常寂光寺から戻って東に進み、元来た四つ角を左折して北に進むと、
「小倉餡発祥の由来」の駒札が立っています。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、弘仁11年(820)とされています。
当時、小倉の里に和三郎という菓子職人がいて「亀の子せんべい」を作っていました。
大同4年(809)、空海が唐から持ち帰った小豆の種子が栽培されました。
和三郎は、小豆に朝廷から下賜された砂糖を加えて煮詰め、
初めて餡を作り朝廷に献上したと伝わります。
その後、和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培されるようになりましたが、
承和7年(840)に和三郎が亡くなりました。
和三郎の子孫及び諸国同業の人々により、小倉中字愛宕ダイショウの里に
「和泉明神社」が創建されました。
和三郎の功績を讃え、屋号「亀屋和泉」から社号がとられましたが、
その後、兵火を受けて和泉明神社は焼失しました。
和三郎の子孫も絶え、和泉明神社の所在地は古老の伝承として伝えられてきました。
この地は京都市により買収され、小豆が栽培されているようです。
駒札の向かいには、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王
(うちこないしんのう:807~847)の墓があります。
初代の賀茂斎院で、弘仁元年(810)の薬子の変で嵯峨天皇側が勝利したのは、
王城鎮守の神とされた賀茂大神の加護によるものと、
斎王を定めたのが賀茂斎院の始まりとされています。
有智子内親王は豊かな文才に恵まれ、日本史上数少ない女性漢詩人の一人で、
『経国集』などに合計10首が遺されています。
弘仁14年(823)に嵯峨天皇が斎院への行幸の際には、優れた漢詩を披露し、
感嘆した天皇は内親王を三品に叙したと伝わります。
内親王は天長8年(832)に病のため斎院から退かれ、
承和14年(847)に41歳で薨去されました。
内親王の墓の右隣りに落柿舎があります。
落柿舎は松尾芭蕉の弟子・ 向井去来が営んだ草庵で、庭にあった40本の柿の木の実が
一夜の内に、殆ど落ちつくしたことが、「落柿舎」の由来となりました。
向井去来(むかい きょらい)は慶安4年(1651)に、儒医・向井元升(げんしょう)の
二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれました。
万治元年(1658)に父・元升が家族と共に京都に上り医師を開業したことから、
武芸に専心していた去来は堂上家に仕えました。
堂上家は御所の清涼殿への昇殿する資格を有する上級貴族でしたが、
去来はその職を捨て、武士の身分を離れて貞享(じょうきょう)元年(1684)に
俳諧に入ったとされています。
貞享4年(1687)以前には既に落柿舎を営んでいたとされ、
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が初めて落柿舎を訪れています。
芭蕉は元禄4年(1691)の4月18日から5月4日まで滞留して『嵯峨日記』を執筆した他、
併せて三度訪れました。
また、蕉門の最高峰の句集とされる『猿蓑(さるみの)』の編集を向井去来と野沢凡兆に
依頼し、元禄4年に訪れた際に、その監修も行いました。
向井去来は蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、
芭蕉が最も信頼した高弟でした。
但し、去来が営んだ落柿舎は現在地では無く、諸説あり、場所は定かではありません。
門をくぐると本庵があり、壁に蓑と笠が掛けられています。
庵主が在庵していることが示され、蓑と笠が無ければ外出中だったようで、
現在は本庵の手前に受付所があり、そこで300円を納めないと
中への立ち入りができません。
HPでは250円と記されていますが、値上げされたようです。
本庵への入室はできませんが、土間へは入ることができます。
土間には囲炉裏があったようです。
右側に入ると井戸と炊事場があります。
奥にはかまどがあり、質素な生活ぶりがうかがえます。
土間から見た室内奥の丸窓は趣があります。
本庵の縁側で一句捻ろうと思いましたが、文才なく何も浮かびません。
制札は元禄7年(1694)5月に行われた落柿舎での俳席で、
即興に芭蕉が作ったとされています。
元案は去来が十年前に作ったとされ、「俳諧奉行」は芭蕉の戯言です。
現在の落柿舎は明和7年(1770)に井上重厚が、天龍寺塔頭の弘源寺跡地である
現在地で再建したものです。
井上重厚(いのうえ じゅうこう:1738~1804)は嵯峨の生れで向井家の支族と伝わり、
落柿舎の再建後は庵主となりました。
その後、20年ほどして弘源寺から土地の返還を求められ、
重厚は全国行脚することになりました。
重厚は寛政4年(1792)に芭蕉が度々訪れた義仲寺の住職となりました。
井上重厚が師事した蝶夢(ちょうむ:1732~1796)は、京都の岡崎に五升庵を結び、
芭蕉顕彰事業に注力し、義仲寺の復興と護持に尽力しました。
寛政5年(1793)、井上重厚によって営まれた芭蕉百回忌法要は、
蝶夢の達成事業とも言えます。
本庵の左側
弘源寺に戻された落柿舎は、弘源寺の老僧の隠居所となり、
「捨庵(すてあん)」と称されるようになりました。
明治期(1868~1912)に捨庵が売りに出され、嵯峨の旧家が譲り受けました。
捨庵は落柿舎として再興されましたが、昭和の初期に衰微しました。
昭和12年(1937)に落柿舎の保存会が設立され、保存会が落柿舎を買い取りました。
昭和46年(1971)には教育出版社「新学社」会長の
保田與重郎(やすだ よじゅうろう:1910~1981)が13世庵主となり、
「落柿舎守当番」と称しました。
以後、公益財団法人として運営され、財政面では新学社に支えられています。
本庵の左側にある次庵は近年建立されたもので、句会席や茶会などに
有料(落柿舎拝観料込み700円)で利用できます。
境内には句碑や歌碑が建っており、その配置や詠まれた句は画像の通りです。
五輪塔は「俳人塔」と称され、左側は平澤興(ひらさわ こう:1900~1989)の句碑です。
平澤興は京都大学の第16代総長を務めた人で、
俳人塔の竣工祭の折に詠まれた句が刻まれています。
俳人塔の右側に鹿威しが設置されています。
奥に藤棚がありますが、開花にはまだ早かったようです。
落柿舎を出て、有智子内親王(うちこないしんのう)の墓の角を右に曲がった先の
墓地の中に向井去来の墓があります。
向井去来は、宝永元年9月10日(1704年10月8日)に落柿舎で亡くなりました。
享年54歳。
墓地やその周囲には、昭和37年(1962)に弘源寺が全国から募集した
歌や句の碑が数多く建てられています。
墓地沿いに東へ進むと西行井戸があります。
西行は勝持寺で出家し、その後この地で草庵を結んだ際に使われた井戸と伝わります。
文芸苑への坂道
墓地から通りを挟んだ西側に小倉百人一首文芸苑・新古今集の
屋外展示施設があります。
坂道を登った所に、枝垂桜が満開に花を咲かせていました。
『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命により編纂された勅撰和歌集で、
元久2年(1205)にいったん完成し奏覧されましたが、
その後も上皇により、手が加えられました。
文芸苑では14首の歌が紹介されていますが、その一部です。
池の横を通った奥に詞歌集の展示施設があり、4首が紹介されています。
『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は、八代集の第六にあたる勅撰和歌集で、
天養元年(1144)に崇徳上皇の命により、藤原顕輔
(ふじわら の あきすけ:1090~1155)が撰者となって編集されました。
仁平元年(1151)に完成、奏覧されましたが、総歌数415首は八代集で最少です。
二尊院へ向かいます。
続く
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