タグ:西国薬師四十九霊場

月見橋
金剛城寺から南東方向の神積寺へ向かうと、市川に架かる月見橋を渡ります。
市川
市川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れ、今は川の流れは穏やかで、
水鳥が浮かんでいます。
柳田國男(1875~1962)は回想記『故郷七十年』に、
この川のどこかの淵に河童が住んでいたと記しています。
弁天堂
橋を渡って少し南下した所で左折し、道なりに東へ向かった突き当りに
放生池があり、島には弁天堂があります。
弁天堂内にあった棟札から天保7年(1836)に再建されたことが判明しました。
堂内には像高48cmの弁財天坐像と、それを取り巻く十五童子像が祀られています。
石段
左へ曲がり、北へと進むと正面に石段があります。
石段は35段あり、石灯篭を寄進した北山田村(現在の姫路市)助左衛門の
寄進によって築かれました。
文久2年(1862)に助左衛門の子孫である助五郎が参道を付けました。
その後、現在の石段が復元されています。
地蔵堂
石段下の左側には地蔵堂があります。
「長寿地蔵」と呼ばれ、参拝者の長寿を祈願して造立されました。
妙徳山古墳
石段の手前の右側に妙徳山古墳があります。
古墳時代後期頃の6世紀末に築造されたと推定される円墳で、
直径35m、高さ6m以上あり、古墳域は兵庫県の史跡に指定されています。
妙徳山古墳-石室
横穴式石室は神崎郡域では最大級の規模で、全長12.4m、高さ6mの玄室がありますが、
現在は土が中に入り込み、高さが低くなっているようです。
開山堂
古墳から山手へと進んだ所に神積寺の奥の院(開山堂)があり、
開山の慶芳上人が祀られています。
神積寺は山号を「妙徳山」と号する天台宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場の第24番札所です。
寺伝によると、平安時代の正暦2年(991)、大納言・藤原範郷の子で
慈恵大師・良源(=元三大師:912~985)の高弟であった慶芳内供が
第66代・一条天皇(在位:986~1011)の勅願寺として創建されたと伝わります。
第67代・三条天皇(在位:1011~1016)の勅願所となり皇子である
覚照が帰依したことで、七堂伽藍と五十二院を数える大寺院として隆盛し、
更に第76代・近衛天皇(在位:1142~1155)の宣示により
播磨天台六山の1つに数えられました。
観音霊場
奥の院から山上に西国三十三所観音霊場の各本尊の石仏が祀られ、
こちらは出口のようです。
鐘楼堂
奥の院から本堂の方へ戻ると、江戸時代の寛文3年(1663)に建立された
鐘楼堂があります。
本堂
神積寺は鎌倉時代の延慶2年(1309)に全山焼失し、天正15年(1588)に再建されました。
明治3年(1870)までは、明治の神仏分離令以前の鎮守社であった岩尾神社の
文殊会式には毎年、勅使下向がなされていました。
本堂には、室町時代作で像高88.5cmの薬師如来坐像が安置され、
国の重要文化財に指定されていますが、60年に一度開帳の秘仏とされています。
脇侍には文殊菩薩と毘沙門天像、日光・月光の両菩薩像と
十二神将像などが安置されています。
賓頭盧尊者像
本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
観音霊場-入口
本堂の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られた入口があります。
山中を奥の院の方へと祀られています。
行者堂
入口付近には行者堂があり、法道仙人が祀られています。
宝篋印塔
境内の宝篋印塔と平和観音像
石灯籠
石段上部の両側に建つ石灯籠は天和3年(1683)に両親の菩提を弔うため、
北山田村(現在の姫路市)助左衛門によって寄進されましたもので、
福崎町の文化財に指定されています。
悟真院
石段を下り、弁天堂の前を通り過ぎた西側に塔頭の悟真院があり、
唐門は福崎町の文化財に指定されています。
神積寺は、西国薬師四十九霊場・第24番札所で、納経は悟真院で行います。
仁王門
悟真院から更に南へと進んだ所に仁王門がありますが、
平成30年(2018)6月の参拝時は立ち入り禁止になっていました。
仁王門手前の大門地区の町名の由来となっています。
五重塔
弁天堂の前まで戻り、元来た道を戻って播但道路をくぐって左に曲がり、
その先で右へ曲がって池沿いに進んだ所に石造りの五重塔があります。
鎌倉時代中期の作と推定され、神積寺の開祖・慶芳上人の墓と伝えられ、
兵庫県の文化財に指定されています。

柳田國男の生家へ向かいます。
続く
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仁王門
尾上神社から北東方向へ、徒歩20分余りの距離に鶴林寺があります。
山号を「刀田山(とたさん)」と号する天台宗の寺院で、
新西国霊場・第27番、西国薬師四十九霊場・第22番、聖徳太子霊跡・第27番、
関西花の寺二十五霊場・第9番などの札所です。
仁王門前には「聖徳太子霊跡」と刻まれた石柱が建ち、
聖徳太子(574~622)により創建されたと伝えられています。
太子は、蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた
高麗出身の僧・恵便(えべん:生没年不詳)の教えを受けるために播磨へ訪れ、
後の崇峻天皇2年(589)に秦河勝(はた の かわかつ:生没年不詳)に
3間4面の精舎を建立させ、「刀田山四天王聖霊院」と名付けられたのが
鶴林寺の始まりとされています。

養老2年(718)に武蔵国の大目(だいさかん=国司の一役職)・身人部春則
(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が太子の遺徳を顕彰するため、
七堂伽藍を建立しました。
その後、慈覚大師・円仁(794~864)が最後の遣唐使として唐へ留学する際、
鶴林寺へ立ち寄り、立願成就のために諸堂の修理を行い、
以後天台宗の寺院となりましたが、
貞観10年(868)に起こった播磨地震で倒壊しました。
その後再建され、天永3年(1112)に第74代・鳥羽天皇(在位:1107~1123)から
勅額を賜り、「鶴林寺」と寺号が改められ、勅願所に定められました。

鎌倉時代から室町時代は太子信仰の高まりとともに隆盛し、
寺坊30数カ坊、寺領25.000石、楽人数十名が常に舞楽を奏していたと伝わります。
戦国時代(1467~1590)になって戦さに巻き込まれるようになりますが、
黒田職隆(くろだ もとたか:1524~1585)・
黒田孝高(くろだ よしたか:1546~1604/通称:官兵衛)親子の説得により
織田信長(1534~1582)派となって戦火を免れ、
室町時代の建物が多数現存しています。
現在の仁王門もその一つで、室町時代に建立された三間一戸の楼門形式で、
江戸時代末期に大修理、改造されたものと推定され、
兵庫県の文化財に指定されています。
江戸時代に入ると次第に衰微し、塔頭8箇坊、寺領117石にまで落ち込み、
更に、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、塔頭は宝生院、浄心院、真光院の
3箇寺のみとなりました。
仁王像-吽形
仁王像-吽形像
造立された年代は不明ですが、歴史を感じさせます。
仁王像-阿形
阿形像
拝観料は500円、宝物館への入館料500円ですが、セットにすると
800円に割引されます。
菩提樹と沙羅双樹
門をくぐった正面に本堂があります。
本堂前の左側に菩提樹、右側に沙羅双樹の木が植栽されています。
釈迦入滅の際、周囲に茂っていた沙羅双樹が枯れ、
こずえが鶴が飛ぶような姿になったとされ、
鶴林寺の寺号の由来となりました。
沙羅双樹は耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要なため、
別種のツバキ科のナツツバキが植えられ、「沙羅(シャラ)」と呼ばれています。
鶴林寺もこの木が植えられています。
本堂
現在の本堂は、棟札から室町時代の応永4年(1397)に建立されたことが判明し、
国宝に指定されています。
本尊は平安時代作の薬師三尊像ですが、秘仏とされています。
太子堂
本堂の右斜め前方に三重石塔が建ち、
その奥に平安時代の天永3年(1112)に建立された太子堂があります。
兵庫県最古の建物で、国宝に指定されています。
天台宗の伽藍配置では、常行堂と対を成す「法華堂」だったと考えられています。
堂内の東側壁画に聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれていますが、
その壁画は中世から厨子で覆われて秘仏扱いとされ、
現在は国の重要文化財に指定されています。

本尊は、釈迦三尊像で、中尊の釈迦如来坐像は像高45.5cm、
平安時代後期の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
堂内には、平安時代に描かれた来迎壁、九品来迎図、仏涅槃図が残されていますが、
黒ずんでいて肉眼では図柄が確認できないそうです。
常行堂
本堂の左斜め前方に、平安時代に建立され、
国の重要文化財に指定されている常行堂があります。
元は檜皮葺でしたが、室町時代後期の永禄9年(1566)に瓦屋根に葺き替えられました。
常行堂は、正式には常行三昧堂と云い、本尊である阿弥陀如来像の周囲を、
阿弥陀仏を思いながら念仏を唱えて何十日も歩き続ける
厳しい修行が行われていました。
常行堂は、かなり格式のある天台宗寺院にしか存在せず、その遺構として、
鶴林寺の常行堂は、日本最古のものです。
三重塔
常行堂の南側に室町時代に建立された三重塔があります。
江戸時代の文政年間(1818~30)に大修理が行われ、
初層はほとんど新材で補修されました。
相輪は昭和25年(1950)に改鋳されました。
昭和51年(1976)に放火により内部を焼損しましたが、昭和55年(1980)に
解体復元修理が行われ、現在は兵庫県の文化財に指定されています。
心柱は二層目で止まり、初重の四天柱内に須弥壇が築かれ、壇上には本尊として
大日如来坐像が安置されています。
経蔵
三重塔の左奥に経蔵があり、その左側には鳥居が建っています。
石碑-1
経蔵の右側に石碑が立っています。
石碑-2
碑には地蔵菩薩が並んで現れて来る図が刻まれ、
右側に「現在未来夫人衆 吾今慇勤附嘱汝」、
左側に「以大神通方便力 勿令堕在諸悪趣」と、
「地蔵菩薩本願経」から引用されている文が刻字されていますが、
意味は理解できていません。
行者堂
鳥居の先には行者堂があります。
室町時代の応永13年(1406)に鎮守社の日吉神社として建立されましたが、
明治以降に神変大菩薩(役行者)を祀る行者堂となりました。
前面は春日造り、背面は入母屋造りで、こうした建物では最古級とされ、
国の重要文化財に指定されています。
毎年3月23日には前庭で護摩供が行われています。
新薬師堂
行者堂の右側に茶屋があり、茶屋を通り過ぎた先に新薬師堂があります。
江戸時代の中期、大坂から鶴林寺へ薬師詣でに訪れた医師・津田三碩は、
本尊の薬師如来が60年に一度しか開帳されない秘仏であったため、
目のあたりに拝むことができませんでした。
三碩は「いつでも拝める薬師様を」と、新薬師堂の建立を発願しました。
延宝7年(1679)に新薬師堂が落慶し、本尊の開眼供養が行われましたが、
三磧はこの日を待たず他界されていました。
安置されている仏像の背面から製作者と発願者である津田三碩の名が書付で
残されてはいますが、江戸時代よりもっと古い仏像ではないか...?
との疑問も残されています。
新薬師堂-堂内-薬師如来
堂内には鶴林寺の本尊よりも大きい薬師如来坐像と
日光・月光両菩薩像が脇侍として安置されています。
新薬師堂-堂内-十二神将像-1
周囲には十二神将像が安置されています。
新薬師堂-堂内-十二神将像-2
その2(右側)
新薬師堂-堂内-摩虎羅大将像
左奥の摩虎羅(まこら)大将像はウィンクする仏像として有名になりました。
講堂
新薬師堂の右側にある講堂は、研修道場となっています。
特攻隊慰霊碑
講堂の裏側には特攻隊の慰霊碑が建立されています。
この碑はかって、加古川町寺家町の中村家旅館の前に建立されていました。
中村家旅館は、陸軍の指定旅館で加古川教育飛行隊で編成された
特攻隊員が宿泊されたそうです。
聖徳太子十二歳像
講堂の先、正面に塔頭の浄心院があり、
塀の前には聖徳太子十二歳像が祀られています。
不開の門跡
12歳の聖徳太子は、恵便法師の教えを受けるためにこの地を訪れました。
太子は恵便法師を木の丸殿に招き、仏教の修学に励まれたとされていますが、
木の丸殿の門がここにあったと伝わり、「不開(あかず)の門跡」と呼ばれています。
浄心院
浄心院は境内の西端に在ることから通称「西の寺」と呼ばれています。
かって、木の丸殿があったとされていますが、江戸時代中期に全焼し、
草創よりの歴史は不詳となっています。
地蔵堂
浄心院の前に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
堂内には子安地蔵尊が祀られています。
宝生院
浄心院の東側に隣接する宝生院は、古くから鶴林寺塔頭の一つで、
古文書では16世紀初頭には「宝生坊」、17世紀中頃には「玉泉坊室宝生院」と
記されていました。
16世紀末、鶴林寺は真言宗に改宗を強いられていましたが、万治3年(1660)に
再び天台宗に戻し、中興した良盛法印が住しました。
江戸時代末期では鶴林寺塔頭八院中の一つでしたが、明治にかけて荒廃し、
一時加古郡高等小学校の教室、職員室にも流用されていました。
その後、豪盛法印によって改修、整備が行われました。
真光院
宝生院の東側に隣接する真光院は、永正12年(1515)の『鶴林寺料田惣目録』に、
二十数ヶ坊のうち「奥の坊」として記録されるのが前身で、
江戸時代以降に鶴林寺八院中「真光院」の名称で記載されるようになりました。
現在は境内の東端にあり、「東の寺」と呼ばれています。
放生池
真光院の前方に放生池がありますが、蓮の葉で覆われています。
きれいな花を咲かせ、葉の上で亀が甲羅干しをしています。
弁財天社
池の中には弁財天社があり、池の背後には宝物館があります。
護摩堂
池の前方に護摩堂があります。
室町時代の永禄6年(1563)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
三間四面、本瓦葺の均整のとれた小堂で、外部は和洋、
内部は禅宗様の折衷様式となっています。
本尊は不動明王で、堂内の中央には護摩壇があります。
観音堂
護摩堂の西側に観音堂があります。
江戸時代の宝永2年(1705)に、姫路藩主・榊原政邦(1675~1726)の寄進により
再建されました。
元来、「愛太子観音」と呼ばれる白鳳時代(645~710)の聖観音菩薩像が
祀られていましたが、明治の神仏分離令後に浜の宮神社の本地仏であった、
現本尊の聖観音菩薩像が安置されるようになりました。
白鳳時代の聖観音菩薩像は、現在は宝物館で保存され、現本尊は秘仏とされ、
厨子前に御前立の聖観音菩薩像、須弥壇の右側に善光寺如来像が安置されています。
法華一石一字塔-1
観音堂の西側に法華一石一字塔があります。
江戸時代の明和8年(1771)に建立された供養塔で、法華経の文字を一つの石に
一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提を弔ったものです。
右側には加古川観光大使・女子プロゴルファーの
ささきしょうこさんの写真が立てられていました。
法華一石一字塔-マニ車
法華一石一字塔の裏側に回るとマニ車があります。
「ふりきり石」と記され、「インドの陀羅尼が彫られていて、この石に念じ、
回すことで心にある邪念を振り落とし、新たな自分に生まれ変わる」と
解説されています。
また、「願いを叶える効果あり、回すことでより良い未来に自分を向かわせる
功徳がある」とも記載されています。
鐘楼
法華一石一字塔の北西側に鐘楼があります。
室町時代の応永14年(1407)に建立され、
梵鐘と共に国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は約千年前の高麗時代に鋳造された朝鮮鐘で、「黄鐘調(おうじきちょう)」と
呼ばれる音色を持つ名鐘とされています。
宝篋印塔
鐘楼の南側に宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔-石風呂
宝篋印塔の前に石風呂があります。
湯浴みするための浴槽で、長さ128cm、幅67cm、
現状で高さ31cmの大きさがあります。
仏足石-1
仏足石-2
境内の南側には仏足石が祀られています。

泊神社へ向かいます。
続く
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厄神明王道の石碑
阪急「門戸厄神」駅で下車して北へ進むと、次の左への丁字路の北西角に
「厄神明王道」の石碑があり、左折して西へ進みます。
地蔵堂
その先の四つ角の南東角に地蔵菩薩を祀る東光寺の地蔵堂があります。
庚申塔
更に西へ進んだ次の四つ角を南へ入った西側に
門戸の庚申塔(こうしんとう)があります。
庚申塔-2
「南無青面金剛(しょうめんこんごう)」と刻まれています。
青面金剛は、インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格です。
一般には三面六臂で、忿怒(ふんぬ)の相をし、足元に邪鬼を踏みつけ、
病魔などの侵入を防ぐ防塞の神とされ、村境や橋のたもとなどに
青面金剛を祀る庚申塔が建てられました。
庚申塔の建立は60年毎にのくる庚申の年とされていますが、
この塔は元禄16年(1703)の癸未(みずのとひつじ)年に建立されました。
智照院観音堂
四つ角から西へ進むと北側に東光寺別院・智照院観音堂があります。
観音堂には聖観世音菩薩像が安置されていますが、厨子内に納められ、
扉は閉じられています。
右側には不動明王、大日如来、弘法大師像が安置されています。
南門
西へ突き当たった所に東光寺の南門があり、駅からは徒歩約10分の距離です。
「東宮殿下御野立所」の石碑
南門の前に「東宮殿下御野立所」の石碑が建立されています。
明治44年(1911)11月20日未明から始まる陸軍対抗演習を観戦するために、
東宮殿下(大正天皇)はこの地に御座所を設けられました。
本来の御座所は東光寺より坂道を下った門戸小学校の一角でしたが、
宅地開発等により石碑が現在地に移されました。
龍の図-1
南門から道路を北へ下って表門の方へ向かいます。
塀には龍の図が描かれたパネルが張られています。
龍の図-2
令和元年(2019)の創建1190年を機に、厄神明王の眷属である龍が描かれました。
男坂
その先に42段の石段が待ち構えています。
この石段は「男坂」と呼ばれ、一段一段登ることで厄を落とす
という意味があります。
表門
石段を登ると、表門があります。
平成7年(1995)1月17日5時46分に発生したM7.3の阪神淡路大地震で全壊し、
その後再建されました。
東光寺は東光寺は山号を「松泰山」と号する高野山真言宗の別格本山で、
通称で「門戸厄神(もんどやくじん)」と呼ばれています。
摂津国八十八所巡礼・第76番の札所です。
表門-制多迦童子
門の左側には不動明王の眷属である
制多迦童子(せいたかどうじ)像が安置されています。
表門-矜羯羅童子
右側には矜羯羅童子(こんがらどうじ)像が安置されています。
不動堂
表門を入った左側に不動堂があります。
不動明王像が安置され、護摩供が修される護摩堂でもあります。
子守地蔵尊
中楼門への33段の石段は「女坂」と呼ばれ、
その登り口には子守地蔵尊が祀られています。
中楼門
中楼門
東光寺は天長6年(829)に第52代・嵯峨天皇(在位:809~823)の勅願により
薬師如来を本尊として空海(774~835)が創建しました。
薬師如来が住む浄土・東方浄瑠璃世界から光を発する寺という意味を込め
「東光寺」と名付けられました。
嵯峨天皇が41歳の厄年の時に、夢の中に愛染明王と不動明王が一体となって
あらゆる災厄を打ち払い、魔を退治する霊感を得、空海に話すと
空海はその姿の像を刻み、安置したのが東光寺の始まりとされています。
像は三体造立され、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
石清水八幡宮にも安置されましたが失われ、東光寺にのみ、残されています。
中楼門の天井
中楼門の天井には龍の図が描かれています。
厄神堂
楼門を入った正面に厄神堂があります。
愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像が安置されていますが、
秘仏とされています。
戦国時代には兵火を受け、伽藍は焼失しましたが、
厄神明王像は唯一焼失を免れました。
祈祷所
厄神堂の左側に祈祷所、その左側に大黒堂・愛染堂があります。
大黒堂・愛染堂
大黒堂・愛染堂に安置されている大黒天像は蓮の葉の帽子をかぶり、
蓮の葉に立つ姿で表されています。
愛染明王像は全身が赤色で、愛情・愛欲を表わし、
煩悩そのまま菩提心であることを悟らせ、縁結びの本尊でもあります。
祈願かえる
左側に「祈願かえる」が祀られています。
「元にかえる」、「無事にかえる」、「無くしたものがかえる」などの
祈願成就を願って祀られています。
延命魂
その左側には、「延命魂(根)」と称される樹齢800年を経た
老木の杉の根が安置されています。
高野山の奥の院、弘法大師廟への参道近くに60mの高さで聳えたっていました。
寿命を全うした杉の根を金剛峰寺から下賜されて安置されました。
輪切り
更にその左側に「延命魂」の杉の木を輪切りにしたものが祀られ
「宝輪杉」と称されています。
800年の年輪の前に年表が立てられ、平安時代からの歴史が記されています。
大師堂
向かい側に、弘法大師を祀る大師堂があります。
薬師堂
厄神堂の右側に薬師堂があります。
東光寺の本堂であり、本尊の薬師瑠璃光如来像が安置されています。
稲荷社
薬師堂から西へ進むと稲荷社があり、高安稲荷大明神が祀られています。
奥之院
左へ進むと、厄神堂の裏側に奥之院があります。
不動滝
横に滝行場の不動滝があります。
庫裡
薬師堂の右側に庫裡があり、その前に庭園が築かれています。
四国八十八ヶ所めぐり
庫裏の門を下った所に四国八十八ヶ所めぐりがあります。
中央に修行大師像、その周囲に四国八十八ヶ所の各本尊の石仏が祀られています。
神戸女学院
東光寺から南下すると、明治8年(1875)に創立された神戸女学院があります。
門の前を通っただけですが緑に囲まれた閑静な学び舎を思わせます。
但し、この画像は平成30年(2018)のもので、現在は門が工事中でした。
旧西国街道道標
その先の旧西国街道との合流点に江戸時代の文久2年(1862)に再建され、
「日本三躰 厄神明神」と刻字された道標があります。
この道標は西国街道と有馬街道といった二つの旧道の分かれ道に建てられています。

廣田神社へ向かいます。
続く
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門
内尾神社から北東方向へ、バイクで10分足らずの距離に
達身寺(たっしんじ)があります。
山号を「十九山(じゅうくさん)」と号する曹洞宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場・第25番などの札所です。
達身寺は行基(668~749)の開山と伝えられていますが、草創に関する詳細は不明です。
一説では多くの僧兵を抱える大寺院でしたが、明智光秀(1516~1582)による
丹波平定の際に焼討を受け灰燼に帰したと伝わります。
元禄8年(1695)に当地で疫病が流行し、占った結果「三宝を犯した仏罰」が原因との
判断が示され、村人達は焼討の際に山に隠され、
放置されていた多くの仏像を回収しました。
山中にあった十九山の達身堂(たるみどう)を現在地へ移して修復し、
回収した仏像を安置し、それが現在の達身寺の始まりとされています。
正徳2年(1712)に竹雲堤山和尚(ちくうんていざんおしょう)の発願により
師である円通寺の大庵清鑑和尚(だいあんせいかんおしょう)を開山として
曹洞宗の寺院となりました。

正面の茅葺屋根の建物が本堂で、元禄8年(1695)に再建されました。
本尊として阿弥陀如来像が安置されています。
毘沙門堂
本堂の右側に毘沙門堂があり、兜跋毘沙門天立像と
宝珠を持つ菩薩立像が安置されています。
宝物殿
本堂の裏側に宝物殿があり、多数の仏像が安置されています。
達身寺の本尊である阿弥陀如来坐像は像高2.3m、左脇侍は十一面観世音菩薩坐像、
右脇侍は薬師如来坐像で共に鎌倉時代初期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
他に兜跋毘沙門天立像、地蔵菩薩坐像、重要文化財、聖観音菩薩立像など
国の重要文化財に指定されている仏像12躯、兵庫県指定が34躯、
33躯と破片134点が丹波市の文化財に指定されています。

これらの仏像の大半は一木造で、兜跋毘沙門天が16躯もあるなど、
同種の仏像が多数あること、未完成の仏像があること、腹部がふくらんだ
「達身寺様式」と呼ばれる独特の様式が見られます。
郷土史家は、達身寺は仏像を造っていた工房であったと考察しています。
東大寺の古文書の中に「丹波仏師快慶」と記され、仏師・快慶(生没年不詳)は
達身寺と深い関わりがあった仏師であった可能性があります。
境内
境内には水仙、コスモスなどの花が植栽され、
丹波もみじめぐりの寺にも選定されています。

高山寺へ向かいます。
続く
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十二妃の墓-入口
清涼山心月院から北へ、標高約400mの東光山の山頂に
花山院菩提寺がありますが、山の麓に十二妃の墓があります。
十二妃の墓-門
花山法皇(968~1008)を慕い、都から弘徽殿(こきでんの)女御の位牌を奉じて
法皇を訪ねた11人女官たちは、花山院菩提寺が女人禁制のため、
山の麓に庵を結んで住み着いたとされ、
その地を村の人々は、いつしか「尼寺(にんじ)」と呼ばれるようになりました。
十二妃の墓-五輪塔
大きな五輪塔が、寵愛した女御・藤原忯子(ふじわらの しし:969~985)の墓で、
その周囲は花山法皇を追ってここまで来た11人の女御のものとされています。
藤原忯子は、永観2年(984)に入内(じゅだい)し、
弘徽殿(こきでんの)女御」と呼ばれていました。
懐妊しましたが、寛和(かんな・985)元年に17歳の若さで亡くなりました。
第65代・花山天皇(在位:984~986)はその死を嘆き、藤原兼家(929~990)らの
謀略にかかり、出家・退位しました。
琴弾坂の碑
山中へ入って登って行くと、「琴弾坂(ことびきざか)」の石碑が建っています。
女人禁制であった花山院菩提寺ですが、四丁の丁石が立つここまでは
立ち入ることが許され、ここで琴を弾き法皇を慰めた所と伝えられています。
十二妃の墓から山門が建つ八丁まで、いつしかこの坂は
「琴弾坂」と呼ばれるようになり、歩けば約20分を要します。
山門
山門には山号「東光山」の扁額が掲げられています。
花山院菩提寺は真言宗花山院派の本山で、西国三十三所観音霊場の番外、
西国薬師四十九霊場の第21番札所です。

飛鳥時代の白雉2年(651)に、インドから紫雲に乗って飛来したと伝わる
法道(ほうどう)仙人により創建されたと伝えられています。
薬師瑠璃光如来を本尊とする密教修行の聖地として創建され、
「紫雲山観音寺」と称されていました。
正暦3年(992)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、播州清水寺に登った際、
東方の山上が光り輝くのを見て訪ね、隠棲の地とし、
その後晩年に帰京するまでの約14年間を過ごしたとされています。
これに因み、山の名は「東光山」と呼ばれるようになりました。
仁王像-右
阿形像
仁王像-左
吽形像
手水所
手水所には地蔵菩薩が祀られています。
花山法皇殿
手水所から正面の石段を上った左側に花山院菩提寺の本堂の一つ、
花山法皇殿があります。
十一面観音像
堂内の中央に十一面観音菩薩立像が安置されています。
花山法皇像
右側に花山法皇像が安置されています。
弘法大師像
左側に弘法大師像が安置されています。
花山法皇廟-1
花山法皇殿の向かいに花山法皇御廟所があります。
花山法皇廟-2
御廟所内には宝篋印塔が建っています。
第65代・花山天皇(在位:984~986)は寛和2年(986)に元慶寺で出家し、
比叡山で修行した後、那智山に入り、
那智の滝壺で千日の滝籠りを行ったと伝わります。
その後、中山寺で徳道上人が「石の櫃(いしのからと)」に納めた
三十三ヶ所の観音霊場の宝印を探し出し、
270年間途絶えていた観音霊場の巡礼を復興させました。
この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十四年間、
巡礼途中に気に入った場所であるこの地で隠棲生活を送っていたとされています。
その後、京都に戻った法皇は、京都御苑の敷地内にあった花山院で、
寛弘5年(1008)2月に崩御され、
花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」に葬られました。
地蔵像
境内の北東側に幸福(しあわせ)の七地蔵が祀られています。
七体の地蔵には、家庭、そして自分が幸福になるように様々な知恵を授けてくれます。
各地蔵は、役割を象徴する“もの”を持って、救いの手を差し伸べています。
薬師堂
七地蔵の横に「瑠璃光殿」の扁額が掛る、もう一つの本堂である薬師堂があります。
薬師堂-堂内
堂内には本尊の薬師瑠璃光如来坐像、脇侍として日光・月光の両菩薩像、
その両側は十二神将像が安置されています。
池
薬師堂と花山法皇殿の間には小さな池があり、
弁財天を祀ると思われる祠があります。
修行大師像
花山法皇殿から西へ進むと修行大師像が祀られています。
荒神堂
修行大師像の西側に荒神堂があり、三宝荒神が祀られています。
三宝荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する仏神とされています。
三つの顔と六本の腕を備え、怒りの形相を示し、不浄を忌み、火を好むことから、
かまどの神として祀られることもあります。
本坊への門
その先に本坊の表門があります。
画像はありませんが、門をくぐった右側に写経道場、その奥に納経所があります。
本坊
納経所の向かいに本坊があります。
鐘楼
門の左側に鐘楼があります。
不動堂
正面に不動堂があります。
有馬富士
不動堂前を南へ進むと展望台があり、正面に有馬富士が望めます。
花山法皇は、「有馬富士 麓の霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風」と
詠みましたが、このような光景は冬の早朝に、
運が良ければ見ることができるそうです。

弥勒寺へ向かいます。
続く
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