子安観世音
京都市内から比叡山へバイクで向かうには、北白川から山中越を登り、
田の谷峠ゲートから比叡山ドライブウェイに入ります。
かっての白川村の入口には、鎌倉時代の子安観世音の石仏が祀られています。
この辺りに住んでいた女性が、四季の草花を頭上に載せて
京都市内を売り歩いていました。
彼女らは「白川女(しらかわめ)」と呼ばれ、平安時代に切り立ての草花を
内裏に献上したのがその起源とされています。
白川女はこの石仏に花を供えて商いに出るのが習わしでした。
地蔵谷不動院-不動堂への橋
白川通の「北白川別当町」の信号を右折して東へ進み、その先を左折して
白川沿いに登って行くと地蔵谷不動院があります。
地蔵谷不動院-不動堂
江戸時代の寛政4年(1792)に沙門宗の鏡法師により開創されました。
身代り不動尊
この峠道を行く旅人に多くの犠牲者が出たことにより、その安全と
京都御所の鬼門守護を祈願して、自ら不動明王像を刻んで安置したのが始まりとされ、

不動明王像は「身代わり不動尊」と呼ばれています。
地蔵谷不動院-本堂
街道の少し先に新しく本堂が建立されています。
不動温泉
向かって右側に不動温泉があります。
昭和29年(1954)に現在地に本堂が建立された際、ラジウム泉が湧出しました。
北白川付近には黒雲母花崗岩が広く分布し、その岩間から湧出する鉱泉元は
関西第1位とされ、不動温泉として無料休憩所も併設されています。
また、黒雲母花崗岩は、白色の中粒で緻密な石材で、近世まで
建造物や灯籠、手水鉢、墓石などにも広く利用されました。
しかし、昭和初期に石切場が閉山され、現在は採石されていません。
また、白川石が風化した白く美しい砂利は「白川砂」と呼ばれ、
古くから各地の神社仏閣、京都御所、天皇陵などに利用されてきました。
地蔵谷不動院-護摩壇
最上部に登ると護摩壇があり、毎年11月には、
柴燈大護摩供(さいとうだいごまく)・火渡りの祈願が行われています。
地蔵谷不動院-線描
その奥の岩に不動明王が線で刻まれています。
西尊院堂-鳥居
田の谷峠ゲートで通行券を取り、ドライブウェイに入りましたが、
仰木料金所を出る時に125cc以下の通行が禁止されていることを知らされました。
因みに二輪車の通行料金は1,680円でした。
ドライブウェイで唯一の信号がある所に「無動寺」のバス停があります。
バス停前に「大弁財天」の扁額が掛かる鳥居が建っています。
西尊院堂
鳥居をくぐると西尊院堂があります。
駒札等の説明書きが無いので詳細は不明ですが、無動寺谷の弁天堂と何らかの
関係があるように思います。
西尊院堂-展望
駐車場はありませんので路肩にバイクを停車しました。
近江大橋方面の展望が開けていましたが、朝霧で霞んでいました。
延暦寺駅
信号から先に進むとトンネルがあり、その手前を下ると無動寺の駐車場があります。
駐車場から坂本ケーブルの延暦寺駅の方へ向かいます。
駅舎は麓の坂本駅と共に登録有形文化財に選定されています。
坂本ケーブル
坂本ケーブルのキャッチフレーズは「長さも、景色も、日本一」で、
全長2,025mは日本最長であり、ほうらい丘駅と、もたて山駅の中間駅があります。
また、京都側の叡山ケーブルは、日本一の高低差561mを誇り、
二つの日本一が比叡山に集中しています。
延暦寺駅からの展望
延暦寺駅には展望台があり、琵琶湖大橋の先には沖ノ島が望めます。
一の鳥居
延暦寺駅の西側に無動寺参道があり、坂本へと下る無動寺谷に堂宇が点在しています。
「大弁財天」の扁額が掛かる鳥居が建っています。
延暦寺駅の標高は約650mで、弁天堂まで約100m下ります。
二の鳥居
しばらく下ると二の鳥居が建ち、その脇には休憩所が準備されています。
三の鳥居
更に下ると三の鳥居。
参道-急カーブ
急カーブが続きます。
閼伽井-1
閼伽井があり、手前の一般用の手水舎で、清めや喉を潤すこともできます。
閼伽井-2
明王堂から往復すると約5分の距離です。
堂入りの回峰行者は深夜2時にこの閼伽井まで来て閼伽水を汲み、
堂内の不動明王に供えなければなりません。
弁天堂-入口
その先に弁天堂へ下る参道がありますが、明王堂へ向かいます。
明王堂-入口
「無動寺本尊 不動明王」と刻まれた標石が建っています。
「無動」とは、不動とも表し、禅定(ぜんじょう)により、心が少しも乱れないこと、
また、そのような状態を意味します。
不動明王は大日如来の使者として、回峰行者を守護するとされています。
手水舎
ここにも手水舎があります。
この動物は何でしょう?
明王堂
明王堂は貞観7年(865)に建立大師・相応(こんりゅうだいし・そうおう)によって
創建され、正式には「無動寺明王堂」と称します。
天仁元年(1109)に無動寺管領に就いた寛慶(かんけい:1044~1123)によって
東塔から自立し、東塔・西塔・横川に匹敵する発言力を持つようになりました。
本尊の不動明王木造座像は、近畿三十六不動尊霊場
第26番札所本尊でもありますが、秘仏とされ、
6月23日の明王講曼荼羅供法要の時に開帳されます。
無動寺は元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで焼失し、
その後再建されましたが、江戸時代の天保14年(1843)に起こった大火で焼失しました。
現在の建物はその後再建されたもので、明王堂は回峰行者の参籠所となっています。

比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、
無動寺で勤行を済ませて深夜2時に出発し、真言を唱えながら東塔、西塔、横川、
日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30kmを平均6時間で巡拝します。
これを1~3年目は年に100日、4~5年目は年に200日行い、
5年700日を満行すると、最も過酷とされる明王堂での「堂入り」が行われます。

「堂入り」の際は、五色幕が張られて全ての扉は閉じられ、
辺りは静寂に包まれます。
入堂前に行者は生き葬式を行い、足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・
断眠・断臥の4無行に入り、行者は不動明王の真言を唱え続けます。
深夜2時に堂を出て、閼伽井へ閼伽水を汲みに行き、堂内の不動明王に供えます。
生死の境をさまよう中で、五感が研ぎ澄まされ、
一方で身体からは死臭が漂うそうです。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、

信者達に支えられ、合掌して迎えられます。
これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入ります。

6年目にはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
1日約60kmの行程を100日続けます。
7年目の最初の100日間は京都大廻りで、その行程は84kmに及びます。
比叡山中と日吉大社への約30kmの巡拝の後に赤山禅院へ下り、清水寺から
六波羅蜜寺を経て北上し、北野天満宮から東へ進み上御霊神社から下鴨神社
巡拝した後に市内で仮眠し、翌日はその逆を無動寺へと戻ります。
その100日の次の100日は再び比叡山中と日吉大社への約30kmの行程に戻り、
7年目の200日を終えて満行となります。
この7年間は、途中で離脱することが許されず、行を続けることが出来なくなった
時には自害する定めがあります。
そのため、行者は首をくくるための四手紐(しでひも)と両刃の短剣を
常時携行し、白の装束は「死出装束」と呼ばれています。
鐘楼
明王堂の左側に鐘楼があります。
鎮守社と相応和尚像
右側には山王鳥居が建ち、鎮守社として山王権現が祀られていると思われます。

その右側に回峰行者姿の相応和尚(そうおうかしょう)の像が祀られています。
相応和尚(831~918)は「建立大師」とも称され、千日回峰行の祖とされています。
承和12年(845)の15歳の時に比叡山に入り、17歳で剃髪・受戒しました。
根本中堂の本尊・薬師如来に山野の花を供えることを日課とし、約7年間続けていた
ところ、第3代延暦寺座主・円仁に認められ得度を薦められました。
その時は弟子に譲りましたが、斉衡2年(855)に藤原良相(ふじわら の よしみ)が、
自分の身代わりとなって得度する者を捜して欲しいと円仁に依頼しました。
円仁は相応を選んで得度させ、良相から一字をとって「相応」の名を授けました。
相応は天台宗で定められた得度後12ヶ年の篭山修行に入りましたが、4年後の
天安2年(858)に藤原良相の娘が重病で瀕死の状態に陥りました。
相応は円仁から命じられて修行を中断し、山から下って娘の病魔を調伏しました。
その娘は後に第56代・清和天皇の女御となり、「西三条女御」と称されました。

貞観元年(859)に大願を発し、比良山中での3ヶ年にわたる修行を誓いました。
葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)を創建し、
明王滝川上流の滝に篭り7日間飲食を断つなど厳しい修行を行いました。
しかし、貞観3年(861)に清和天皇の勅命により参内して、病魔を除き災いを祓う
とされる「阿比舎の法」を修しました。
貞観5年(863)に等身大の不動明王を刻み、貞観7年(865)にその像を安置するための
仏堂を建て、「無動寺」と名付けました。
延喜18年(918)に入滅されるまで、数々の伝承が残され、千日回峰行の満行者が
土足厳禁の京都御所で、草鞋履きで参内して加持祈祷を行うのも、
その伝承によるものです。
法曼院
明王堂から石段を下ると法曼院があります。
法曼院は本坊で、回峰行者の世話や管理が行われています。
護摩堂
法曼院から更に石段を下ると坂道となり、少し下ると護摩堂がありますが、
屋根がシートで覆われています。
現在でも護摩供が修されているかは不明です。
宝珠院建立道場
宝珠院建立道場
詳細は不明です。
大乗院
大乗院
境内には「親鸞聖人御修行舊跡(きゅうせき)」の石碑が建ち、
親鸞聖人自作とされる「蕎麦喰い木像」が安置されています。
建仁元年(1201)、この地で修行していた親鸞聖人は、夢告により
六角堂への百日参籠を行いました。
親鸞聖人は聖徳太子を敬い、太子建立の六角堂へ百日参籠を行ったのですが、
95日目の暁に聖徳太子化身の救世観音菩薩から夢告を受けました。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある
法然が住していた吉水草庵を訪ね、岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、
百日にわたり法然の元へ通い、そして法然聖人の弟子となりました。

この木像には以下のような伝承が残されています。
親鸞聖人が六角堂へ百日参籠のため、毎夜大乗院を抜け出すのを見た僧たちは
「女人の所に通っている」と噂し、親鸞聖人を懲らしめるために
親鸞聖人が出立後に全員に蕎麦を振舞いました。
親鸞聖人が不在なことを師に明かす目的でしたが、この木像が聖人の身代わりとなって
蕎麦を食べたと伝わります。
玉照院-山門
更に下ると竜宮門の玉照院があります。
玉照院は回峰行の本院となり、行者はここで寝泊まりして、ここから出立されます。
玉照院-木の根
石垣の上には巨大な切り株が...
玉照院から坂本の方へ下る道は閉鎖されています。
法曼院下の石段
弁天堂の方へ戻ります。
法曼院から下ってきた石段です。
石段脇の巨木が切り倒されていますので、台風でこの木の枝などが護摩堂の屋根に
被害を及ぼしたのかもしれません。
建立道場への登り口
弁天堂の鳥居の脇には建立道場への登り口がありますが、
立ち入りは禁止されているようです。
松林院
弁天堂の鳥居から下ると松林院がありますが詳細は不明です。
弁天堂-授与所
授与所
祈祷などの受付も行われています。
弁天堂-手水舎
手水舎
水掛大弁財天
水掛大弁財天
赤井稲荷大明神
赤井稲荷大明神
一願成就石
一願成就石の上に梵字が刻まれ、その部分を手で右転しながら真言を七編唱え、
願い事を一つ念じます。
弁天堂
弁天堂は、相応和尚により創建されました。
相応和尚が修行中に、この地に白蛇弁財天が顕れた霊地とされています。
弁財天は智慧、長寿、富という現世の願いを聞き届けるとされ、
広く信仰されています。
信者の寄進による外護(げご)により、回峰行者が支えられています。
相応和尚は修行に必要な善知識、教授の善知識(師匠)、
同行の善知識(共に修行する者)の他に修行を支援する外護の善知識が不可欠として
この弁天堂を創建したと推定されます。
弁天堂の右側
弁天堂の右側
石垣内の祠
石垣内の祠
白龍弁財天社
右、白龍弁財天社と左、宇賀神社
宇賀神は人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く姿で表され、弁財天もまた、蛇や龍の
化身とされることから習合して、弁財天像の頭頂部に乗り、
「宇賀神弁財天」とも称され、福徳の神として信仰を集めています。

駐車場まで戻り、延暦寺東塔への駐車場へ向かいます。
続く

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