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長岳寺と渟名城入姫神社
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西方寺の北側から北へ、徒歩でも5分少々の所に正伝寺があります。
山号は「吉祥山」、寺号は正式には「正伝護国禅寺」と号する
臨済宗南禅寺派の寺院で、諸山の格式を持っています。
山門をくぐると池を挟んで左右に参道がありますが、
左側を進むと八幡宮があります。
八幡宮の先で右から右折してきた参道と合流し、中門があります。
門をくぐると橋が架かり、参道は緩やかな石段となって右側にカーブしています。
石段の脇には地蔵菩薩の石像が祀られています。
石段を登ると参道は平坦となり、右側へ進むと更に緩やかな石段が
西へと続きます。
石段の途中を左側へ入ると鐘楼があります。
石段を登った正面に庫裡があります。
左側に方丈庭園への門があります。
庫裡で拝観料400円を納め、庫裡から渡り廊下で方丈へ向かいます。
正伝寺は、鎌倉時代の文永5年(1268)に東巌慧安が、師の兀庵普寧を開山として、
烏丸今出川に創建したのが始まりとされています。
兀庵普寧(ごったん ふねい:1197~1276)は、文応元年(1260)に南宋から渡来し、
鎌倉幕府執権・北条時頼から請われて鎌倉の建長寺2世となりましたが、
時頼没後の文永2年に帰国しました。
東巌慧安(とうがん えあん:1225~1277)は、建長寺の兀庵普寧に参禅し、
兀庵普寧が帰国の際に、法衣・頂相・語録を授かりました。
その後、聖護院執事の静心が東巌慧安に帰依し、
正伝寺が創建されたと伝わります。
しかし、寺はその後、延暦寺の衆徒によって破却され、
東巌慧安は鎌倉へ逃れて建治3年(1277)に入滅されました。
弘安5年(1282)に賀茂社の社家・森経久の援助を受け、現在地で再興されました。
室町時代には天皇家や将軍家の帰依を受け、寺は栄えましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、以後荒廃しました。
その後、豊臣秀吉が再興に着手しましたが果たせず、
徳川家康により再興されました。
現在の方丈は、承応2年(1653)に南禅寺塔頭の金地院の小方丈を移築したものですが、
元は伏見城の御成殿(おなりでん)でした。
秀吉の没後、伏見城には家康が入ったのですが、慶長5年(1600)6月に家康が
会津征伐のため東国へ向かった間隙をぬって反家康軍が挙兵して伏見城を攻撃し、
落城しました。
その後、伏見城は家康により再建され、慶長8年(1603)に家康が伏見城で
征夷大将軍の宣下を受けると、以後三代・徳川家光まで
伏見城で将軍宣下式が行われました。
御成殿は家光が将軍宣下を受ける際に、仮御殿として使用されました。
慶長11年(1606)頃になると駿府城が改築され、
伏見城の作事は停止されて器材や屋敷も駿府城へと運ばれました。
そして、一国一城令の主旨から、元和5年(1619)に伏見城の廃城が決定され、
御成殿は金地院の小方丈として移築されました。
各室の襖絵は慶長10年(1605)に家康が伏見城の本丸を修理した際、
狩野山楽に描かせたもので、国の重要文化財に指定されています。
中国・西湖の風景が描かれています。
また、仏間には本尊の釈迦如来像などが安置されています。
方丈縁側の天井には、落城で自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる
床板が張られ「血天井」と呼ばれています。
方丈前の庭園は小堀遠州の作と伝わり、「獅子の児渡しの庭」と称されています。
白砂が敷かれ、右から七・五・三と配されたサツキ等の刈込だけが並ぶ
枯山水式の庭園で、白壁越しに比叡山を借景としています。
南禅寺や龍安寺の「虎の子渡しの庭」から、虎が獅子に変更されています。
また、「月の庭」とも呼ばれ、中秋の名月の前後3日間は午後9時まで拝観が可能で、
比叡山から昇る月を愛でることが出来ます。
正伝寺から下ると、南西方向に観音像が見えます。
その方向へ登って行くと駐車場があり、その向かいの地蔵堂には
子養育地蔵尊が祀られています。
その前の石段を登ると本堂があります。
山号を「日照山」、寺号を「法雲寺」と号する浄土宗西山深草派の寺院で、
洛陽四十八願地蔵菩薩霊場の第29番札所です。
法雲寺は天正19年(1591)に長翁玉春上人により開創されました。
天正15年(1587)に豊臣秀吉は政庁兼邸宅として聚楽第を建立し、
洛中の区画整理を行っていました。
その際、秀吉の母・大政所から請われて、聚楽第から近い
四条大宮の地(現在の京福電鉄駅ビル)に600坪を与えられ、大政所が帰依した
長翁玉春上人を開山として創建されました。
明治34年(1901)に東本願寺の勅使御門建立の余材で現在の本堂が再建され、
昭和58年(1983)に現在地に移転しました。
本堂東側の庫裡の上は展望台となり、京都北山から東山連峰が一望できます。
大文字山もくっきりと見えます。
しかし、船形山は残念ながら、左側の多くが山影となっています。
展望台からの本堂です。
右側の十一面観世音菩薩の石像は高さが10mで、
一刀彫りの石像としては日本一の高さを誇ります。
駐車場から下り、西に曲がって進んだ所に法雲寺の山門があります。
上賀茂神社へ向かいます。
続く
勝林院から西へ下り、「三途の川」に架かる橋を渡った先に宝泉院があります。
先へ進むと山門があります。
宝泉院は嘉禎年間(1235~1238)に大原寺(勝林院)住職の住坊として創建されました。
当初は「了性坊」と称し、その後「宝泉坊」から正徳6年(1716)に
「宝泉院」へ改められました。
門をくぐると石仏が祀られています。
その先に法然上人の衣掛けの石があります。
かっては「鯖街道」の路傍にあったものが移されました。
建物の入口
廊下には輿が吊るされています。
廊下の南側に鶴亀の庭があります。
池は鶴が羽根を広げたように象られています。
築山は亀を表し、山茶花(さざんか)の古木が蓬莱山を表しています。
沙羅双樹の木は樹齢300年とされています。
廊下の北側に囲炉裏の間があります。
囲炉裏の間の庭園は「鹿野苑」と称されています。
現在の書院は文亀2年(1502)の再建とされています。
縁側の天井は「血天井」と称され、慶長5年(1600)の伏見城の戦いで
自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる床板が天井に張られています。
書院南側の庭園は「盤桓園(ばんかんえん)」と称されています。
盤桓園には「立ち去りがたい」という意味があり、書院の柱や鴨居を額に見立てて
鑑賞することから、「額縁庭園」とも呼ばれています。
樹齢約700年とされる「五葉の松」は近江富士を象ったとされ、
樹高11m、枝張り南北11.5m、東西14mで、樹冠は、ほぼ扇形とされていました。
しかし、中央の一番大きな幹とその左側が松喰い虫の被害で痛々しい姿となり、
数本の枝が伐採されていました。
書院の西側には手水鉢に水琴窟が作られ、「理智不二」と称されています。
「サヌカイト」と称される美しい音が出る石が使用された二連式の珍しい構造で、
密教の教理を音色で伝えるものとされています。
宝泉院の拝観料800円は茶菓付で、書院にて盤桓園を愛でながら
一服の抹茶を楽しむことが出来ます。
書院を後にして宝楽園へ向かいます。
宝楽園は、仏神岩組雲海流水回遊花庭で、
平成17年(2005)に庭園作家の園治(えんや)により造園されました。
地球太古の創世に遡り、その原初の海を想像して作庭されています。
白川砂は海流水が、奥に見える石は蓬莱山が表されています。
手前の石橋は、仙人が住む世界の橋なので途切れています?。
奥に見えるのが「龍門瀑(りゅうもんばく)」で、石橋の下に見えるのが
「水分石(みくまりいし)」です。
凡人が渡れる石橋も用意されています。
宝船石
参道は奥へ続きます。
宝楽園には台付花桃、各種桜や梅、など花を咲かせる木や楓などの
紅葉が美しい木などが植栽されていますが、今はまだ緑のみです。
三尊石が配された島があります。
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊石は念珠石(海石)が用いられ、
来迎の姿が表されています。
島の両側には盛砂されて、神聖な島であることが表されています。
手水鉢
手水で身を清めて三尊を拝するためのものと思われます。
鎮守社も祀られています。
実行院へ向かいます。
続く