天寧寺-山門
鞍馬口通から少し西へ進み、寺町通を南に進んだ東側に天寧寺があります。
天寧寺(てんねいじ)は山号を「萬松山(ばんしょうざん)」と号する
曹洞宗の寺院です。
傑堂能勝(けつどう のうしょう:1355~1427)が鎌倉時代(1185~1333)末期から
室町時代(1336~1573)にかけて、福島県の会津城下で創建したと伝わります。
傑堂能勝は、河内(かわち=大阪府)太守・楠木正儀(くすのき まさのり)の次男で、
正成(まさしげ)の孫に当たります。
24歳の時、戦場で左膝を負傷して出家を志したとされています。
その後、越後や東北南部、関東北部の曹洞宗の発展に貢献しました。
天正13年(1585)に伊達政宗(だてまさむね:1567~1636)が
会津に攻め入ったことにより京都へ逃れ、現在地へ移転しました。
西園寺-金森宗和の碑
門前に「松陰坊遺跡」の碑が建っています。
現在地には延暦寺末寺の松陰坊がありましたが、元亀2年(1571)の織田信長による
比叡山焼き討ちで焼失し、廃寺となりました。

また、「金森宗和」の碑が建ち、境内の墓地には金森宗和の墓があります。
金森宗和(かなもり そうわ:1584~1657)は、飛騨高山藩主・
金森可重(ありしげ / よししげ:1558~1615)の長男で、
重近(しげちか)と名付けられ、自ら槍の流派を開いたほどの武芸の達人でした。
慶長19年(1614)の大坂の陣で徳川方についた父を批判したことで
廃嫡(はいちゃく)され、母と共に宇治で隠棲しました。
後に大徳寺で禅を学び、剃髪して「宗和」と号しました。
茶の湯に秀で、茶道・宗和流を開いて
江戸幕府3代将軍・徳川家光に招かれたこともありました。
本堂には金森宗和像や、宗和が宇治の茶の木で刻んだと伝わる千利休像が
安置されているそうです。
天寧寺-額縁門
山門からは比叡山が望め、「額縁門」と呼ばれて市の有形文化財に指定されています。
天寧寺-観音堂
門をくぐると左側(北側)に観音堂があります。
天寧寺-観音堂-堂内
堂内には第108代・後水尾天皇念持仏と伝える聖観音像と、中宮・東福門院(徳川和子)
の念持仏と伝える薬師如来像の他、観音霊場の各本尊が祀られています。
薬師如来像は徳川家の家紋がある厨子内に納められているのかもしれません。
天寧寺-諫鼓鶏
その先に建つ石灯籠は「諫鼓鶏(かんこどり)」と称せられています。
鶏が鼓(つづみ)の上に乗っていますが、中国の故事に由来しています。
諫(いさめる)は「目上の人の欠点や過失を指摘して忠告すること」との意味があり、
君主が諫言(かんげん)する人々のために鼓を置きました。
しかし、君主が善政を行ったために鼓を打つ人は無く、
鳥もそれに驚いて鳴くことはありませんでした。
やがて、鼓は苔むし、天下泰平のたとえとして
「諫鼓苔深くして鳥驚かず」と形容されました。
天寧寺-中門
北側の本堂の手前には中門があります。
天寧寺-中門-菊水紋
門には楠木正成の家紋・「菊水(きくすい)の紋」の彫刻が施されています。
この家紋は、正成が忠誠を誓った第96代/南朝初代・後醍醐天皇(1288~1339)から
賜ったものとされています。
天寧寺-本堂
本堂
天寧寺は天明8年(1788)の大火で焼失し、現在の本堂は文化7年(1810)に
再建されたもので、市の有形文化財に指定されています。
本尊の釈迦如来像が安置されています。
天寧寺-カヤの木
本堂の西南に聳えるカヤの木は、樹高16.2m、胸高の周囲が4.78mあり、
市内有数のカヤの木として市の天然記念物に登録されています。
頂部には落雷の後が、幹の本堂側には天明8年(1788)の大火によると思われる
傷跡があります。
天寧寺-九重石塔
参道の先に建つ九重石塔は明智光秀の報恩塔とされています。
平成11年(1999)の本堂修理の際に、須弥壇の天井裏から光秀の位牌が
発見されたことに由来するそうです。
天寧寺-庫裡
奥に庫裏があります。
天寧寺-鐘楼
鐘楼
天寧寺-稲荷社-1
山門近くの南側に稲荷社があります。
天寧寺-稲荷社-2
まんじ稲荷が祀られています。
西園寺-山門
天寧寺の南に隣接して西園寺があり、天寧寺は京都市北区ですが、
西園寺から南側は上京区となります。
西園寺は山号を「宝樹山」、院号を「竹林院」と号する浄土宗の寺院です。
元仁元年(1224)に藤原公経(西園寺公経)により、現在の鹿苑寺(金閣寺)の
地に創建されました。
藤原公経(ふじわらのきんつね:1171~1244)は、広大な山荘
「北山第(きたやまだい)」を造営し、氏寺である西園寺を建立して、
その寺名から「西園寺」と称するようになりました。
南北朝時代の建武2年(1335)、七代目・公宗(きんむね)は、
後醍醐天皇を北山第に招き、暗殺を企てましたが発覚し、処刑されました。
その後、北山第は衰微し、足利義満に譲られました。
足利義満は応永4年(1397)に荒廃していた北山第を、
改築や新築するなどして一新し、「北山殿」と称しました。
応永15年(1408)に義満が没し、応永27年(1420)に北山殿は
義満の遺言により禅寺とされ、「鹿苑寺」と称されました。

北山殿の造営に伴い、文和元年(1352)に西園寺は上京区竹園町付近へ移りました。
天文23年(1554)に称念(しょうねん:1513~1554)により中興され、
それまでの真言宗から浄土宗へ改宗されました。
称念は、号を「三蓮社縁誉」と称し、浄土宗捨世派(しゃせいは)の祖とされています。
その後、豊臣秀吉の都市改造により、天正18年(1590)に現在地へ移転しました。
西園寺-鐘楼
門を入った右側に鐘楼があります。
西園寺-梵鐘
梵鐘は戦時供出され、4つの穴を空けて銅の質が検査されましたが、
溶解直前に終戦を迎え、寺へ戻されました。
現在でもその穴が残されています。
西園寺-本堂
本堂
本堂に安置されている本尊の木像・阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代の作で
国の重要文化財に指定されています。
像高は227.5cmで、北山第から遷されました。
西園寺-参道
本堂から北への参道脇には庭園が築かれています。
西園寺-法然上人像
参道を進むと、浄土宗の宗祖・法然上人の若き修行像が祀られています。
西園寺-妙音堂-2
参道が東へと向きを変える所に弁天堂があります。
弁財天は「妙音天」とも「美音天」とも称せられ、藤原公経が北山第に
西園寺を造営された際、妙音堂を建立して妙音天を祀りました。
西園寺家は代々天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授した宗家の家柄であり、
妙音堂が建立されてからは、琵琶の相伝も妙音堂で行われるようになりました。
その後、近世には御所内の西園寺邸に祀られていましたが、
明治以降は民間で信仰されるようになり、当地でも祀られるようになりました。
西園寺-開山堂
東へ進むと開山堂があり、藤原公経の法体姿の木像が安置されています。
西園寺-庫裡
本堂の裏側に庫裏があります。
西園寺-地蔵堂
参道を戻ると、山門の手前の北側に地蔵堂があります。
西園寺-地蔵堂-堂内
安置されている地蔵菩薩像は高さ約2mで「槌留(土止)地蔵尊」と称され、
背後の壁面には地獄・極楽図が描かれています。
恵心僧都・源信が説く「清流を土留めて」に由来するとされ、
悪事を討ち止め、善事を励ますとの意味があるそうです。
西園寺-稲荷社
その西側には稲荷大明神が祀られています。

上御霊神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村