山門
蓮花寺は山号を五智山と号する真言宗御室派の別格本山で、
近畿三十六不動尊霊場の第15番札所です。
大同4年(809)、唐から帰国して入京を許された空海は、広沢池の北西
(現在の第91代・後宇多天皇の蓮華峰寺陵地内)の岩屋の中で不動明王を感得し、
石に刻んできゅうり封じの秘法を残されました。
天喜5年(1057)、藤原康基は第70代・後冷泉天皇の勅願を受け、
この不動明王を奉祀するとともに、阿弥陀如来・観音菩薩等の諸像を安置し、
寺領を寄進して蓮花寺を創建しました。

徳治年間(1306~1308)に後宇多法皇(1267~1324)により、蓮花寺は中興され、
「蓮華峰寺(れんげぶじ)」と改称されました。
徳治2年(1307)に妃の遊義門院(ゆうぎもんいん)が崩御され、
後宇多上皇は仁和寺で得度を受けて法皇となり、
大覚寺を御所として大覚寺門跡となりました。
翌徳治3年(1308)に第94代・後二条天皇が崩御されると、天皇の父(治天の君)
としての実権と地位を失い、政務から離れ、真言密教に関心を深めました。
蓮花寺を中興するにあたり、東寺や高野山に匹敵する
構想を持っていたとされています。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火を受けて蓮華峰寺は消失しました。
寺地は鳴滝音戸山(おんどやま=現在の宇多野病院の裏にある山)の山上に
移されましたが、百数十年にわたって荒廃が続きました。

寛永18年(1641)に常信により再興されました。
江戸の豪商・樋口平太夫は、寛永12年(1635)に五智不動尊の霊夢に導かれて出家し、
常信と称して秩父三十四カ所・西国三十三カ所・坂東三十三カ所を巡り、
修行を行っていました。
寛永18年(1641)に鳴滝音戸山へ訪れた常信は、伽藍を復興しますが、
この時期仁和寺も応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した伽藍を、
第21世門跡・覚深入道親王が再建しています。
第107代・後陽成天皇の第1皇子・良仁親王(かたひと しんのう)は、
文禄3年(1594)に次期天皇即位を前提に親王宣下を受けました。
一説では、豊臣秀吉が朝鮮出兵が成功して明を征服した暁に、後陽成天皇を北京に遷して、
良仁親王を日本の天皇にする計画を持っていたと伝わります。
しかし、慶長3年(1598)に秀吉が没し、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで
豊臣軍が敗北すると、豊臣政権色の強い良仁親王は徳川家康により廃されました。
翌慶長6年(1601)に親王は仁和寺で出家し、寛永11年(1634)に
第3代将軍・徳川家光に仁和寺の伽藍再興を願い出て認可されました。
蓮華峰寺は常信により再興されましたが、寛永21年(1644)に再興された
福王子神社のように、徳川家光や覚深法親王の援助があったのかもしれません。
蓮華峰寺は覚深法親王から賜った「五智山 蓮華寺」に改められました。
昭和3年(1928)には第18世・慈海大僧正により現在地で中興されました。
五智如来
境内には手前から釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・宝生如来(ほうしょうにょらい)・
薬師如来の五智如来像が祀られています。
常信は再興に当たり、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と
五智如来の彫刻を依頼しました。
昭和33年(1958)、鳴滝音戸山の山上にあった五智如来像が現在地に遷されました。
五智如来は密教の教理に基づく5つの知恵を5体の如来にあてはめたもので、
江戸時代になると広大無辺の仏智にすがり、さまざまの苦難から逃れようとする願望が、
深い民間信仰となって世に広まりました。
北方世界の釈迦如来は「智慧聡明の功徳」、西方世界の阿弥陀如来は
「極楽往生の功徳」、中央の大日如来は「太陽を示し、万物を慈しみ五穀豊穣の功徳」、
南方世界の宝生如来は「福徳財宝の功徳」、東方世界の薬師如来は
「医薬の功徳」というように現生利益を願う信仰が強くなりました。
地蔵像他
背後には地蔵菩薩や観音菩薩、聖僧像などが祀られています。
不動堂
不動堂には「五智不動明王」と称される不動明王の石像が安置されています。
不動堂では毎月28日に護摩供が、年1回の土用丑の日に
きゅうり封じの秘法が修せられます。
きゅうり封じとは弘法大師が一切衆生病苦・悪業の根を断ち切って病苦を和らげ、
業病・難病から逃れ、長寿と極楽往生の願を込めて
五智不動尊を創祀せられた際に残された秘法です。
本堂
現在の本堂は平成27年(2015)に落慶し、本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。
鐘楼
鐘楼
納経所
納経所

宇多天皇陵へ向かいます。
続く

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