常盤井
建勲神社の大鳥居前を東へ進み、智恵光院通りを北へ進んだ一筋目の東側に
常盤井があります。
京都の名水の一つで、碑文には霊泉の功徳が記されています。
しかし、現在、水は枯れています。
かって、この辺りに源義朝の邸宅があり、その側室で源義経の母である
常盤御前(ときわごぜん)に因み名付けられたと、
江戸時代の地誌類で記すものがあります。
また、西園寺公経(きんつね)の子・西園寺實氏(さねうじ)が
「常盤井相國」と号したことに因むとの説もあります。
常盤井-猫
猫が座る細い路地を入った所に衣懸塚(きぬかけづか)があります。
衣懸塚
常盤御前が着物を掛け、常盤井に姿を映して化粧をしたとの伝承から
「鏡塚」とも呼ばれています。
しかし、江戸時代の文化年間(1804~1817)の天皇陵調査で、第69代・後朱雀天皇・
第73代・堀河天皇・第78代・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、
『文化山陵図』にも塚は描かれています。
当時は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、
塚上には、大きな樹木がありました。
しかし、その後の天皇陵調査では陵墓参考地にも成らず、
現在のような状況となりました。
このまま保存されるのかも不安に思えます。
今宮神社御旅所
一方通行の関係で智恵光院通りを南進し、鞍馬口通りへ左折して東へ進み、
更に大宮通りへ左折して北上した東側に今宮神社の御旅所があります。
毎年5月5日の今宮祭神幸祭(いまみやまつりしんこうさい)では、
この御旅所まで三基の神輿を中心に約800名の行列が巡幸します。
玄武神社-鳥居
御旅所の東側に玄武神社がありますが、一方通行の関係で一旦北上して東へ進み、
南へ戻らなければなりません。
玄武神社は王城の北に位置し、北方を護る玄武を社号としています。
玄武は亀と蛇の合わさった姿で表されたことから、かって玄武神社には
小池があり、多くの亀が飼育され、「亀宮」とも呼ばれていました。
また、惟喬親王(これたかしんのう)を祭神として祀ることから「惟喬社」とも
呼ばれていました。
惟喬親王(844~897)は第55代・文徳天皇の第一皇子で「小野宮」と号しました。
母は、政治的には力を持っていない紀一族の更衣・紀静子(き の しずこ)でした。
一方で藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)が天皇の女御となり、
第四皇子の惟仁親王を出産しました。
天皇は惟喬親王に期待し、立太子を望みましたが、良房の圧力に屈し、
惟仁親王が皇太子となりました。
天安2年(858)、天皇は病に倒れ、幼い皇太子の中継ぎとして
惟喬親王に皇位の継承を願ったのですが、これも実現せずに崩御されました。

僅か9歳の惟仁親王が第56代・清和天皇として即位すると、良房は摂政に任じられ
良房が外戚として政治の実権を握りました。
惟喬親王は、天安2年(858)に大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)に
任じられ、貞観14年(872)に病のため出家しました。
初めは小野(近江と大原の説がある)に隠棲し、
後に北区雲ケ畑の岩屋山金峯寺(志明院)に宮を建て、移り住んだとされています。
寛平9年(897)に54歳で薨去され、三千院近くの大原の里に葬られました。
玄武神社-本殿
玄武神社は元慶年間(877~884)に、惟喬親王の母方の末裔・星野市正紀茂光
(ほしの いちのかみ き の しげみつ)により創建され、
現在の社殿は昭和38年(1963)に再建されました。
社伝では、親王の慰霊と王城北面の鎮護とこの地守護神として創建されたと
記されていますが、親王の薨去の年と符合していません。
親王の外祖父・紀名虎(き の なのとら)が所有し、親王が寵愛したと伝わる剣を
この地に祀り、御霊代(みたましろ)としたとされています。

玄武神社では、毎年4月の第2日曜日に「玄武やすらい祭」が行われています。
鞍馬の火祭、太秦の牛祭と共に、京都の三大奇祭の一つに数えられ、
その起源は平安時代の中期頃にさかのぼります。
康保2年(965)に大水害が発生し、後に疫病が流行しました。
これを鎮めるため、勅命により大神神社(おおみわじんじゃ)の鎮花祭(薬まつり)
が玄武神社で行われました。
やすらい祭の発祥は玄武神社であり、
「玄武やすらい祭」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
三輪明神
本殿の左側に三輪明神社があり、三輪明神が祀られています。
玄武神社-稲荷社
その左側に玄武稲荷社があります。
紫式部の墓-入口
玄武神社から南へ進み、鞍馬口通りへ左折して、その先の堀川通りへ左折して
北上した島津製作所の北側に小野篁と紫式部の墓があります。
紫式部の墓
紫式部は天禄元年(970)~天元元年(978)の間に、
現在の廬山寺(ろざんじ)の地で生まれ、幼い頃には母を亡くしたたとされています。
父・藤原為時は、師貞親王(もろさだしんのう)の読書役として漢学を教え、親王が
第65代・花山天皇として即位すると蔵人式部大丞(しきぶだいじょう)と
出世しました。
しかし、天皇が山科の元慶寺で出家すると失職し、約10年後に
第66代・一条天皇に詩を奉じたことにより、越後守となりました。
紫式部も越後で父と共に約2年過ごしたとされ、長徳4年(998)頃、
親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚しました。
長保元年(999)に一女・藤原賢子(ふじわら の けんし)を儲けたましたが、
長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別しました。
その後、石山寺で七日間の参籠を行い、その時、琵琶湖に映える名月を眺め、
『源氏物語』を起筆したとされています。
寛弘2年(1006)かその翌年、紫式部は藤原道長に召し出され、道長の長女で
一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)に仕えるようになり、
『源氏物語』を完成させました。
また、宮中の様子を書いた『紫式部日記』も執筆しました。
この地には第53代・淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年この地で過ごし、
寛仁3年(1019)以降に亡くなったと推定されています。
小野篁の墓
小野篁(おの の たかむら:802~853)は、一説では小野小町小野道風
祖父で、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで
裁判の補佐をしていたという伝説が残されています。
夜になると六道珍皇寺の井戸から冥府に往き、朝に嵯峨の福正寺の井戸から
現世に還り、役所に出勤したとされています。
『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落ちた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づき、
二人の墓が並んで建立されました。

大徳寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村