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大門
崇神天皇の陵の直ぐ北の通りを東へ進み、その先を左折して北へ進んだ先に
長岳寺の駐車場への入口があり、駐車場の横に大門があります。
山号を「釜の口山」と号する高野山真言宗の寺院で、
大和北部八十八ヶ所霊場・第80番の札所です。
地蔵院-門
入山料は400円で、受付にて山内の詳しい説明があります。
長岳寺は天長元年(824)に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう/在位:823~833)の
勅願により、空海(774~835)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として
創建したと伝わります。
受付の横にある庫裡は旧地蔵院でした。
盛時には塔頭48坊、三百余名の衆徒を擁したとされていますが、
応仁の乱(1467~1477)など幾多の戦乱に巻き込まれて衰退し、
豊臣秀吉(1537~1598)からは寺領を没収されて更なるダメージを受けました。
慶長7年(1602)に徳川家康(1543~1616)により復興されましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺の危機となり、
民間に深く根差した大師信仰によって法燈が守られています。
地蔵院
地蔵院は唯一残された塔頭で、現在では庫裡として使用され、公開されています。
寛永7年(1630)に室町時代の書院造の様式で再建され、
国の重要文化財に指定されています。
屋根は杉皮を用いた大和葺で、玄関及び持仏堂の屋根は檜皮葺です。
地蔵院-水甕
大きな水甕が残されています。
地蔵院-庫裡
庫裡では希望により三輪手延べそうめんが、5月~9月では
冷やしそうめんとして、寒い季節にはにゅう麺としてふるまわれています。
地蔵院-不動明王
背後の竜王山(標高586m)の山頂に祀られている不動明王像です。
竜王山は「釜口ノ山」とも称され、高所には大和の豪族・十市氏(といちし)により
龍王山城が築かれていました。
永禄2年(1559)に大和国へ進軍してきた松永久秀(1508~1577)に十市氏は降り、
松永久秀は織田信長(1534~1582)に謀反を起こしたことで、
龍王山城は天正6年(1578)に信長の命により破却されました。
地蔵院の室内
地蔵院の室内
竜王山には十市氏の恨みが、今も残っているらしく、
ジャンジャン火伝説が伝えられています。
今にも雨が降りそうな夏の夜、龍王山にむかって「ホイホイ」と叫ぶと、
城跡の方から火の玉がジャンジャンとうなりをたてて降りてきて、
その人を焼き殺してしまうそうです。
鶴亀庭園-1
旧地蔵院の庭園は江戸時代(1603~1868)初期に、小堀遠州(1579~1647)の流れをくむ
庭師に作庭された鶴亀庭園で、地面を深く掘り下げられた池は
縁側の下まで延びています。
鶴亀庭園-2
島の石組が亀の形を表し、手前の大きな石が亀の頭とされ、
背後の姫五葉松が鶴に見立てられています。
地蔵院-延命殿
縁側奥に地蔵院の本堂(持仏堂)・延命殿があります。
寛永8年(1631)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
地蔵院-延命殿-堂内
堂内には、大和十三仏霊場の第4番札所本尊でもある
普賢延命菩薩が安置されています。
鐘楼門-1
庫裡の先に楼門があります。
国の重要文化財に指定され、寺伝では空海創建時のものとされていますが、
調査では下層は室町時代~安土桃山時代、
上層は平安時代末期頃に建立されたと推定されています。
鐘楼門-2
かっては上層に梵鐘が吊られていた鐘楼門で、その形式では日本最古とされています。
本堂
門をくぐった左側に天明3年(1783)に再建された本堂があります。
血天井
本堂の天井に血の足跡が残され、「血天井」と称されています。
龍王山城が松永久秀に攻められた際、当境内でも戦乱があり、
切られた十市方の武将が血だらけになって縁側から本堂へ逃げ込み、
生き途絶えたと伝わり、その時の縁側の板を天井に張り替えたものとされています。
賓頭盧尊者像
縁側には賓頭盧尊者像が祀られています。

堂内に安置されている本尊の阿弥陀三尊像は、
胎内銘から平安時代末期の仁平元年(1151)の作と判明し、
国の重要文化財に指定されています。

お寺の説明では運慶(?~1224)の父・康慶(こうけい:生没年不詳)の
作とされています。
康慶は興福寺を中心に活動した仏師で、長岳寺は鎌倉時代には興福寺大乗院の
末寺となっていることから、それ以前から興福寺との繋がりが考えられます。
作風は、当時流行した定朝様(じょうちょうよう)の繊細優美な仏像とは異なり、
堂々とした量感、写実的な表現で、次の鎌倉時代の作風のさきがけをなすとされ、
玉眼を使用した最古の仏像でもあります。

両脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩は片足を踏み下げた半跏像で、
奈良時代にその例が見られ、奈良時代の古典復興の意図があったとも
考えられています。
両脇侍の前に安置されている増長天と多聞天像は平安時代の作で
国の重要文化財に指定されています。
元、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった
大御輪寺に安置されていましたが、明治の神仏分離令により、当寺へ遷されました。
また、堂内右側に地獄極楽図が掲げられ、その奥に不動明王像が安置されています。
放生池
本堂前には放生池があり、阿弥陀如来の浄土の世界が表されているのかと
思いましたが、池には蓮ではなくカキツバタが植えられています。
七重石塔
本堂の右側には、歴史を感じさせる七重石塔がありますが、
元は十三重石塔だったようです。
西大寺中興の叡尊(1201~1290)の供養塔と伝わり、
叡尊ゆかりの文殊菩薩の梵字が刻まれています。
不動明王
更に東へ進むと石段があり、その脇に不動明王の石像が安置されています。
大師堂-拝堂
石段を登った左側に大師堂の拝堂があります。
大師堂
その奥にある大師堂は正保2年(1645)に建立され、
奈良県の文化財に指定されています。
堂内には弘法大師像が安置されていますが、堂内は非公開です。
地蔵菩薩像
拝堂の東側に地蔵菩薩像が祀られています。
大石棺佛-参道
南側に茶所があり、その南側に山へ登る石段があります。
新四国八十八箇所を巡る参道でもあります。
大石棺佛
その石段を登った所に大石棺佛が祀られています。
古墳の石棺の蓋が使用され、高さ2m近い弥勒佛が浮き彫りされています。
その先には四国八十八箇所の各本尊が竜王山中腹の奥の院まで祀られています。
修行大師像
下って南へ進むと修行大師像が祀られています。
鐘楼
その西側、放生池の南側に鐘楼があります。
「一願成就の鐘」と称され、願いを込めて一打することができます。
五智堂
国道169号線まで戻って北へ進み、二つ目の信号を左折して西へ進んだ先の
長岳寺の飛び地境内に五智堂があります。
鎌倉時代(1185~1333)末期に建立されたと推定され、その形状から「傘堂」とも
「眞面堂」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
心柱上部に四佛の梵字額があり、心柱を大日如来に見立てて、
全体で五智如来が表わされています。
渟名城入姫神社-1
その先の五辻を北へ進み、その先の細い路地を西へ入った所に
渟名城入姫神社があります。
渟名城入姫神社-本殿
渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)が祀られています。
第10代・崇神天皇の御代(在位:BC97~BC30)に疫病が蔓延し、
国内情勢が不安になったのは、宮中で天照大御神と
日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が
同殿共床で奉斎されていることによるものと考えました。
崇神天皇6年(BC24)、天皇は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に
天照大神を託し、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせ、
日本大国魂大神は渟名城入媛命に託されました。
しかし、渟名城入媛命の髪が抜け落ち、体が痩せて祀ることができなくなりました。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)他二人は
共に同じ夢を見て、「日本大国魂大神を祀る祭主を
市磯長尾市(いちしのながおち)とすれば天下は平らぐ」と告げられ
大和郷の市磯邑へ遷されたのが大和神社の創建とされています。
また同時に大神神社の大物主大神を祀る神主を
大直禰子命(おおたたねこのみこと)と定めました。
長岡岬-1
街道をさらに北へ進むと「長岡岬 大市観音寺地蔵菩薩」の石碑が建っています。
渟名城入姫命に託された日本大国魂大神は穴磯邑(あなしむら)大市の長岡岬に
祀られたとされています。
長岡岬-2
画像を取り忘れましたが、東側には大和神社の御旅所があります。
一方で倭迹迹日百襲姫命の墓とされている箸墓古墳は「大市墓」と称され、
長岡岬をその付近の大神神社摂社・狭井神社の西の丘陵突出部や
檜原神社の西の丘陵突出部とする説などがあります。

大和神社へ向かいます。
続く
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正伝寺-山門
西方寺の北側から北へ、徒歩でも5分少々の所に正伝寺があります。
山号は「吉祥山」、寺号は正式には「正伝護国禅寺」と号する
臨済宗南禅寺派の寺院で、諸山の格式を持っています。
正伝寺-八幡宮
山門をくぐると池を挟んで左右に参道がありますが、
左側を進むと八幡宮があります。
正伝寺-中門
八幡宮の先で右から右折してきた参道と合流し、中門があります。
正伝寺-参道
門をくぐると橋が架かり、参道は緩やかな石段となって右側にカーブしています。
正伝寺-地蔵像
石段の脇には地蔵菩薩の石像が祀られています。
正伝寺-庫裡への石段
石段を登ると参道は平坦となり、右側へ進むと更に緩やかな石段が
西へと続きます。
正伝寺-鐘楼
石段の途中を左側へ入ると鐘楼があります。
正伝寺-庫裡
石段を登った正面に庫裡があります。
正伝寺-方丈庭園の門
左側に方丈庭園への門があります。
正伝寺-方丈
庫裡で拝観料400円を納め、庫裡から渡り廊下で方丈へ向かいます。
正伝寺は、鎌倉時代の文永5年(1268)に東巌慧安が、師の兀庵普寧を開山として、
烏丸今出川に創建したのが始まりとされています。

兀庵普寧(ごったん ふねい:1197~1276)は、文応元年(1260)に南宋から渡来し、
鎌倉幕府執権・北条時頼から請われて鎌倉の建長寺2世となりましたが、
時頼没後の文永2年に帰国しました。
東巌慧安(とうがん えあん:1225~1277)は、建長寺の兀庵普寧に参禅し、
兀庵普寧が帰国の際に、法衣・頂相・語録を授かりました。
その後、聖護院執事の静心が東巌慧安に帰依し、
正伝寺が創建されたと伝わります。
しかし、寺はその後、延暦寺の衆徒によって破却され、
東巌慧安は鎌倉へ逃れて建治3年(1277)に入滅されました。

弘安5年(1282)に賀茂社の社家・森経久の援助を受け、現在地で再興されました。
室町時代には天皇家や将軍家の帰依を受け、寺は栄えましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、以後荒廃しました。
その後、豊臣秀吉が再興に着手しましたが果たせず、
徳川家康により再興されました。
現在の方丈は、承応2年(1653)に南禅寺塔頭の金地院の小方丈を移築したものですが、
元は伏見城の御成殿(おなりでん)でした。

秀吉の没後、伏見城には家康が入ったのですが、慶長5年(1600)6月に家康が
会津征伐のため東国へ向かった間隙をぬって反家康軍が挙兵して伏見城を攻撃し、
落城しました。
その後、伏見城は家康により再建され、慶長8年(1603)に家康が伏見城で
征夷大将軍の宣下を受けると、以後三代・徳川家光まで
伏見城で将軍宣下式が行われました。
御成殿は家光が将軍宣下を受ける際に、仮御殿として使用されました。
慶長11年(1606)頃になると駿府城が改築され、
伏見城の作事は停止されて器材や屋敷も駿府城へと運ばれました。
そして、一国一城令の主旨から、元和5年(1619)に伏見城の廃城が決定され、
御成殿は金地院の小方丈として移築されました。

各室の襖絵は慶長10年(1605)に家康が伏見城の本丸を修理した際、
狩野山楽に描かせたもので、国の重要文化財に指定されています。
中国・西湖の風景が描かれています。
また、仏間には本尊の釈迦如来像などが安置されています。
正伝寺-血天井
方丈縁側の天井には、落城で自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる
床板が張られ「血天井」と呼ばれています。
正伝寺-方丈庭園
方丈前の庭園は小堀遠州の作と伝わり、「獅子の児渡しの庭」と称されています。
白砂が敷かれ、右から七・五・三と配されたサツキ等の刈込だけが並ぶ
枯山水式の庭園で、白壁越しに比叡山を借景としています。
南禅寺龍安寺の「虎の子渡しの庭」から、虎が獅子に変更されています。
また、「月の庭」とも呼ばれ、中秋の名月の前後3日間は午後9時まで拝観が可能で、

比叡山から昇る月を愛でることが出来ます。
法雲寺
正伝寺から下ると、南西方向に観音像が見えます。
法雲寺-地蔵堂
その方向へ登って行くと駐車場があり、その向かいの地蔵堂には
子養育地蔵尊が祀られています。
法雲寺-本堂
その前の石段を登ると本堂があります。
山号を「日照山」、寺号を「法雲寺」と号する浄土宗西山深草派の寺院で、
洛陽四十八願地蔵菩薩霊場の第29番札所です。
法雲寺は天正19年(1591)に長翁玉春上人により開創されました。
天正15年(1587)に豊臣秀吉は政庁兼邸宅として聚楽第を建立し、
洛中の区画整理を行っていました。
その際、秀吉の母・大政所から請われて、聚楽第から近い
四条大宮の地(現在の京福電鉄駅ビル)に600坪を与えられ、大政所が帰依した
長翁玉春上人を開山として創建されました。
明治34年(1901)に東本願寺の勅使御門建立の余材で現在の本堂が再建され、
昭和58年(1983)に現在地に移転しました。
法雲寺-大文字山
本堂東側の庫裡の上は展望台となり、京都北山から東山連峰が一望できます。
大文字山もくっきりと見えます。
法雲寺-船形山
しかし、船形山は残念ながら、左側の多くが山影となっています。
法雲寺-山門本堂と観音像
展望台からの本堂です。
右側の十一面観世音菩薩の石像は高さが10mで、
一刀彫りの石像としては日本一の高さを誇ります。
法雲寺-山門
駐車場から下り、西に曲がって進んだ所に法雲寺の山門があります。

上賀茂神社へ向かいます。
続く

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橋
勝林院から西へ下り、「三途の川」に架かる橋を渡った先に宝泉院があります。
山門
先へ進むと山門があります。
宝泉院は嘉禎年間(1235~1238)に大原寺(勝林院)住職の住坊として創建されました。
当初は「了性坊」と称し、その後「宝泉坊」から正徳6年(1716)に
「宝泉院」へ改められました。
石仏
門をくぐると石仏が祀られています。
衣掛けの石
その先に法然上人の衣掛けの石があります。
かっては「鯖街道」の路傍にあったものが移されました。
入口
建物の入口
輿
廊下には輿が吊るされています。
鶴亀の庭
廊下の南側に鶴亀の庭があります。
池は鶴が羽根を広げたように象られています。
鶴亀の庭-蓬莱山
築山は亀を表し、山茶花(さざんか)の古木が蓬莱山を表しています。
鶴亀の庭-沙羅双樹
沙羅双樹の木は樹齢300年とされています。
囲炉裏の間
廊下の北側に囲炉裏の間があります。
鹿野苑
囲炉裏の間の庭園は「鹿野苑」と称されています。
血天井
現在の書院は文亀2年(1502)の再建とされています。
縁側の天井は「血天井」と称され、慶長5年(1600)の伏見城の戦いで
自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる床板が天井に張られています。
盤桓園
書院南側の庭園は「盤桓園(ばんかんえん)」と称されています。
盤桓園には「立ち去りがたい」という意味があり、書院の柱や鴨居を額に見立てて
鑑賞することから、「額縁庭園」とも呼ばれています。
五葉の松-1
樹齢約700年とされる「五葉の松」は近江富士を象ったとされ、
樹高11m、枝張り南北11.5m、東西14mで、樹冠は、ほぼ扇形とされていました。
五葉の松-切断
しかし、中央の一番大きな幹とその左側が松喰い虫の被害で痛々しい姿となり、
数本の枝が伐採されていました。
水琴窟
書院の西側には手水鉢に水琴窟が作られ、「理智不二」と称されています。
「サヌカイト」と称される美しい音が出る石が使用された二連式の珍しい構造で、
密教の教理を音色で伝えるものとされています。

宝泉院の拝観料800円は茶菓付で、書院にて盤桓園を愛でながら
一服の抹茶を楽しむことが出来ます。
書院を後にして宝楽園へ向かいます。
宝楽園-途切れた橋
宝楽園は、仏神岩組雲海流水回遊花庭で、
平成17年(2005)に庭園作家の園治(えんや)により造園されました。
地球太古の創世に遡り、その原初の海を想像して作庭されています。

白川砂は海流水が、奥に見える石は蓬莱山が表されています。
手前の石橋は、仙人が住む世界の橋なので途切れています?。
宝楽園-龍門瀑
奥に見えるのが「龍門瀑(りゅうもんばく)」で、石橋の下に見えるのが
「水分石(みくまりいし)」です。
宝楽園-石橋
凡人が渡れる石橋も用意されています。
宝楽園-宝船石
宝船石
宝楽園-参道
参道は奥へ続きます。
宝楽園には台付花桃、各種桜や梅、など花を咲かせる木や楓などの
紅葉が美しい木などが植栽されていますが、今はまだ緑のみです。
宝楽園-三尊石
三尊石が配された島があります。
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊石は念珠石(海石)が用いられ、
来迎の姿が表されています。
盛り砂
島の両側には盛砂されて、神聖な島であることが表されています。
宝楽園-手水鉢
手水鉢
宝楽園-手水鉢からの三尊石
手水で身を清めて三尊を拝するためのものと思われます。
宝楽園-鎮守社
鎮守社も祀られています。

実行院へ向かいます。
続く

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