある山の名とされていますが、詳細は不明です。
羅婆那夜叉(らばなやしゃ)と称する王が華宮殿に住んでいたとされています。
釈迦が説法をするため、この山を訪れた際、王は釈迦の一行を出迎えた
との故事に因み、明恵は境内の裏山を「楞伽山」、庵室を「華宮殿」とも
「羅婆坊」などとも呼びならわしました。
金堂
現在の金堂は寛永年間(1624~1644)に仁和寺・真光院の古御堂が移築され、
堂内には室町時代作の釈迦如来坐像が安置されています。
かって、この地では山岳修業が行われ、奈良時代の宝亀5年(774)に
第49代・光仁天皇の勅願で「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される
華厳宗の寺院が建立されたと伝わります。
平安時代には神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と
称されていました。

鎌倉時代の建永元年(1206)に明恵は、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、
「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」の額を下賜され、
この句に因み寺号を「高山寺」としました。
明恵は、治承4年(1180)、9歳の時に両親を亡くし、神護寺の
文覚上人(もんがくしょうにん)の弟子であった叔父の上覚に師事しました。
文治4年(1188)に出家、東大寺で具足戒を受け、「高弁」と名乗り
東大寺の他、仁和寺でも学びました。
23歳の時に紀伊国有田郡白上に遁世(とんせい)し、
3年にわたって山岳修業を行いました。
建久2年(1191)に仏眼仏母尊(ぶつげんぶつもそん)を本尊として仏眼の法を修め、
明恵が見た夢を記録した日記「高弁夢記」を記しています。
高山寺には23歳の建久7年(1196)から51歳の貞応2年(1223)までの
高弁夢記が残され、国の重要文化財に指定されています。
また、仏眼仏母尊は特に密教で崇められている仏の一尊で、
真理を見つめる眼を神格化したものです。
人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となります。
これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として
生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、
仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展しました。
明恵が念持仏とした絵画の絹本著色仏眼仏母像は
鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。

建久8年(1197)、24歳の明恵は、故郷の紀州湯浅山上の庵で世俗を斥け、
欲を断ち仏道に精進しました。
「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとを踏まむ」とまで思いつめ、
自ら五根(目・耳・鼻・舌・身)を削ごうと考え、
日常生活に支障がないとして、耳を切り落としました。
明恵はその後一時高雄に戻りましたが、再び白上へ移り、元久元年(1205)に
仏跡を巡礼しようと天竺(インド)へ渡る計画を立てましたが、
春日明神の神託を受け、断念しました。
その後もインドへの渡航を企てましたが叶いませんでした。
建永元年(1206)に栂尾の地を与えられ、神護寺十無尽院を再興しました。
また、神護寺十無尽院は著しく荒廃していたため、実質的には明恵が
高山寺を開山したとされています。
明恵は華厳宗の復興に尽力し、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、
しばしば超人的な学僧と評されます。
一方で仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、
生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践しました。
閼伽井
金堂の裏側に閼伽井があります。
承久元年(1219)に明恵は、現在の金堂の地に本堂を建立しました。
本堂には運慶作の丈六(約4.85m、坐像の場合はその半分)の
盧舎那仏(るしゃなぶつ)などが安置されていました。
本堂の東西には阿弥陀堂・羅漢堂・経蔵・塔・鐘楼などが建立されましたが、
室町時代に殆どの建物が焼失しました。
宝塔
金堂の左側に建つ宝塔は昭和56年(1981)に建立され、
塔内には写経が納められています。
春日明神
金堂の右側には鎮守社があり、春日明神が祀られています。
向山
春日明神社の前からはきれいに植林された北山杉の美林を望むことができます。
高山寺の先の中川の集落は、田畑に適する土地が僅かしか無く、
「山稼ぎ」(林業)が生業になっていました。
水が豊かで冷涼な北山の里で、特に杉の木を育てるには適地ですが、
木材を流して運べる広い川がなく、大きな木を運び出すのは困難な場所でした。
ある日、僧侶から「磨き丸太」の技術を教えられ、室町時代に千利休により
「茶の湯」文化が完成されると、北山杉は茶室などの
数寄屋建築に用いられるようになりました。
「磨き丸太」は菩提の滝で採取した砂が使われていましたが、
現在では水圧やたわし状のもので磨くことが主流となっています。
石水院跡
春日明神社の東北方向に、石水院跡がありますが、
石段の先は立ち入りが禁止されていますので詳細は不明です。
建保4年(1216)に建立された明恵の住坊でしたが、
安貞2年(1228)の洪水で流失しました。
仏足石-覆屋
参道は南西方向へと緩やかに下り、現在の主要な建物が並ぶ参道と合流します。
西側の金堂からの参道より一段低い所に、広い空き地があり、
小さな覆屋がポツンと建っています。
仏足石
覆屋の内部には仏足石が祀られています。
明恵の遺蹟の一つで聖跡とされていましたが、
摩耗したため文政年間(1818~1830)に復元されました。
千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、
双魚紋(そうぎょもん)などの紋様が刻まれています。
明恵上人廟
参道まで戻ると、その先には明恵上人の御廟があります。
寛喜4年(1232)、58歳の明恵は禅堂院で厳密(ごんみつ)を具現化し、
その中で息を引き取ったとされています。
厳密とは、華厳と真言密教を融合した、明恵が打ち立てた独自の宗教観です。
画像はありませんが、御廟の境内に宝篋印塔と如法経塔が建ち、
共に鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
明恵上人廟-笠塔婆
御廟の前に二基の鎌倉時代の笠石塔婆が建ち、一方には「山のはに
われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに まだ友とせむ」と刻まれ、
明恵が詠んだとされています。
もう一方には「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」と刻まれ、
明恵の遺訓碑とされています。
開山堂
御廟から下った所に開山堂があり、明恵上人坐像が安置されています。
開山堂は、明恵が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に建立されましたが、
室町時代に焼失し、享保年間(1716~1736)に再建されました。
1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要、
11月8日に献茶式が行われています。
明恵上人坐像は鎌倉時代の作で等身大の像高83cm、
国の重要文化財に指定されています。
嘉禎2年(1236)に明恵上人の遺徳を敬い、禅堂院の東南に十三重塔が建立され、
上人年来の本尊であった弥勒菩薩像が安置されました。
禅堂院と塔を結ぶ渡廊に上人坐像が安置されたとの記録があり、
本像と推定されています。
開山堂-土蔵
開山堂の奥には土蔵がありますが、詳細は不明です。
聖観音像
開山堂の境内には、赤堀信平(1899~1992)作の聖観世音菩薩像が祀られています。
梵字碑
また、梵字の石碑が祀られています。
参道両側の石垣
開山堂からの参道の両側には、かっての諸堂や塔頭跡の石垣が積まれています。
経蔵
経蔵(法鼓台文庫)は昭和34年(1959)に建立された鉄筋コンクリート造り、
3階建ての建物で、博物館寄託の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・
典籍・古文書類のほぼ全てが収められていますが、非公開です。
法鼓台道場
経蔵から下った所に昭和44年(1969)に建立された法鼓台道場があります。
法鼓台道場-門
しかし、道場への門が閉じられ詳細は不明です。
遺香庵-入口
更に下ると茶室・遺香庵がありますが、通常非公開です。
明恵上人の700年遠忌を祈念して昭和6年(1931)に、近代の茶道の普及に
努めた高橋箒庵(そうあん)の指導のもとに建立されました。
庭園は小川治兵衛によって作庭され、京都市の名勝に指定されています。
遺香庵-鐘楼
参道から見えるのは茶室の待合で、梵鐘が吊り下げられ、
鐘楼を兼ねているのかもしれません。
梵鐘には遺香庵の建築に携わった人々の名前が刻まれているそうです。
茶園
遺香庵の向かい側(西側)に茶園があり、「日本最古之茶園」の碑が建っています。
建久2年(1191)宋から帰国した栄西は、宋で入手した茶の種を明恵に贈りました。
明恵がそれを清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)に蒔いたのが
茶園の始まりとされています。
その後、高山寺の中心的僧房・十無尽院(じゅうむじんいん)の
跡地と推定される現在地に茶園が移されました。
明恵は茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植しました。
それが宇治茶の始まりで、宇治の里人に茶の栽培を教えた様子が詠まれた
明恵の歌が万福寺の山門前に残されています。
南北朝時代(1337~1392)、茶は全国に広まりましたが、
高山寺で生産された茶が「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれました。
しかし、第3代将軍・足利義満が宇治茶を庇護したため、
宇治茶は著しい発展を遂げました。
石水院-門
参道の東側に石水院がありますがありますが、参拝は有料です。
石水院-拝観受付
受付で800円を納めます。
石水院-池
書院と石水院との間には池があり、渡廊で結ばれています。
廂の間
石水院は、鎌倉時代初期に建立され、後鳥羽上皇が学問所として
使われていた建物を、明恵上人が賜ったと伝わり、国宝に指定されています。
当初は金堂の東にあり、経蔵として使われ、「東経蔵」と呼ばれていました。
安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向かいにあった石水院が流失したため、
東経蔵に春日・住吉明神が祀られ、石水院の名を継ぎ、中心的堂宇となりました。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ
顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となりました。
明治22年(1889)に現在地に移築され、住宅様式に改変されました。
西側は広縁で向拝が付され、「廂(ひさし)の間」と称されています。
かっては春日・住吉明神の拝殿があり、その名残として正面には
神殿構の板扉が残されています。
広縁には富岡鉄斎筆「石水院」の扁額が掲げられています。
鉄斎は当時の住職・土宜法龍(どき ほうりゅう:1854~1923)と交流があり、
最晩年に高台寺に滞在したそうです。
善財童子像
中央には善財童子像が安置されています。
善財童子は『華厳経入法界品』に「インドの長者の子」と記されています。
「ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を
訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いた」と、
菩薩行の理想者として描かれています。
明恵上人は善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、
善財童子の木像を安置していたと伝わります。
石水院-庭園
北側庭園

画像はありませんが、南側の縁からは清滝川を越えた向山が望めます。
日出先照高山之寺
東側の間には後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺
(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」が掲げられています。
縦105.8cm、横58.8cm、厚さ2cmの大きさで、明恵上人が建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜った際に
下賜されたと伝わります。
背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、
長房が院と明恵との仲立ちをつとめたと推定されています。
明恵上人樹上座禅図
床の間には国宝「明恵上人樹上座禅像(複製品)」の掛け軸が下げられています。
高山寺の後山・楞伽山(りょうがせん)の華宮殿(けきゅうでん)の西に
二股に分かれた一株の松がありました。
明恵上人はその松を縄床樹(じょうしょうじゅ)と名付け、
常々そこで坐禅入観したと伝わります。
明恵上人の遺訓
床の間の右側には、明恵上人の遺訓「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」が
掲げられています。
また、酉の刻から申の刻に至る勤行次第が記されています。
子犬の像
その前の子犬の像は湛慶作と伝わり、像高25.5cmで
「木彫りの狗児(くじ)」と呼ばれています。
明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬を模したと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
白光観音尊
床の間がある左側の間には「白光観音尊」像が安置されています。
仏眼仏母像
絹本著色仏眼仏母像を縮小した複製品も展示されています。
明恵が念持仏とした鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。
十無盡院
西面には、長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の
額が掲げられています。
鳥獣戯画-甲
東側の間のガラスケースには、国宝の「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」
甲巻の複製が展示されています。
鳥獣人物戯画は甲・乙・丙・丁の4巻からなり、甲・乙巻は平安時代後期、
丙・丁巻は鎌倉時代に制作されたと考えらています。
甲巻は縦30.4cm、全長1,148.4cmで、擬人化された動物が描かれていますが、
平成21年(2009)から4年かけて行われた大規模な修復作業で、
中盤と後半の絵が入れ替わっていることが判明しました。
室町時代の火災の際に持ち出され、その後つなぎ直した際に順序が
入れ替わった可能性が指摘されています。
草むらから蛇が現れ、動物たちが遁走して遊戯が終わるという構成になっているようです。
鳥獣戯画-乙
乙巻は縦30.6cm、全長1,189.0cmで、実在・空想上の動物が写生的に描かれた
動物図鑑としての性質が強く、絵師たちが絵を描く際に手本とする粉本であった
可能性も指摘されています。
鳥獣戯画-丙
丙巻は縦30.9cm、全長933.3cmで、前半10枚は人々による遊戯、
後半10枚は動物による遊戯が描かれています。
京都国立博物館による修復過程で元は表に人物画、裏に動物画を描いた
1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせて絵巻物に仕立て直したことが判明しました。
元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように
2枚に分けられたと推定されています。
鳥獣戯画-丁
丁巻は縦31.2cm、全長1,130.3cmで、人々による遊戯の他、
法要や宮中行事も描かれています。
東屋
石水院を出て、裏参道を下って行くと東屋がありますが、
現在は立ち入りが禁止されていました。

国道を高雄の方へ戻って、西明寺へ向かいます。
続く

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