萬福寺から東へバイクで10分余り走った所に醍醐寺があります。
醍醐寺は、旧奈良街道に面した下醍醐と山上の上醍醐からなり
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は西国三十三所霊場の第11番、
五大堂は近畿三十六不動尊霊場の第23番、下醍醐・金堂本尊の薬師如来は
西国四十九薬師霊場の第39番の他、神仏霊場・第126番などの札所となっています。
バス停が併設された駐車場を出て街道を北に進むと総門があります。
総門から入った左側に三宝院があります。
大玄関は国の重要文化財に指定されています。
三宝院・霊宝館・伽藍の拝観料800円を納め三宝院から巡ります。
三宝院は、正式には醍醐寺三宝院と称する醍醐寺の塔頭の一つです。
平安時代の永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)によって創建され、
後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改称されました。
創建当初は金堂の西側にあり灌頂院と呼ばれ、室町時代初めまで
醍醐寺の座主を交代で出した三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院の
醍醐の五門跡の一院でした。
鎌倉から南北朝時代にかけて、足利尊氏から厚く保護され、
応安7年/文中3年(1374)になって足利義満が三宝院座主を室町幕府の祈祷を行う
武家護持僧の管領役に任じられるようになりました。
室町時代の正長元年(1428)、25世・満済(まんさい/まんぜい)が准三后(じゅさんごう)となり、
以後歴代三宝院門跡が醍醐寺の座主を独占するようになりました。
満済は、室町幕府3代将軍・足利義満の猶子(ゆうし)となり、応永2年(1395)から
永享6年(1434)までは醍醐寺第74代座主も務め、醍醐寺中興の祖と伝わります。
しかし、応仁の乱で三宝院が焼失し、廃寺同然となりましたが、安土桃山時代に
醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚く、秀吉により再興されました。
慶長3年3月15日(1598年4月20日)に同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれましたが、
その前に秀吉自らが醍醐寺に通い、建物の造営や修復、庭園の改修などを指揮しました。
義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称しました。
義演は徳川家康からも信任を受け、慶長11年(1606)に醍醐寺の座主に就任し、
荒廃していた寺を復興し、満済とともに醍醐寺中興の祖と称せられるようになりました。
大玄関の左の間
庫裡は重要文化財に指定されている葵の間・秋草の間・勅使の間の北側にあり、
白書院とも呼ばれています。
三宝院の建物は葵の間、秋草の間、勅使の間及び表書院が拝観できますが
建物内の撮影は禁止されています。
葵の間の襖絵には、下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している
葵祭の様子が描かれています。
秋草の間の襖絵には、秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。
勅使の間の襖絵には、桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれている
竹林花鳥図が描かれ、国の重要文化財に指定されています。
国宝・唐門の内側
泉殿は書院の西南にあります。
表書院は庭に面し、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れて建てられ
、国宝に指定されています。
表書院には下段・中段・上段の間があり、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、
畳をあげると能舞台になります。
中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から
見下ろせるようになっています。
上段及び中段の間の襖絵は、長谷川等伯一派の作といわれ、
上段の間は四季の柳を主題とし、中段の間は山野の風景が描かれています。
下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれ、
表書院の襖絵は国の重要文化財に指定されています。
木橋と鶴島
鶴島は五葉松が鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表しています。
三宝院の庭園は特別名勝・特別史跡に指定されています。
左の亀島と右の鶴島
亀島には、樹齢六百年以上といわれる幹の太い立派な五葉松が島全体を覆い、
亀の甲羅のように見せています。
手前の賀茂の三石と亀島
亀島には手前からと、鶴島から石橋が架かり、奥の対岸へは土橋が架けられています。
池の手前、白砂の中に見える三石は、賀茂の三石と呼ばれ、奥の石は、
賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、
手前の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。
庭園の背後に見える山頂が上醍醐になります。
亀島への石橋と奥の土橋
亀島の土橋
藤戸石と豊国大明神を祀る祠
藤戸石は高さ1.8m、幅1.1m、奥行き1mあり、正面からは長方形に見えますが、
側面は三角形を成しています。
「藤戸石」と称される由来については、倉敷の藤戸産とも、
石の表面に藤の花の模様があることからとも伝わります。
かっては、細川氏綱邸にあったものを織田信長が足利義昭の二条第に移し、
天正14年(1586)に豊臣秀吉が聚楽第へ移しました。
その後、慶長3年(1598)の三宝院の築庭に際し、三宝院へと運び込まれました。
両脇の石と共に阿弥陀三尊を表しているとされ、豊臣秀吉の位牌石とも言われています。
当初、庭は花見に間に合わせるように秀吉が設計し、僅か36日の突貫工事で完成させました。
秀吉の没後、三宝院32世・義演が20数年も作庭を続け、
現在の池泉回遊式庭園を完成させました。
豊国大明神は豊臣家の廃絶後、豊国稲荷大明神が勧請され、祀られています。
三段の滝
本堂の特別参拝が行われていましたので、本堂へ向かいますが、
本堂の画像を撮り忘れました。
本堂内の撮影は禁止されていますが、本堂には重要文化財に指定されている
像高112cmの弥勒菩薩坐像が安置されています。
膝裏に建久6年(1195)の墨書き名があり、仏師・快慶の作であることが判明しました。
快慶の初期作であり、美仏とも最秀作とも言われています。
脇仏として右に弘法大師像、左に理源大師・聖宝(しょうぼう)像が安置されています。
本堂への順路の左側に建つのは経蔵でしょうか?
五社明神の拝殿
五社明神
本堂の左側に祀られています。
本堂前からの純浄観
純浄観は書院の東にあり、豊臣秀吉が槍山で花見をした時の建物を移築したと伝わります。
襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものです。
茶室・松月亭は奥宸殿の東北側にあり、江戸末期に造られましたが、非公開です。
奥宸殿は江戸時代初期の建築とされ、重要文化財に指定されていますが、非公開です。
茶室前の池は、純浄観の下を通って書院前の池へと続いています。
霊宝館へ向かいます。
霊宝館は昭和10年(1935)に開館し、昭和54年(1979)に新収蔵庫3棟を新築、
更に平成13年(2001)には上醍醐薬師堂の本尊である国宝・薬師三尊像を
中央に安置する大展示室が増築されました。
国宝の薬師三尊像や重文の五大明王像などが安置されていますが
館内の撮影は禁止されています。
霊宝館から参道に戻り、少し進んだ左側に国宝・唐門を外から見る事ができます。
唐門は北政所の寄進により建立され、平成23年(2011)に解体修理が行われ、
黒漆塗が施されて建立当時の豪華さがよみがえっています。
仁王門へ向かいます。
続く
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